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呪いの儀式をおこなう深夜まで、まだ時間がある。
陽菜は家事を片付け、日記帳に向かった。
まいにち必ずつけているわけではないものの、昨夕に書いてからすでにかなりの出来事があった。
日記は事実の記録のほかに、思考をまとめるのにも便利だ。
隣家の魔女について記すと愚痴のようになってしまうが、こうやって気持ちを書き出すことはストレスの発散にもなる。
過去へとページを繰れば、両親の離婚や再婚、義姉の紗鳥への憧れや急な変貌への落胆と不安がつづられている。
ほとんど生のままの感情が記されているから、とてもじゃないが他人には見せられない代物だ。
ひとつ感情を吐き出すと、連なってさまざまな想いが引きずり出されてくる。
家族のこと、隣家のこと、呪い合う学友たちのこと……。
そうだ、美術部の夏の作品のテーマを考えないと。
友人の可愛い七羽の同居人を描く案があったのだが、考え直すべきだろう。
いっそ呪いの儀式でも絵にしてみるか。顧問からスクールカウンセラーを薦められるだろうか。
考え直しといえば、進路もだ。普通の家庭なら両親に相談するのだろうが、この家でそれは考えられなかった。
義姉に相談してみるのもいいかもしれない。見かけは不良かギャルかといったふうになってしまったが、中身はまだあの頃のままだった。
彼女にもやはり、彼女のストーリーがあるのだ。少し想像してみようか?
いや、どうしてだか紗鳥のことは妄想でむやみに侵したくないと思う。
こうやって文章をつらつらと書いていると、描くことよりも書くことのほうが好きなのだと……。
こんこん。部屋がノックされた。
陽菜は視界の端にあった紙袋を慌てて机の中に隠した。
「陽菜ちゃん、ちょっといいかい」
拓也だ。深夜の呪いの儀式は人に見られてはいけない。彼に絡まれないようと家事はみんな片付けたし、入浴もすでに済ませている。いったい何の用だろうか。
返事が遅いと、また余計なからかいを受けるかもしれない。
陽菜は日記帳を閉じて表紙にリボンを乗せると、返事をした。
こちらから扉を開けようかと椅子から立ち上がると、ドアノブが音を立てた。
「お邪魔するよ」
扉が開かれると、薄い白色の箱を両手で持った継父の姿が現れた。
箱には淡いオレンジ色の果実が並んでいる。
これは確か、ビワだ。すっきりとした甘い香りが漂ってくる。
一粒一粒を飾るように梱包しているあたり、かなりの品らしい。
「ビワ、食べない?」
「切りますか?」
「いや、そうじゃないんだ。俺はビワが苦手でさ。知り合いから送られてきたんだけど食べられないから、食べてくれないかい?」
陽菜は最近、そのままの形での果物を口にしてないなと思った。
陽菜が「いただきます」と返事をすると、拓也の顔がぐにゃりとゆがみ、ヒキガエルのような笑顔になった。
今になって気づくが、拓也の顔が赤い。飲酒しているのだろうか。
陽菜はヒキガエルを打ち消し、「サル」と頭に浮かべる。
「よかった。紗鳥にも声を掛けてやってよ。あいつ、ビワ好きだからさ。でも、今日は居ないみたいなんだよな。とりあえず、下のテーブルに置いておくから」
拓也はわざわざ摺り足で真横に移動しながら退散していった。
普通にできないのだろうか。彼なりの気づかいやユーモアなのだろうか。
そりゃ、再婚相手の連れ子の中学三年生女子との距離感は難しいだろうが。
陽菜はこんな継父が苦手だった。
開けっ放しの扉を閉めようと近づくと、不意に拓也が戻ってきた。
「そうそう。俺がビワを苦手な理由なんだけど」
拓也はにたにたと笑いながら視線を投げかけてくる。
「子供のころに公園に生えてたビワを勝手にもいで食べて、知らない爺さんにどなり散らされたからなんだ。小学生低学年のころだけどね。ワルだろ?」
「はあ……」
あいまいに返事をする陽菜。リアクションが面白くなかったのか、拓也は真顔に戻り、今度は普通に歩いて消えていった。
拓也は去りぎわに視線を陽菜から外し、目玉を一回転させて部屋の中を舐めるように見た……気がした。
キッチンに下り、箱からビワを取り出してみる。
触ると少し毛羽立ったような、ふわりとした手触りをしていた。
まるで、小鳥を撫でたときのような。
スマホで調べると、皮は剥かなくてもいいらしい。
陽菜はビワを水道で軽く表面を洗うと、流しでそのままかぶりついた。
さわやかな酸味と甘み、みずみずしい果汁が口腔で弾け、くちびるの端を伝って流しに落ちた。味は黄桃やマンゴーに近く、それらを薄めたような感じだ。
ビワに詳しくない陽菜でも、これはいい品だと分かった。
てんてんと水滴の落ちる音を聞きながら、齧った断面を見ると、茶色く大きな種があった。
どことなく栗のような見た目をしている。これを植えれば、ビワの木が生えてくるのだろうか。桃栗三年柿八年だったか。ビワなら何年だろうか。
ビワの木はどれほどの大きさだろうか。サルが木登りをしているさまを想像する。
「猿蟹合戦」
もしも植えられていたのが柿でなくビワだったら、母蟹は死なないで済んだだろうか。
おはなしは結末が決まっている。現実にも「もしも」はない。
陽菜はそんなことを考えながらビワをみっつ平らげ、紗鳥のぶんとしてみっつを種を取って半分に切り、器に入れてラップをして冷蔵庫に入れた。
十二個入だから残りはむっつ。自分たちで食べてしまってもいいが、誰かにおすそ分けしてもいいだろう。
陽菜の頭には、お腹の膨れたエプロン姿が浮かんでいた。
新鮮な果物だ。栄養もたっぷり。調べたところ、妊婦が食べても問題ないらしい。アレルギーについては分からないが、試しに声を掛けてみようか。
これが舞と彼女の宿した子供の血肉の一部になると考えると、途端に一粒一粒が宝石のように思えてきた。
陽菜が意気揚々と部屋に戻ろうとすると、拓也とすれ違った。
彼は「お風呂、片づけなくっちゃな~」と口にした。千鳥足ではないが、陽気なステップだ。
……今、階段のほうから?
紗鳥は部屋に居ないといっていたはずだ。
陽菜は首を傾げながら自室へと戻る。
それから、床の上に赤いサテンのリボンが落ちているのを見つけ、拾い上げた。
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