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「わたしね、この家を出ようと思うの」
義姉の口から、とんでもない言葉が飛び出した。
「おねえちゃんが、出て行く?」
突然の告白に陽菜はめまいを覚える。
自身のオウム返しはさらに脳内でリフレインしていた。
「今の陽菜ちゃん、マンガのひとコマみたいだったよ。がーん、って」
何が面白いのか紗鳥は笑う。
「出て行くといっても、すぐじゃないよ。高校はちゃんと卒業する」
そうか、それなら理解できる。
ずっと前をゆく義姉のことだから、高校卒業後は独り暮らしだろうなどと勝手に想像して悲しくなったのも一度や二度ではなかった。
「わたしが今日までどうしてたか、話すね」
重ねての告白に、陽菜の心臓は今度こそ消し飛びそうになった。
心の準備ができていない。
義姉の顔を直視できず、視線を床に落とす。
「学校には行ったり行ってなかったり。別に学校がイヤになったとか、いじめがあったとか、そういうのじゃないの。絵をね、描いていたの。たくさん、たくさん」
紗鳥は高校でも美術部のはずだ。それの何が……。
「ある人の助けを借りてね」
「ある人って?」
「まだ教えられない、かな。でも、彼氏とかヘンな男の人とかじゃないよ」
紗鳥は陽菜の顔をじっと見ると、眉を上げて口元を笑わせた。
こちらの心配はお見通しらしい。
「それで、その人にもそろそろ学校に戻れって言われてね。代わりに、高校を卒業したら独り暮らしをするなら支援するよって」
「……拓也さんには話したの?」
「あの人には、内緒にしておきたいの。陽菜ちゃんも、絶対に秘密ね」
「う、うん」
じつの父親には内緒で家を出る……。
陽菜の頭に何かの予感、予想のようなものがよぎったが、
「絶対だよ!?」
紗鳥が両手を握って勢いよく頼みこんだために押し流された。
「あの人はね、自由すぎるから」
「確かに……。うちのお母さんもだけど」
「美羽さんも、そうだね。自由なことは悪くないけど、ひとの都合を考えないのはダメ。仕返しってわけじゃないけど……だから、わたしもあの人には言わずに出て行くことにしたの。似た者親子ってヤツだね」
紗鳥の口調には自虐的な雰囲気があった。
陽菜が美羽との関係が良好でないように、紗鳥と拓也の仲にも問題があるのだろう。そしてそれは、紗鳥が髪色を変えたり不登校じみた行動をする以前からのもののように感じた。
「陽菜ちゃんも、早めに家を出たほうがいいかもしれない」
「わたしも……?」
義姉に進路相談をしてみたいと思っていたが、思わぬ形で道を示された。
将来の夢や進学、就職についてではないものの、自立という条件を柱にすれば進路も考えやすくなるだろう。
「たぶん、わたしがここからいなくなったら……」
紗鳥は何かを言いかけると、「そうだ!」と手を打った。
「陽菜ちゃん、わたしとふたり暮らししよう」
「さと……おねえちゃんと!?」
「そう。高校もどっか私立にして、わたしの大学の近所にしよう」
紗鳥との共同生活。陽菜にとって非常に魅力的な提案だ。
だが、紗鳥のテンションが妙に高いというか、調子はずれな感じがして、そちらが気になってしまう。
「イヤ、かな?」
問われれば首を横に振るしかない。
「イヤじゃないです! 嬉しい。でも、いきなりだから」
「ごめんね。そうだよね。行きたい高校とか決まってるの?」
と、言われればノーなのだが。
陽菜は半笑いで曖昧に首を振った。
「あれ、決まってないの? じゃあちょうどいいよ。やりたいことなんて、高校生になってから探しても間に合うと思うし。スポーツ選手や楽器奏者になりたいとかいうわけでもないんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「美術部だから、デザイン方面とかならわたしも少し教えれるけど。でも、美羽さんとかと一緒のほうが、いいのかな?」
「それはないと思う。仕事のこと聞いたら怒るし。具体的に何をしてるかも知らないくらいだから」
「そっか。じゃあ、ちょうどよくない? 何をするにしてもね」
義姉の提案は性急ではあったが、陽菜の耳には甘美に響いた。
息苦しいだけの自宅を出て、憧れの紗鳥とふたりでの生活。
ただ、紗鳥がどこに居を構えるのかにもよるが、これまでの友人との付き合いは希薄になりそうだ。
もっとも、優花を筆頭にした友人たちは、うるさい美術室と同様、陽菜にとっての安息の地にならないが。
「あ、もしかして彼氏が……?」
「いませんっ!」
「なんだ残念。ホントに、都合が悪くなかったら一緒に暮らそう。そうでなくても、いつでも遊びに来てくれていいからね?」
陽菜の手が紗鳥に取られる。
まるで、今すぐいなくなってしまうかのような口ぶりだ。
義姉は何を考えているのか。
この話には穴がある。紗鳥が拓也に言わずに話を進めることができても、陽菜が美羽に何も知らせずにそうするのには無理がある。
知らせてしまえば拓也にも伝わるだろう。知らせなければ行方不明もいいところで、もちろん警察沙汰。この家だって誰も管理してないようなものになる。
美羽はもしも娘たちが失踪したら、どういう反応をするのだろうか。ひょっとしたら数日は気づかないかもしれない。
ともあれ、重大ごとをじつの父親に黙って実行しようとする義姉は、まだ重要なカードを伏せたままに思えた。
「おねえちゃん、何か隠してるの?」
「隠してるように見えるの?」
紗鳥は胸に手を当て芝居がかった様子で問い返す……が、ため息をつく。
「うんまあ、隠してるけどね。すぐに話せることと、話すかどうか迷ってることがまだあるの」
「それって」
「ごめんね、陽菜ちゃん。今は何も言わないで。それと、言わないでも分かってくれたらなって……」
紗鳥はうつむく。彼女の胸の中は不安でいっぱいなのだろう。
陽菜は紗鳥のつま先から頭までゆっくりと見上げると「分かった」と返した。
「ありがとう。わたし、ワガママだよね。ちゃんとおねえちゃん、できてない」
「そんなことないよ。紗鳥さんはわたしのおねえちゃんだよ、ちゃんと」
精いっぱい励ましたつもりだったが、紗鳥はこうべを垂れてしまった。
陽菜はことばで足りないならばと、肩を抱いてやる。
弱々しい身体だ。まるで柳の木の枝のようだ。
でも、もしも柳の木なら、しなやかで折れずにいられるだろう。
陽菜はふと、昔の日本の童話を思い出す。
小川未明作だったか、姉は柳の木に、妹はつばめになってしまう話だ。
なぜそうなったのか。あれは、どんな話だったろうか……。
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