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奇跡だと思ったら、ガスだった-潮見岬・祭りの夜の実録-  作者: NOVENG MUSiQ


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6/6

第6話 09:00 削除――止まらない記録、戻された赤ブイ

 廊下の蛍光灯が、幽斗の影を長く引き延ばす。印刷室から戻る道すがら、彼はエレベーター前に(たたず)む。下の階の騒音が、天井を伝ってかすかに響く。エレベーターのドアが開き、中から一人の女性が現れる。汀原 さよだ。彼女はエレベーターを出ると、すぐに幽斗の姿に気づいた。その顔に、会見の時とは違う、もう一段階深い青さが浮かぶ。

 汀原「…印刷室からですか」

 幽斗は、ただ頷く。彼のジャケットの内ポケットに、USBメモリの冷たさが感じられる。汀原は、幽斗の目を見る。その瞳は、もはや何の感情も映していない。


 汀原「あなたの記事が今出れば、救護費(きゅうごひ)の執行や現場の動線が止まります。最悪、誰かが死ぬかもしれません」

 汀原の言葉は、廊下の人工的な光の中で、鋭いガラス片となって幽斗の胸に突き刺さる。それは脅迫ではない。警告だった。そして、彼女自身の恐怖の告白でもあった。彼女の視線が、幽斗のジャケットの内ポケットに触れる。その胸に、何かが隠されていることを、彼女は知っていた。

 幽斗は、何も答えずにエレベーターに乗り込む。

 幽斗「見出しで救われたことは、一度もない」

 金属の箱が、幽斗の背後で静かに閉まる。その閉ざされた空間に、汀原の言葉がかすかな残響として残る。「誰かが死ぬこともあります」。その言葉は、もう彼を傷つけることはない。幽斗は閉ざされた空間の壁に、自分の映る姿を重ねる。その姿は、ただの記録機械だった。

 エレベーターのドアが開く。ロビーに出ると、深夜のガードマンが不審そうな目で幽斗を見ている。幽斗は無視して、ビルの自動ドアを(くぐ)り抜ける。冷たい夜の空気が、彼の肺を満たす。彼は、路地に隠れるように、路肩に停めた自家用車に乗り込む。


 車内は密閉された空間だった。彼は、ダッシュボードの上にノートPCを置く。起動。USBメモリを指す。画面に『証拠』フォルダが開かれる。フォルダ内のファイルリストが、無機質な現実を列挙する。『潮見祭事故_構造的因果_可視化報告書.docx』。『TIDAL_20251026_18410850.png』。『EDIT_LOG.txt』。

 幽斗は、報告書の文面を再度、点検する。全ての数値が揃っている。K-Rev.03 kohwan/2025-08-04とK-Rev.05 hozen/2025-10-03の対比。監視カメラID: C-12。18:32-18:35の操作ログ。北東6.1m/sの風。18:42の転落。DO 4.2 mg/L。M-SR-2025-1026-03の撤去申請。M-OE-2022-11-04の通知。誰かの感情や意図は、これらの数値に吸い込まれ、もはや記述の対象ではない。主語は、常に『手順の欠落』だ。


 朝の光が、車のフロントガラスに差し込む。幽斗は一夜を明かした車内で、目を開ける。エンジンは止まっている。ダッシュボードの上に置かれたノートPCの画面には、昨日の深夜にアップロードされた匿名ファイル共有サイトのページが表示されている。そのページには、彼が作成した『潮見祭事故_構造的因果_可視化報告書.docx』が、白黒の文字列として(つら)なっていた。その下には、昨夜に公開されたばかりのニュースサイトの一面が、別のウィンドウで表示されている。見出しは、彼が指定した通りのものだった。『満ち潮が奪ったもの』。

 幽斗は、スマートフォンの電源を入れる。画面に、無数の通知が溢れる。編集長からの不在着信。数十件の知人からのメッセージ。そして、彼が最も確認したかった、寄付サイトのページだ。その画面上部には、昨日まで輝いていた『240 %』という数字は消え、代わりに赤い文字で『寄付は一時停止』と表示されていた。その下には、小さな文字で『寄付金の返金手続きにつきましては、追ってご連絡いたします』と書かれていた。

 幽斗は、車のドアを開ける。朝の冷たい空気が、彼の衣服の隙間から流れ込む。彼は、海岸沿いの道を歩き始める。遠くに、潮見岬の灯台が見える。昨日まで、祭りの喧騒で満ちていた岬は、静まり返っている。遊歩道には、人の気配はない。その静けさは、まるで廃墟のようだった。


 海は何事もなかったように満ち引きを続ける。幽斗は遊歩道のタイルの上に立つ。昨日、人々が倒れ込んだ場所だ。そのタイルにはもう人の気配も、汗の臭いも残っていない。ただ、朝の冷たい光が、その表面を白く照らしているだけだ。彼の足元には、消波ブロックの隙間が見える。Aが消えた場所だ。そこから、穏やかな潮の音だけが聞こえる。それは、昨日と同じ波の音だった。

 幽斗は、海岸線の先にある取水路ゲートNo.2へと歩を進める。そのゲートは、閉ざされたままだった。灰色の鉄の扉。その表面には、サビと塩の跡が残っている。幽斗は、そのゲートの番号が記されたプレートに指で触れる。その金属の冷たさが、彼の指先から伝わる。昨日、ここから、何かが解き放たれた。その事実だけが、変わりなく残っている。

 幽斗は、カメラを構える。ファインダーを覗くと、その視界の隅に、昨日撮影したAが転落する直前の一枚の写真が、薄く残像のように焼き付いている。18:41:08.50。そのタイムコードが、彼の脳裏に浮かぶ。彼は、シャッターを切る。今朝の、静まり返った取水路ゲートを記録する。そのカメラの内部メモリに、新たな断片が、冷静な事実として、蓄積されていく。


 赤色監視ブイは、潮の流れに逆らうように、ゆっくりと元の定点へと移動していた。小型作業船のクレーンが、チェーンを繋いだブイの胴体を優しく持ち上げる。水切り音が、静かな朝の空気に鋭く響く。

 幽斗は、その光景をカメラで捉える。昨日まで異常な光を放っていた単眼は、ただの赤色の塗料に覆われた計器の塊だった。その機能は、あくまで『目』。監視する。記録する。光学的に見る。解釈や感情は、そこには存在しない。

 作業船の甲板で、一人の作業員がブイの側面に取り付けられたパネルを点検している。彼は防水ケースを開き、内部の基盤に触れる。その動作は、まるで医師が患者を診察するようだった。その横で、上司らしき男が何かを指示している。その声は、風に乗ってかすかに届く。『昨日の記録は、全て消せ』。上司らしき男が何かを指示している。口の動きは、そう告げているように見えた。

 幽斗は、シャッターを切る。彼のカメラの内部メモリに、ブイが規格位置へと戻される瞬間が記録される。そのデータは、県庁の海洋気象観測システムにも、新たなログとして書き込まれるだろう。昨日のデータは上書きされ、欠落する恐れがある――そう思えた。監視ブイは、再びただの『目』となる。海を見る。潮位を見る。風速を見る。しかし、その光が捉えた昨日の異常な光景は、もう誰の目にも映らない。

 幽斗は、カメラのファインダーから目を離す。その視界には、水平線の上に昇った太陽が、海面に長い光の道を描いている。昨日うねっていた水面は、今日は穏やかで、まるで何事もなかったかのようだ。しかし、幽斗は知っている。その穏やかな光の下で、赤いブイが静かに定点を守る光景は、すでに作り直された現実だということを。彼はカメラの電源を切る。その静寂が昨日のノイズを、そしてこれから来る沈黙を際立たせる。救済は不在、記録は続く。


 幽斗は車に戻る。ダッシュボードのノートPCを起動する。昨日の深夜にアップロードされた匿名ファイル共有サイトのページは、もうアクセス不能になっていた。『ファイルは削除されました』という一文が、白い背景に黒く表示されるだけだ。幽斗は、その画面をスクリーンショットで保存する。

 ファイル名は『DELETED_20251027_0900.png』。彼は、その画像を自分のスマートフォンに送信する。そして、その画像をスマートフォンのホーム画面に設定する。彼はただ、手順を実行するだけだ。

 彼は、スマートフォンの電源ボタンを押す。画面が消える。そして再度、電源ボタンを押す。ロック画面が表示される。その中央に、昨日の深夜のニュースサイトの一面が、見出しと共に表示されている。『満ち潮が奪ったもの』。その下には、彼が指定した数値が、冷厳な文字列として並んでいる。


18:41:08.50(転落)/18:42(通報)/ゲート No.2/C-12/NE 6.1 m/s/DO 4.2 mg/L

その画面は、彼の指が触れる度に毎日、何度も彼の目の前に現れるだろう。

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