第1話 18:32の予兆――取水路No.2、硫黄臭と赤い監視ブイ
━━「ワーイ、ワーイ」と揃う子どもの声。幽斗は鼻をうごめかす。祭りの夜は甘ったるい。揚げ物の油と人混みの汗と、底流する潮の香り。それに――硫黄。異常と判断したのは、経験だった。かつて漁港で夏の終わりに浮いた魚群を処分したあの臭い。記者としての足と漁師の息子としての鼻が、同時に警告を発する。
幽斗『磯焼けの臭いが変』
ノートに走り書きする。先ほどから、遊歩道のLED帯が虹のようにゆらめいて目障りだ。沖の監視ブイ(ST-3)は赤く点滅、単眼のように睨んでいる。
赤色の監視ブイは**流速の変化**で光り方が変わる。今夜は**間隔が詰んでいた**。
幽斗『警備委託先、要チェック』
鉛筆の芯がメモ帳を引っ掻く。役場臨時支部の仮設テント、奥の声が届く。丁寧な声の主は危機管理担当の汀原さよ。
汀原「仮設の浮き輪なら備蓄がありますが、LED照明用のケーブルを保護する水路沿いの一部は、規定により撤去されています。ご確認ください」
警備員らしい男が「はい」と答え、テントを後にする。その男が去ったあと、汀原はふっと息をついた。幽斗は彼女の視線が、寄付ボックスに寄せられたスローガン『海へ与えよう』の文字に一瞬止まるのを見た。海は硫黄の臭いを漂わせている。
テントから外へ出る。祭りの喧騒が再び幽斗を包む。舞台でスピーチをする男がいる。紺色のスーツに、白い歯が浮く。外部から来たコンサルタント、苫築凌だ。メガホン越しに、声が張り詰めている。
苫築「寄付プラットフォームを本日解禁!“海へ与えよう”。皆様の温かい心が、未来の潮見岬を育みます!」
拍手が湧き起こる。だが幽斗の耳には、その言葉がこだまと響く。潮の匂いが**笑っているように**鼻の奥で歪む。寄付ボックスに向かう人々の列。その流れは、まるで海の潮路。だが、今夜の潮は臭い。幽斗はカメラを構え、ゲート番号が2と記された取水路の脇へ歩を進める。沖の赤いブイが一瞬、強く光った。潮位0.9m、風速4m/s、時刻18:32。
突然、網手剛が駆け寄る。漁協長の顔がこわばっている。
網手「あんた、記者か」
幽斗は頷く。網手の視線の先に、苫築の姿がある。演台を下りたコンサルが、何かを説明するように身振り手振りを交えている。向かう先は漁協の仮設事務所。幽斗も後をつける。ノートの端に書き込む。『清掃試験、問題なし。苫築談』
漁協の仮設事務所は、波止場の近くにあった。網手が先に扉を開ける。内部には、漁獲物の生臭さと机のカビ臭い匂いが混じる。中央のテーブルに、灰神徹が座っている。保全会社の男だ。薄い笑みを浮かべて、両手を組んでいる。
苫築「網手さん、了解ありがとうございます。短時間のゲート開閉は、堆積泥のガス抜きにも効果的です。潮見祭のPRにもなりますし」
網手「だが、祭中は人が多い。危険じゃないのか」
苫築「問題ありません。誘導係を配置します。それに、時間帯も考慮しました。子供らが遊歩道から離れる時間帯です」
灰神「弊社の技術者も常駐します。安心してください」
網手は歯噛みする。
灰神「取水路ゲートの開放は低潮のウィンドウに合わせます」
幽斗「低潮のウィンドウ?」
灰神「はい。海が穏やかで、水流の乱れも少ない。最適なタイミングです。潮位は今、0.9m。18:40にはさらに下がります。それを狙うのです」
幽斗が灰神の言葉を反芻していると、外から若者たちのどよめきが響いてきた。事務所の薄い壁を越え、祭りの喧騒とは異質な、熱気を帯びた歓声だ。誰かが走り去る足音。網手がチッと舌打ちし、外へ出ていく。
幽斗もその後を追った。遊歩道のすぐ近く。十数人の若者が、スマートフォンの画面に夢中になっていた。中央に立つのは、制服姿の高校生。配信者のようだ。そのスマホが捉えているのは、水面。西に傾いた太陽が、取水路の水面に長い光の道を描いている。
幽斗の足元が滑る。タイルが湿っていた。揚げ物の油と人混みの汗と硫黄。それに、今度は風が運んでくる臭い。舌に**金属の粉**をのせられたみたいで、**唾液が急に薄く**なる。幽斗は鼻の奥をかきたてる。異常は加速している。
幽斗はカメラのファインダーを覗く。望遠レンズが沖の赤いブイを捉える。一昨日まで定点観測の資料と照らし合わせた。位置がズレている。確実に。ゲートNo.2の取水路へ、数メートル引かれているように見える。
伸縮継手が軋む不快な音が幽斗の足元から響く。遊歩道のタイルが僅かに隆起する様が、揺れる光の中で見える。先ほどから薄れていた歓声が、ぴたりと途絶えた。
若者の一人が、のけぞるように顔を上げた。彼女の口がぽかんと開き、何か言おうとするが、声が出ない。喉が動くのに**音が立たない**。その隣にいた友人が彼女の肩を揺さぶる。
友人「どうしたの?」
彼女は指を突き立てるように、取水路の水面を差す。幽斗の視線がその先へ。水面に、見たこともない模様が描かれていた。水面に引かれた光の道が歪み、うねっている。まるで、水面の下から巨大な何かが、息を吹き返したかのようだ。
人々の表情が凍りつく。笑顔が消え、瞳が揺れる。胸が苦しくなったと呟く声が、かすかに聞こえる。配信者の高校生はスマホを落としてしまう。画面が割れ、黒く沈む。幽斗はシャッターを切る。指が、いつもより重く感じる。
幽斗のカメラがゲートNo.2を捉える。━━"ジャリッ"。と乾いた金属音。
ゲートNo.2の操作盤側で警告灯が点き、**18:32**を指す壁時計が視界の端に入る。
目で見るより先に、空気が震えるのを感じた。短時間の開放。灰神の言った『ガス抜き』が、始まった。水面が僅かに渦を巻く。取水路の堆積泥が攪拌され、水底から何かが解き放たれる。硫化水素(H₂S)。メタン(CH₄)。そして二酸化炭素(CO₂)。酸味の強い臭いが鼻腔を刺し、舌に**硬い金属味**が残る。
北東6m/sの風が波止場のコンクリートブロックを撫で、遊歩道へと低く流れ込む。人混みの熱気を突き抜け、冷たい感触となって足元を襲う。幽斗はズボンの裾が微かに揺れるのを感じる。ガスだ。水面から解き放たれた無形の何かが、風に乗って這ってくる。膝の高さまで達したか。膝下の空気だけが**重たく**なる。
人々はまだ、何が起きているのか理解していない。ただの風だと、一瞬我に返って笑う者もいる。だが、その笑みはすぐに凍りつく。足がもたつく。喉が渇く。頭が重くなる。異常気象だと思ったのか。配信の高校生がふらつき、膝から崩れ落ちる。傍らの友人が助け起こそうとするが、その手も力なく宙をかく。
幽斗「危ない!水面から離れろ!」
声が掠れる。周囲は静まり返っている。叫び声は、幽斗のものだけ。祭りの音楽は流れているが、どこか遠く、違う世界の音に聞こえる。視界の端に、紺色のスーツが見える。苫築だ。彼も立ち尽くしている。口を開いて何か言っているが、声は聞こえない。顔が蒼白だ。灰神の言った『安全』は、どこへ消えたのか。
幽斗はカメラを構えようとするが、腕が重い。焦燥感が喉を絞める。なぜ、誰も動かないのか。誘導係はどこだ。網手は、汀原はどこにいる。幽斗の足元が、再び滑る。今度は油じゃない。汗が、にじみ出ている。沖の赤いブイが単眼のように、不気味に点滅を続ける。




