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「コースだから順番に出すべきなんだけど。面倒だから並べちゃったよ」
そう言った拓也は、エプロンをしたまま席についた。
どこで見つけてきたのか、小さなウサギのワンポイントの入ったエプロンだ。
「イタリアンね」
テーブルいっぱいに並べられた料理を見て声を弾ませたのは、美羽だ。
彼女は夕方ごろに帰宅したものの、また会社に戻る気らしく、スーツのジャケットを脱いだだけの格好だ。強めのメイクがライトに照らされ、ぼんやり浮いて見える。
「カプレーゼにアラビアータ。こっちはカルパッチョ。サーモンでいいかと思ってたんだけど、スーパーにたまたま真鯛があってね。鯛でやってみた」
説明する拓也は慣れた様子で、さもおしゃれな雰囲気を醸し出している。
美羽が帰るとたまに見せる姿だが、ふだん陽菜が見ている義父の姿とはどうしても結びつかず、別人を眺めている気分になってしまう。
「イタリアンは手軽な料理が多くていいのよね。ワインも美味しくなるし」
「会社に戻るんじゃなかったのかい?」
「独りで作業するだけだからいいの」
美羽がワインの封を切ろうとしている。コルク抜きを手にした拓也が席を立つのが見え、陽菜は慌てて料理に目を落とした。
拓也はボトルを開けるのを手伝うために、わざわざ美羽の背後から被さるようにしている。
陽菜が義姉のほうに視線をやると、紗鳥は能面のような顔をしていた。
能面といっても無表情ではなく、小面の面のように目を切れ長に細め、口を半開いていた。
笑っているような、怒っているような。
陽菜は背筋に悪寒を感じ、逃れるように声をあげた。
「もしコースだったら、どういう順番で食べるのが正解?」
「ええと、前菜はアンティパストっていうんだったかしら。このメニューだとカプレーゼね」
「サラダじゃないんだ」
「そうなのよ。ま、私もサラダからいくけど」
言いつつも美羽は、大皿からカプレーゼを取り分け、先に口をつける。
それから、拓也に注がせたワイングラスを傾けた。
「せっかくみんながそろったんだから、いただきますをしようよ」
「あ、ごめんなさい。あんまり美味しそうだったから」
拓也に窘められる美羽。
美羽もまた、ふだん娘に見せている姿とは違った。
いつもは髪や化粧に乱れがあり、いかにも疲れているという様子なのだ。
そして口を開くと小言で、陽菜が反論しようものなら断定的に返して畳みかけるのだ。
そんな日常に比べればずっと幸せそうなのに、陽菜は母に対して得体の知れない嫌悪感を感じた。
だが、ふたりには確かに笑顔がある。はたから見れば品のいい夫婦に見えるのだろう。
……お隣さんと、何が違うんだろう。
ひとくち目は美味しいと感じた料理が、まるでゴムを噛むようだ。
視界の隅では、継父がいちいち席を立って妻のグラスへ赤い液体を継ぎ足す光景がある。
酔いが回ったか気分がいいのか、母の口からは小唄が漏れだした。
元恋人とのことを歌ったセンチメンタルソングの一節。数年前の流行歌だ。
実在の香水の名前が印象的な歌詞で、陽菜にも聞き覚えがある……というか、いまだに給食時間や友達とのカラオケでも「懐かしい曲」として登場する。
……。
視線はずっと料理。だが、陽菜の脳はアラビアータのソースで赤く汚れたふたつのくちびるが接近するのを処理している。
この歌を聞くたびに今夜の食事のことを思い出すのだろうかと考えると、胃の中に落ちたパスタが小石に化けてしまったかのようになる。
ごとん。
美羽と拓也が、ぱっと離れた。
音の出どころに目を向けると、紗鳥が水の入ったグラスを倒していた。
「ごめんなさい……」
「えっと……。紗鳥は座ってて、俺が拭くから」
「いいわ、私が拭く」
美羽が立ち上がり、キッチンに小走りに向かう。
彼女は少し視線を巡らせたあと、布巾を発見して戻ってきた。
「服は濡らしてない?」
「大丈夫です。あの、自分で拭きますから」
「いいのよ。いつも何もお世話できてないんだから」
水を拭きとりながら、再び流行歌を口にする美羽。
今度は拓也も一緒になって口ずさんでいる。
くだんのフレーズでは少し声を強めて、ふたりは視線を交わし合った。
「あ、しまった。ドルチェ、ドルチェだよ」
「ドルチェ?」
「デザートを用意するのを忘れた」
「いらないわ。どうせ作業中に何かつまむし」
「まだ会社に戻る気?」
拓也がちょいちょいと指さす先には、半分空いたワインボトル。
「……泊ってくわ」
苦笑する美羽。
「泊まるって、ここはきみの家だろ?」
「半分はね。名義はあっち。陽菜が巣立つまでは好きにしてくれって」
「彼、上手くやってるのかな?」
「らしいわね。お世話になった会社を裏切って、私のことも捨てて」
……捨てたのはママのほうだよね。
「ヘッドハンティングはいまどき珍しくないよ。もともと、フリーになる人だって多い業種だろ?」
「そうだけどね。そんなあなたはどんな調子?」
「半休業中。親父が勝手に仕事を回してきてフリーになった気がしなくてね。今は主夫に注力さ」
陽菜はじつの父親とは連絡を取り合ってすらいない。
彼も美羽と同じく忙しくするたちだったが、多趣味で、休暇ごとに陽菜をイベントやアウトドアに引きずりまわしていた。
……お父さん、どうしているだろうか。
思い出そうとしたが、実父だというのに、たった二、三年のあいだに顔がおぼろげになってしまっていた。
陽菜は美羽と拓也の会話を聞き流しつつ、料理を胃に落とした。
食事も終盤に差し掛かると、拓也が「片づけは俺がするよ」と宣言した。
お役目御免ならば助かる。陽菜はそろそろ引き際だと考えた。
紗鳥は陽菜よりも早く食べ終わっていたが、また先ほどの小面の表情をしたまま黙って座ったままだ。
「ごちそうさま」
返事はない。両親はデザイン業界について熱く語っている。
陽菜はふたりに背を向け食事の席をあとにする。
椅子を引く気配があったが、きっと紗鳥だろう。彼女もまた義務を果たした。
つと、ツバメの雛鳥は巣立ってもしばらくは親が子に餌を与えていることを思い出す。
……ヒトと鳥は違う。
でも、これがわたしの両親で家族なのだ。
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