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奇跡だと思ったら、ガスだった-潮見岬・祭りの夜の実録-  作者: NOVENG MUSiQ


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第4話 0.6秒の空白――編集済み配信と“寄付240%”の圧

 会見の熱気がひとしきり冷めると、幽斗は編集部に戻った。モニターの光が、彼の顔を青白く照らし出す。デスクの上には、会見で配布された資料が二つ並んでいる。一つは保全会社、灰神が示した最新版の導線図(K-Rev.05 hozen/2025-10-03)。もう一つは、役場から配布された救護ステーションの変更を記した連絡文書。幽斗は二つの資料を、わずかに指で押し離して並べる。そして、自らのノートを開く。そこには、事故前に網手から見せてもらった旧版の導線図(K-Rev.03 kohwan/2025-08-04)がスケッチされ、浮器具の一時撤去というメモ書きが添えられている。三つの断片。それらは、それぞれの紙の上で孤独な事実を語り続ける。


 幽斗はデスクの上で指を動かし、配信者によって投稿された動画のアーカイブを再生する。画面に映るのは、事故直前の遊歩道。カメラはぶれ、高校生の甲高い声が興奮に満ちて響く。幽斗は、再生速度を0.5倍に落とし、画面隅のタイムコードに集中する。18:41:07。高校生が右腕を伸ばし、欄干のそばを指さす。その時、彼の口が動く。「あっ、危ないね」。その声は、配信には乗らなかったかもしれないが、リップリーディングでは読み取れる。しかし、その瞬間の映像が、アップロードされたバージョンからは切り取られていた。編集の跡が、18:41:07.90 → 18:41:08.50 に**間のフレームが欠落**(約0.6秒)している。幽斗はその部分を拡大し、スクリーンショットを保存する。その画像が、デスクの上の他の資料――旧版導線図、新版導線図、救護ステーションの変更通知――と並ぶ。新たな断片。それは、自己保身と無知が生んだ、**意図的編集が疑われる**痕跡だった。

 幽斗の耳に、広告部長の声が届く。


 広告部長は、その光景を許せないとでも言うかのように、幽斗の肩へ手を伸ばしかけ、机に写真を叩きつけた。彼の吐く息は、眠気とコーヒーが混じった酸っぱい匂いがする。

 広告部長「寄付サイトの広告主が、事故の報を知って逃げ出しているんだ。『奇跡』の話で、イメージを塗り替えろと本社から圧力がかかっている。幽斗、君のカメラが捉えたあの光は、我々の『救い』だ。表紙を『満ち潮が奪ったもの』なんて、掘り返してやる気か」


 幽斗は広告部長の腕を無言で払い除ける。その眼差しは、氷のように冷たい。広告部長は舌打ちし、踵を返して去っていく。その背中に、幽斗は何も言わなかった。彼の視線は、再びデスクの上の断片に戻る。広告部長が置いていった『奇跡』の写真と、幽斗が並べた旧版の導線図。二つの現実が、数センチの距離で対立し、互いの存在を否定している。その間に、幽斗の悔恨が橋を架けようとするが、指先は痙攣するように震え、線を引くことすらできない。彼はスマホを手に取る。かすかな音を立てて繋がれた先の声は、疲労と海風で擦り切れていた。網手 剛だ。

 網手「保険の話で揉めてる。役場も保全会社も、自分たちの責任じゃないと。遺族には『見舞金』という名目で支払うつもりらしい。そっちの方が、早いからって」

 幽斗「見舞金で、終わらせるのか」


 幽斗のスマホから聞こえる、漁港の寂しい波音。その音が、網手の言葉の後に重く沈んでいく。『見舞金』という言葉が、まるで海に捨てられたガラスの破片のように、幽斗の耳の奥で冷たく光った。彼は黙ってスマホを置き、デスクの上に広がる断片群を見つめる。旧版導線図の上に、灰神が示した新版導線図を重ねる。『祭期間の操作は避ける』という**改訂で消えた**一行が、暗闇のように沈む。幽斗はその上に、配信者の編集が疑われるスクリーンショットを載せる。自己保身という名の、もう一つの闇。断片は、互いに触れようともせず、それぞれの沈黙を守っている。

 汀原「幽斗さん」

 静かな呼びかけに、幽斗は顔を上げる。役場の臨時支部から戻ってきたばかりの汀原 さよが、彼のデスクの横に立っている。彼女の顔は会見の時よりもさらに蒼白で、カバンを握る指先が力なく白くなっている。編集部の喧騒が、奇妙に二人の周囲だけを静めさせていく。汀原は幽斗のデスクに視線を落とす。その上に広がる、導線図とスクリーンショット。彼女はそれらを認識すると、一瞬だけ息をのんだ。そして、彼女の声は、まるで細い糸のように震える。

 汀原「…ご無沙汰しております。編集部は、お忙しいのですね」

 幽斗「…何か用か」

 汀原「いえ。ただ…」

 彼女は言葉を詰まらせる。周囲の記者たちが気配を感じ取ったのか、遠慮がちに視線を逸らし始める。その沈黙が、かえって彼女を追い詰めるように見えた。汀原は大きく息を吸い込み、幽斗の目を真っ直ぐに見た。その瞳には、役人としての建前と、一人の人間としての痛みが混沌と混じり合っていた。

 汀原「…今出せば、**240 %の寄付が凍って救護予算も止まる**。だから今は、動かないで」

 その言葉は、命令ではなく、嘆願(たんがん)だった。幽斗は、その声の底にある苦悩を感じ取った。責任を追及する側、追及される側。そのどちらにも属さない、彼女の立場の痛み。汀原は、さらに低い声で続ける。

 汀原「監視カメラ(ID: C-12)の映像は、保全側が『客観的記録』としてプレスに配布しました。作業日誌の時刻(18:32-18:35)と、溶存酸素の数値(4.2 mg/L)も、彼らのレポートの中では『許容範囲内の変動』として処理されています。私が何かを言っても、それはただの『主観』として、あなたの記事の論理を弱めるだけです」

 彼女は自分の胸を指さす。その動作は、自分の立場の無力さを自覚しているかのようだった。そして、彼女の視線が、幽斗のデスクの隅に置かれた、配信者の映像スクリーンショットに触れる。その目に、恐怖のようなものが浮かぶ。

 汀原「…寄付サイトの240 %。この数字は、すでに市民の希望になっています。それを崩すことは、町に虚無を与えることです。だから…だから、お願いします。今は、静観を」

 幽斗は何も答えなかった。彼はただ、汀原の震える唇を見つめていた。その唇は、これから何を隠し、何を犠牲にするのかをすでに知っていた。汀原は深くお辞儀をすると、静かにその場を去っていく。その背中には、役所という巨大な壁がのしかかっているように見えた。


 汀原の消えた後、幽斗のデスク周りの音だけが、以前の騒がしさを取り戻す。だがその喧騒は、幽斗の世界からはさらに遠のいていく。彼は自分の指が、まるで他人のもののように動くのを感じながら、デスクの隅に置かれたノートを手に取る。空いたページに、ペン先が置かれる。その音は、周囲のキーボードの打鍵音にまったく混じらない、異質な響きだった。幽斗の意志を介さず、指は動き、ページの左側に一つの円を描く。その中に、彼は小さく『操作』と書き込む。灰神が差し替えた導線図(K-Rev.05 hozen/2025-10-03)、苫築が強調した寄付プラットフォームの数字240 %。それらが、意図的な営みとして、その円に収まる。

 ペンは移動し、ページの右側にもう一つの円を描く。今度は『環境』。H₂Sセンサー未設置の過去、溶存酸素濃度の異常低下(4.2 mg/L)、そして硫黄の匂い。それらは、誰の意志とも無関係に、あるいは誰の無関心かによって、静かに進行した崩壊の記録だ。幽斗は、ペン先を強く押し付け、二つの円を結ぶ線を引こうとする。しかし、その手が止まる。彼は、線を引かず、ページの中央に、最後の円を描いた。その円の中に『誘導』。配信者が削除したであろう警告、AEDの移設、そして消えた浮き輪。個人の善意や無知が、意図せずして悲劇を加速させた。


 K-Rev.03 kohwan/2025-08-04/K-Rev.05 hozen/2025-10-03/配信SS(18:41:07 欠落0.6 s)

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