05. ひげあざらし・うず雄
「あああっ!? 昨日のあざらしでねえのか、お前ぇはッッ」
背後の岩の上にあらわれたのは――そう、昨日みた巨大なあざらしの真っ黒い顔だ。ひげ・もっさり!!
度肝を抜かれて、ポトリーグはあとじさった。
真っ黒い図体をのこのこと波打たせて、あざらしは岩を乗り越え、こちらに来る。
『そう』
「いや、待てッ。何でしゃべってんだ、お前ぇはあざらしだろッ?」
ポトリーグは困惑し混乱した。けものというものは、すべからく鳴くものであってしゃべるものではないッ。
『……それの、どこが不思議なのん? つうかお前こそ、一体なんなのん』
よたよた、たぷん、あざらしはポトリーグの小舟の脇にすべり下りた。近くに来られると、ますますの大迫力だ。牡牛に間近で迫られているような恐ろしさに、ポトリーグは内心でびびりまくっている! しかしすごいひげだ、もっさり!
『けさ来たとき、この殻みたいなのん中に入って、ねむってたし。ひょっとして珍しい貝なのんかも、と思っちゃった……違うのん?』
「俺ぁ人間だ。シャナキール修道院の見習いなべ番、ポトリーグだぁッ」
ポトリーグは櫂をあざらしに向けたまま、咆えるように言った。
『にん、げ~ん』
対してあざらしは、実に平和な調子でのんびりとしゃべる。長いひげも、のんびり揺れている。
『はじめて聞いた。何それ、にんげんて……』
「は?」
『まぁいっか。助けてくれたし話ができるし、どっちみち良いやつ』
黒い巨大なあざらしは、さらに真っ黒い円いまなざしでポトリーグを見ている。
『自分、うず雄。よろしくポトリーグ』
ポトリーグは、ぱかっと口を開けて首をかしげる。
「……? 助けた、って??」
『蛇のやつらに、ぐるんぐるんにやられてたのんを、追っ払ってくれたでないのん』
「あ、ああ」
『おかげで命びろいした。ほいでお礼に、さかな持ってきたのん』
「えっ。……じゃあこの白たらを持ってきてくれたのは、あんただったのかー!」
ポトリーグはようやく、櫂を下ろす。
「ありがとな! めっちゃくちゃ、うまかったぞ」
あざらし・うず雄は豊かなひげを揺らして、ふがほごとうなづいた。
『うん、よかった。ひょっとして魚たべないのんかと思って、心配してたのん』
いかつく巨大なあざらしは、人間とはまるっきり異なるが……。それでもこいつは恐ろしいもの、悪いものではない、とポトリーグは直感する。
いや。それを言うなら、このあざらしがのびていた際におにくとみなし、あわよくば食べようと思っていたポトリーグの方が、十分に邪悪かもしれぬ。
「ほんじゃあ……。うず雄? うずっち?? 色々と教えてくれよ。ここってば一体、どこなんだ。ヒベルニアからは、遠いんかい」
『……その、≪ひべるにあ≫から来たのん? ポトリーグは』
「そうなんだ! シャナキール、っつうとこの修道院にいたんだけどよ。そこんち院長のブレンダン様が、大航海をかますって決めてー。俺も雑用めし係に、連れてこられたんだ」
思い起こせば、ひと月ほど前の話である。
幼い頃から様々な場所を転々とし、修道院の厨房に下働きとして入って間もなかったポトリーグは、ある朝ちょっくら行っといで~と料理長に鍋を渡された。
何のお使いであろうか、と首をひねりつつ一同について、最寄りの浜に着くと。
そこで小さな皮の舟の中に、修道士の兄さんたちとともに詰め込まれたのである!!
ポトリーグは何が何やら、さっぱりわからなかった。わからぬまま、ああしろこうしろと矢継ぎ早に飛んでくる修道士たちの指示に、いえっさと従い続けて櫂をこいだ。
いくつもの停泊地を経て、海の様相も、見える陸地も変わってゆく。
ダルリアダ王国に入ったと聞かされてびびり、羊だらけの≪ひつじの島≫で北からの寒風にふるえ上がったもののすぐに慣れ、ほうほうの体でトゥーレにたどり着いてから~のさかながうまかった。
「けど、よーう! そのトゥーレで、氷がいっぱいの海を渡ってるうちに、他の皆とはぐれちまってさあ」
『お母ちゃんとか、から?』
「ちげーよ、俺みなしごだっての。母ちゃんはずうっと前にどっか行っちまったし、顔もおぼえてねえ。残されたのは、つづりのまちがってる名前っきりだ」
ヒベルニア島に神の福音をもたらした大聖人にちなみ、母親は≪ポドリーグ≫と名付けるつもりだったらしい。しかし公に届けられた名は、ポトリーグと大幅に綴りが間違っていた。
PádraigのはずがPotraig。
そう、少年の名の中には、お鍋が入っちゃったのである。
『群れからはぐれて、迷子なのん? かわいそう、まだ子どもなのんに』
「けっ、がき扱いすんじゃねぇや。たしかに成人しちゃいねえが、自分の落とし前くらいはつけられるってぇの」
寂しそうに眼を細めた黒いあざらしに向かって、ポトリーグはいきがってみせる。
「それでー。氷の海の上で、野営できるところはねえもんか、って皆と探してて。とりあえず大きな島っぽい氷の上に、皆で小舟のりつけて上陸したんだよ。そしたらいきなり、どっっっか――ん!! って、空と海が割れてなぁあああ!?」
『何それぇっっ』
あざらしは円く黒い眼をひんむき、ひげを震わせてポトリーグ談にくいついてきた!




