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奇跡だと思ったら、ガスだった-潮見岬・祭りの夜の実録-  作者: NOVENG MUSiQ


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3/6

第3話 会見19:15――『与える』の美辞とDO 4.2 mgL

━━幽斗は背後で鳴り響く編集部の熱気を、まるで他人事(ひとごと)のように感じていた。キーボードを叩く音、電話の呼び出し音、デスク間を走り回る記者の足音。そのすべてが、厚い硝子を(へだ)てように、音が鈍い。幽斗のデスクの上には、A4用紙に印刷された二枚の写真が置かれている。一枚は、遊歩道のタイルに倒れ込むBの姿。もう一枚は、スマホ画面に映る、穏やかな海面に浮かぶ虹色の光。二枚の写真は、わずか数センチの距離を隔てている。


 役場臨時支部の仮設棟には、カメラのフラッシュが嫌なほど反射する白い壁と、役人たちの緊張した汗の臭いが充満していた。幽斗は後ろの(すみ)の席に腰を下ろし、取材陣のざわつきを吸い込むように聴いていた。中央のテーブルに、潮見市(しおみし)の危機管理担当、汀原 さよが着席する。彼女の背筋はまっすぐに伸び、準備された原稿の上に置かれた指先が、かすかに震えている。

 汀原「本日の午後6時40分頃、潮見岬第2遊歩道にて転落事故が発生いたしました。19:15 現在、死者1名、重傷者3名、軽症者9名となっております。犠牲になられました方には、心よりご冥福をお祈り申し上げます」

 彼女の声は、慎重なイントネーションで区切られ、一語一語が公式発表という重みを持って響く。取材陣のカメラが一斉に彼女を(とら)える。幽斗は、その光が汀原の顔を蒼白に浮かび上がらせるのを見た。


 幽斗のデスクのモニターに、喧騒の波紋が幾重にも重なっていく。SNSのトレンドには『#潮が与えてくれた』のハッシュタグが輝き、寄付サイトの目標達成率を示すグラフは、誰かの過ちによって操作されたように不自然な曲線を描いて240 %に張り付いている。デマの奔流(ほんりゅう)。真実は、その流れの中に漂い、見る影もなく変形していく。幽斗はマウスのホイールを回し、次々と更新されるコメントの山を眺める。『奇跡の風』『浄化の光』『自然の摂理(せつり)』。祈りの言葉が、まるで毒のように拡散している。その片隅に、かろうじて残る『AEDがなかった』という証言。その文字は、たちまち『ネガティブ拡散』という非難のコメントに呑まれていった。

 編集長「幽斗!君が撮ったあの光の写真、表紙に使わせてもらうぞ!」

 編集長の声が背後から飛び込む。幽斗は答えず、黙ってキーボードを叩く。入力済みの見出し『奇跡の満ち潮、若者救う』。その文字の並びが、目に針で刺さるような痛みを与える。幽斗は削除キーを押し、一度にすべて消す。そして新たに打ち込む。『満ち潮が奪ったもの』。カーソルが、その文字列の最後で点滅している。幽斗は、その点滅が、Bの苦しげに(つぶ)った目のようだと感じた。


 記者会見の熱気が冷めかけたプレハブの中で再び燃え上がった。現れたのは、紺色のスーツをまとった苫築 凌だった。彼はステージに立つや否や、自信満々にマイクを手に取る。報道陣のフラッシュが彼を真っ白に照らし出す。その横顔は、まるで勝利を宣言するボクサーのようだった。

 苫築「皆様、悲痛なニュースに心を痛めております。しかしながら、この悲劇のただ中に、私たち潮見市の素晴らしい精神性が光る瞬間もありました」

 彼の声は、計算された抑揚(よくよう)で会場に響き渡る。幽斗は、その声の底にある嫌なまでの滑らかさを感じ取った。苫築は身振り手振りを交え、スピーチを続ける。

 苫築「寄付サイト『海へ与えよう』。本日21:00 現在、目標額の240 %を達成いたしました。この数字は、単なる寄付金額ではありません。市民の皆様が海へ与える、この町へ与えるという温かい気持ちの現れです。与える気持ちが信頼の網となり、私たちの町を守るのです」

…と結んだが、具体的な再発防止策の言及はなかった。


 苫築の言葉が、会場の空気を支配する。与える。守る。信頼。美しい言葉が、悲劇の本質から人々の目を逸らさせる。幽斗は、その言葉の裏にある、何かを隠そうとする熱意を感じ取った。記者たちが一斉に質問を浴びせかける。

 TV局記者「苫築氏、ゲート開放の時刻について説明をお願いします。事故との関連は?」

 通信社記者「投げ輪の撤去、事前の告知はなかったのですか?」

 苫築は穏やかに笑い、手のひらを下に向けて静めるジェスチャーをする。その動きは、巧みに質問の先鋭さを鈍らせる。

 苫築「お答えします。ゲート開放は、堆積泥のガス抜きという観点から、保全会社の専門家が定期的に実施している試験運用です。本日は18:32-18:35の間、ゲートの短時間の開放を行いました。これは、潮見祭のPRも兼ねたもので、安全性は万全を期しております」

 幽斗は、彼の言葉に違和感を覚えた。灰神の作業日誌には『試験開放』と書かれていた。苫築は『試験運用』と言った。


 苫築は、質問の矛先が自分自身に向かうのを巧みにかわし、保全会社の専門家の肩書を盾にしていた。幽斗は、彼の紺色のスーツの袖口が、カメラのフラッシュに白く焼きつくのを見ていた。その白さが、作り物の安心感のように感じられた。

 その時、会場の後ろから一人の男が前に進み出る。灰神 徹だった。彼は薄い笑みを浮かべ、手元に用意したファイルを広げる。その動作は、まるで演劇の舞台装置のように練習済みのようだった。

 灰神「お答えします。ゲート開放に関する安全性については、弊社が作成した安全計画書に基づき、慎重に対応しております。最新版では、祭期間中の操作を想定した上で、誘導体制の強化を盛り込んでおります」

 幽斗は、灰神の言葉に更なる違和感を覚える。灰神が示したファイルは、確かに最新版のものだろう。しかし、幽斗が網手から見せてもらった計画書のコピーには、はっきりと書かれていた。『祭期間の取水操作は避ける』という但し書き。旧版の記号、K-Rev.03 kohwan/2025-08-04が記されていた。灰神が示した最新版、K-Rev.05 hozen/2025-10-03からは、その一文が消えていた。計画書の版番号が、静かに真実を書き換えていた。

 灰神「また、監視カメラの記録(ID: C-12)を確認いたしましたが、18:32-18:35の間、ゲート周辺に異常は確認されません。転落事故は、個人の不慮の出来事と判断しております」


 灰神の自信に満ちた言葉が響いた直後、会場の最後列にいた若い役人が立ち上がった。環境課の職員らしい。彼の顔は汗と動揺で赤みを帯び、持っているファイルが手で震えている。

 役人「失礼いたします!港内の観測ログによりますと、本日18時37分、溶存酸素濃度が一時的に4.2 mg/L(通常 8-9 mg/L)まで急落しております。これは通常値の半分以下です。ゲート開放による水質汚濁が、原因として疑われます」


 その一報は、静かな雷だった。会場のざわめきが、一瞬で凍りつく。灰神の自信に満ちた表情が、ひび割れる。苫築の横顔がわずかに動く。彼は、その環境課の役人に向かって、冷たい視線を送った。その視線は、口を封じるかのように鋭かった。

 汀原が、その場の空気を制しようと立ち上がる。彼女は準備された原稿を置き、自らの言葉で話し始めた。その声は、慎重さと疲労が混じり合い、かろうじて平静を保っている。

 汀原「現在、水質データの詳細を確認しております。雨天が続いた前週の状況を考慮すると、堆積泥の還元化が進行していた可能性があります。ただし、事故当時の直接的な因果関係については、専門家による慎重な分析が必要です」

 幽斗は、汀原の言葉に、さらに別の欠落を感じた。彼女の説明は科学的だったが、肝心な点が抜けている。H₂Sセンサー。致命的なガスの存在を警告すべき、最も重要な装置。潮見岬の港には、設置されていなかった。それは、コスト削減の名の下に、何年も前から温存されてきた問題だった。幽斗は、昨年の自分の取材ノートを思い出す。その隅に、小さなメモ書きがあった。『(11月、**環境常任委**ヒアリングメモ)H₂Sセンサー未設置。予算凍結。』幽斗は、そのメモを無視していた自分の無知に、胸がしめつけられる。

 会場は再び、質疑応答の熱気に包まれる。だが、その質問の矛先は、もはや灰神や苫築には向いていなかった。記者たちは、よりセンセーショナルな事実を求める。寄付サイトの数字、虹色の光の正体、そして『海の浄化』『行政の陰謀』『奇跡』—真逆の主張が並び、どれも数千のいいねを抱えていた。デマの奔流は、真実の細流を完全に呑み込んでいた。幽斗は、その熱狂の渦の中で、自身のカメラが捉えた二枚の写真が、決して繋がらない断片のままであることに気づく。


 19:15 会見:死1/重3/軽9

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