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ラクチョウ  作者: みやびつかさ
陽菜の物語
8/25

page.10

 水の音が聞こえる。

 雨の音とは違った軽快で規則的な音と、重く不規則な音の二重奏だ。

 陽菜は今、洗面所の白いチェストに背を預けて座っている。

 雨に濡れて帰ってきた紗鳥の要望に応えてのことだ。


 帰宅したとき、紗鳥は泣いていた。

 顔をはっきり見たわけではないが、抱きしめたときの小さな慟哭がそれを語っていた。

 だが、奇妙なことに紗鳥は抱擁を返したあと、子供をあやすように陽菜の頭を撫で、まるで陽菜のほうに災難が降りかかったかのように「大丈夫だよ」と繰り返したのである。

 何か大きな誤解があるような気がして、とりあえず家に入るように促し、灯りの元で二、三会話をした。すると、紗鳥は「本当になんにもなかったの?」と目を丸くし、それから、顔全体を赤くして恥じ入った。

 なんのことやらさっぱりだ。陽菜のほうから「おねえちゃんこそ」と問いただしてみたものの、「勘違い。なんにもないよ」と、ばっさり斬られた。

 だが、義姉の胸中に黒いものが巣くっているのは事実らしく、その証拠に入浴中はそばにいるように頼まれたのだった。


「陽菜ちゃん、居る?」

「居ます」


 シャワーと水の落ちる音の合間に、ときおりこうやって確認が入る。

 始めこそは不安そうな声で訊ねられたが、


「陽菜ちゃーん」

「はーい」

「呼んだだけ!」


 ここ数回は、冗談めいた口調も織り交ぜての問いになっていた。

 義姉が明るく振舞うと、陽菜もまた気持ちが軽くなってくる。

 眠気が押し寄せていたのも手伝って、先ほどまでの不安は、知らず知らずのあいだに打ち消されていた。

 

 水音が止んだ。


 陽菜が「出てますね」と断り立ち上がると、「待って」と止められる。


「タオルを取ってもらえる?」


 浴場の扉が少し開き、白い腕がにゅっと出てくる。

 ひらひらと振られるそれは、なんだかモンシロチョウのようで、眠気に侵されたまなこを刺激した。

 いたずら心が沸き、陽菜はタオルの端を紗鳥の手のひらに当てたり離したりして焦らした。

 やがて「こら」という、笑いを含んだお叱りをいただき、陽菜は腕にしっかりとタオルをかけてやった。


 着衣も浴場で済ますのだろうか。

 陽菜はチェストの義姉の衣類の仕舞ってある段へと視線をやった。

 しかし紗鳥は、「もういいよ。遅くまでごめんね。ヘアカラーしたばっかりで洗うのに手間取っちゃって」と言った。


「おやすみ、おねえちゃん」

「おやすみ、陽菜ちゃん」


 挨拶を交わし、洗面所をあとにする。


 戸籍上は一緒になったとはいえ、血を分けていない姉妹だ。

 陽菜はこれが本当の姉妹だったら、お互いの裸体を見られるのも気にしないのだろうかと考える。

 修学旅行では学友と大浴場に入ったことはあるが、恥ずかしがる子もいればそうでない子もいた。


「ふむ……」


 恥ずかしがっている義姉も可愛い。

 所作や心根の美しい人だし、その肌や体つきにも好奇心を刺激される。


 ……ちょっと覗いてみる?


 やめておけ。

 なんにせよ。今日もまた、憧れの義姉の知らない一面が見れた気がした。

 それに、髪を黒く染めなおしたのも嬉しい。

 どういう心境の変化かは分からないが、やはり陽菜の中の紗鳥は黒髪であるべきだった。

 以前のような長いものではなくなってしまったが、短く切りそろえた髪型は、どこか彼女を童女めいて見せていて、陽菜はほんの少しだけ、自分のほうが姉役になったような気がして、かすかな僥倖(ぎょうこう)を噛みしめたのだった。


 自室に戻ると、優花から返信があった。

 既読もついさっきで、どうも今の今まで呪いの儀式に打ちこんでいたらしい。


 陽菜は呆れつつも『お疲れさん』と返事をしておいた。



 翌朝、陽菜が朝食の支度をしにキッチンに下りると、冷蔵庫から紗鳥のために取り分けていたビワがなくなっていた。

 ビワのことはすっかり忘れていたが、ラップの上に付箋(ふせん)で名前を書いておいたのが目に留まったらしい。スマホを見ると、紗鳥からビワを褒めるメッセージが来ていた。

 烏丸家へのおすそわけのタイミングはどうしようか。昨日のゴミの日のようにきっかけがあればいいのだが。

 この時間ならきっと、舞は起きているはずだ。

 陽菜の中では、インターホンを聞いて出てくるのは、魔女ではなくいじわるをされているお嫁さんだと決まっている。

 ストレートに訪ねて渡せばいいだろう。舞の元気な姿が見られれば、幸先のいい一日のスタートが切れる。

 陽菜は支度を済ませるとビワの箱を手に、隣家のインターホンを鳴らした。


 ところが、予想外にも応答したのは姑のほうだった。


 典子にどちら様かと聞かれた瞬間、陽菜は逃げ出したい衝動に駆られた。

 だが、新築のインターホンではガラスの目が魔女の水晶玉のごとく光っており、こちらの姿がモニターに映し出されていると予想された。

 素直に名乗り、用件を伝えると「ちょっと待ってくださいね」と何段もトーンを上げた返事が返された。

 本当は夫婦のどちらか、願わくば舞にちょくせつ渡したかった。

 魔女はビワの箱をその場で開けると、笑顔で喜んで見せ、「最近の子」の丁寧さを褒めちぎった。


 ……いいひとそう。


 そうだ、いいひとそうなのだ。

 典子はまるで、小さな生き物を殺したり、弱い者いじめをしたことがない正しき者のように振舞っていた。

 こうやってきちんと相対したのは久しぶりだった。脳内で何度も意地悪な姑や魔女として役をさせたせいか、強いギャップを感じる。

 もちろん、典子は正しき者なので「髪を染めたお姉さんはあまり見かけないわね」と、トーンを落として必要のない一言を付け加えるのを忘れなかった。



 ――ちちっ。



 空耳か、ツバメの声が聞こえた。



 朝から最悪な気分になったが、目的は達した。

 陽菜は気を取り直し、学校へと向かう。

 通学路を半分ほど進んだところで、もう少し自宅に居てもよかったのではないかという気がしてきた。

 義姉の新しいヘアスタイルを落ち着いて見てみたかったし、拓也にコガネムシ騒動についての礼も言ったほうがよかっただろう。

 陽菜が朝練する学生並みに早くに起きて家事をこなし、教室が空席だらけのうちに登校しているのは、自宅の居心地が悪いからだ。

 紗鳥や拓也だって春風家の一員なんだし(家はともかく、苗字的には美羽と陽菜が加盟した側だが)、本来なら家事の分担だってしてしかるべきだ。

 紗鳥も髪色が変わってからは、洗い物のひとつもしていない。

 やはり、いちど腹を割っていろいろと話し合うべきだろう。

 この前の夕食のように、ちょうどいいきっかけがあればいいのだが。


 教室に入ると、昨日と同じように朝練をさぼったであろう優花がやってきた。

 目の下にうっすらとくまを作っての登場だ。


「ひなっち昨日はご苦労」

「ご苦労は優花じゃん。というか、どんだけ呪ってたの?」

「二時間くらい? 針を刺してるうちに、なんだかコーフンしてきちゃって」

「ああそう……」


 陽菜はカバンから紙袋を取り出し、持ち主へと渡した。


「何これ? バレンタイン? 愛の告白?」

「寝ぼけてるの? 道具、返すよ。大事なものでしょ?」

「あー、忘れてた」


 忘れてたとは何事か。やはり優花はズレている。


「で、儀式の効果はあったの?」

「まだじゃない? 休み時間にそれとなく偵察に行ってくるよ」


 優花は宣言通り、休み時間のたびによその教室の確認に行った。

 どうもチェックしているのは山田結愛の教室だけではないらしく、短い休み時間のあいだに廊下を端から端までせっせと移動していた。


「熱心だね。もっと建設的なことに精を出したらいいのに」

「勉強とか? あたしは進路決まってるしなー」


 優花は横目で陽菜を見て笑う。やり返されてしまった。

 進路のことも考えなければ。


 結局、山田結愛は健康元気に登校し、特に何事もなく、いつも通りけだるそうに過ごしたらしい。

 陽菜的にはそれで結構だ。万が一、包帯を巻いての登場だの、机に花瓶が置かれるだのすれば、後味が悪いどころの話じゃない。



 ……それに。

 わたしもあまり優花のこと、言えないんだよね。



 陽菜は帰宅後、すぐに家には入らず、玄関先でスマホを弄るふりをして足を止めた。

 ちょうど典子が庭にいて、塀の向こうで気配が右往左往していた。

 例のホウキを持っているらしく、塀の上に細かい枝の束がちらちらしている。

 ツバメの巣はもうないというのに、何をしているのやら。



 ……こっちも効果なし。



 陽菜は口を曲げて鼻から息を吐くと、玄関の扉を開いた。

 ところが、陽菜は自宅に入るなり顔をほころばせた。


「おかえり、陽菜ちゃん」


 親愛なる義姉によるお出迎えだ。

 呪いや魔女なんてどうでもよくなる。

 陽菜は元気よく「ただいま」と言った。


***

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