第5話 証拠のUSB――EDIT_LOG、6.1msの風、1.2mの到達
幽斗はキーボードに戻った。編集部の蛍光灯が、モニターの光に吸い込まれていく。彼の指先が、県の海洋気象観測システムの過去ログに触れる。18:32:00。ゲートNo.2、手動開。18:32:03。北東の風、6.1m/s。
幽斗のデスクのモニターに、二つのグラフが並んでいる。一つは港の監視ブイが記録した風向・風速の1 s間隔データ。もう一つは、灰神が提出したゲート操作の秒単位ログ。幽斗はスプレッドシート上で、二つのデータを重ね合わせる。18:32:00。ゲート開。18:32:03。北東風、6.1m/s。
18:33:10。風速、瞬間的に6.4m/sに上昇。18:33:12。ゲート開度、30%に到達。幽斗の計算式が走る。風速×経過時間≒到達距離(単純移流の概算)。その結果が画面の右下に表示される数値は、遊歩道の路面高さ、1.2mと、驚くほど一致した。
USBメモリがデスクの上に置かれた瞬間、周囲のノイズが途絶えた。それは、雑多な編集部の空間とは全く異質な存在だった。黒いプラスチックの塊。その重さは、目には見えないある出来事の全重量を秘めている。幽斗は指先でその角に触れる。
USBのファイルを開く。ファイル名は「TIDAL_1026_FULL.MP4」。サイズは7.2GB。幽斗は再生ボタンを押す。画面に映るのは、先まで見ていた配信アーカイブと同じ光景。18:41:06。高校生の甲高い声が聞こえる。幽斗は、タイムコードを注意深く見つめる。18:41:07.90。配信者の手が欄干のそばを指さす。
幽斗は、フレームを一つずつ進める。18:41:08.10。配信者の口が「あっ、危」と動く。その瞬間、画面の隅にAの姿が映り込んでいる。彼はよろめき、欄干に手を掛けようとしている。18:41:08.40。Aの足が滑る。18:41:08.50。Aの体が半回転し、消波ブロックへ消える。その直後、Bの悲鳴が聞こえる。18:41:09.00。
幽斗は、再生を停止する。画面には、Aが転落する直前のフレームが表示されている。彼の顔は恐怖に歪み、口を開いている。その背景には、水面がうねり、虹色の光が揺らめいている。幽斗は、その光景を5倍に拡大する。画面のピクセルが粗くなるが、Aの指先が欄干からわずかに離れているのがわかる。
幽斗は、スクリーンショットを保存する。ファイル名は「TIDAL_20251026_18410850.png」。彼は、そのファイルをデスクトップ上に作成した『操作』『環境』『誘導』の三つのフォルダが並ぶフォルダ、その最後に『証拠』と名付けたフォルダにドラッグ&ドロップする。USBの中に、テキストファイルがもう一つあった。ファイル名は『EDIT_LOG.txt』。幽斗はそれを開く。そこには、以下の文章が記されていた。
EDIT_LOG.txt
- 18:41:07.90 → 18:41:08.50 (フレーム欠落: 約0.6秒)
- 目的: 視聴者の混乱を避けるため
- 理由: 配信者C氏の転落瞬間は、配信の主旨である『潮見祭の幻想的な光景』と逸脱するため
- 担当者: 配信者本人
- 日時: 事故後、1時間30分
幽斗は、そのテキストファイルの内容をコピーし、『証拠』フォルダ内に新しく作成したWord文書に貼り付ける。文書のタイトルは『潮見祭事故 報告書(案)』。幽斗は、その下に、以下の文章を打ち込む。
報告書(案)
1. 事故発生時刻: 18:41:08
2. ゲート操作時刻: 18:32-18:35
3. 風向・風速: 北東 6.1m/s(18:33:10、瞬間6.4m/s)
4. 溶存酸素濃度: 4.2 mg/L(18:37、港内監視ブイ ST-3)
幽斗は報告書(案)に続けて、箇条書きで事実を追加していく。その指先は、もはや震えていなかった。
5. 転落: 18:41:08.50/第1通報: 18:42。浮き具は、遊歩道西側30m区間で前日より一時撤去済み。K-Rev.03 kohwan/2025-08-04 記載。
幽斗はキーボードに戻る。報告書(案)の箇条書きは、刻一刻と肉付けされていく。カーソルが点滅する度に、新たな事実が冷厳な文字列となって画面に刻まれる。
6. 救命体制の不全: AEDは波止場事務所から仮設テント西口へ移設済み。移設完了は当日14:00。連絡文書番号: M-SR-2025-1026-03。通報後の救急車到着は18:58。誘導路となる遊歩道はケーブル防護柵で狭窄。軽傷者の搬送を阻害。
彼はペンを握る。USBからコピーしたEDIT_LOG.txtの内容を、報告書の最終項目として追加する。
7. 情報操作の意図: 配信動画の編集ログに基づき、事故発生0.6秒前の注意喚起を削除。担当者は配信者本人。
幽斗は、ここまでの文章全体を選択し、コピーする。彼は、県庁の海洋環境課のホームページを開く。そのサイトの隅に、『海洋安全に関する技術指導・通知文書検索』という項目がある。幽斗は、そこにアクセスし、過去5年分の通知をキーワード『取水路』『ガス』で検索する。200件のヒットのうち、最も新しいものをクリックする。文書番号: M-OE-2022-11-04。タイトルは『港湾施設における堆積泥ガス対策に関する指導通知』。その第3条には、以下のように記されていた。
第3条: 事業者は、堆積泥による硫化水素等の発生が予測される場合、H₂Sセンサー等の監視装置を設置し、常時監視体制を確立しなければならない。
幽斗は、その文章をコピーし、報告書(案)の8番目の項目として貼り付ける。
8. 行政の不作為: H₂Sセンサー未設置は、M-OE-2022-11-04に違反。平成30年度(2018年度)予算案で凍結。
幽斗は、ここまでで完成した報告書(案)を、『証拠』フォルダに保存する。ファイル名は『潮見祭事故_構造的因果_可視化報告書.docx』。彼は、そのファイルを、USBメモリにコピーする。USBメモリをデスクの上に置く。
幽斗は、自分の携帯電話を手に取る。編集長の番号を入力し、発信ボタンを押す。電話は、すぐに繋がった。編集長の声は、眠気と苛立ちが混じり合い、擦り切れていた。
編集長「なんだよ、こんな時間に」
幽斗「特集を止めろ」
編集長「…何を言っている。印刷はもう始まっているぞ」
幽斗「表紙を『満ち潮が奪ったもの』に変更し、以下のURLの文書を一面に全文掲載しろ。内部告発として扱う」
幽斗は、自分のPCで生成した報告書をアップロードした、匿名ファイル共有サービスのURLを、編集長に伝える。
編集長「…幽斗、自分が何を言っているか分かっているのか」
幽斗「寄付サイトの集金停止を、明記しろ。時刻は明日の朝9時。それが遅ければ、私は他社に売る」
幽斗は、電話を切る。彼は、自分のカメラの内部メモリに保存された、事故当日18:42の一枚の写真を開く。欄干から消えゆくAの姿。その画面を、デスクのモニターの隅に固定する。
幽斗は、自分のパソコンの電源を落とす。編集部の喧騒が、再び彼の世界に流れ込んでくる。だが、その音は、もはや彼の耳には届いていない。彼は、自分のデスクの上に置かれた、黒いUSBメモリを握りしめる。
幽斗は編集部の空間から立ち上がり、その場の熱気を背中に感じながら印刷室へ向かう。回転している輪転機のオイルとインクの匂いが鼻腔を刺激する。彼は既にアップロード済みのURLを再確認し、修正を加える。テキストに新たな行を追加する。『行政指導の文書番号M-OE-2022-11-04の第3条違反、及びH₂Sセンサー未設置。予算は平成30年度で凍結。』。
幽斗は自分の携帯を取り出し、編集長に再度メッセージを送信する。
幽斗『連絡文書番号: M-SR-2025-1026-03。この番号を本文に挿入しろ。時刻は18:42。ゲートはNo.2。監視カメラはC-12。風速はNE 6.1m/s。DOは4.2 mg/L。これらの数値を、一つも欠かさずに記載しろ。』
幽斗はメッセージを送信し、その場を離れる。印刷室の外に出ると、彼は廊下の窓に映る自分の姿を見つめる。その顔は、もはや何の感情も浮かべていなかった。彼は、自分のデスクに戻り、黒いUSBメモリを手に取る。
彼は、そのUSBメモリを、自分のジャケットの内ポケットに深く押し込む。その感触が、冷たい塊となって彼の胸に沈んでいく。彼は、自分のデスクのモニターに映し出された、Aが転落する直前の一枚の写真を見つめる。その画面の隅には、18:41:08.50というタイムコードが、冷厳な光で輝いている。




