page.3
「紗鳥さん、それ……」
ぎらりと光る刀身。小さな折り畳み式ナイフだ。
「おねえちゃんって、呼んでくれないの?」
紗鳥は首を傾げると、一瞬だけナイフに視線を落としたが、すぐに陽菜へと柔らかな笑顔を向けた。
「これはね、お守りなの。大事な人から貰ったの」
折り畳み式らしい。ナイフは刃がしまわれ、しなやかな指が一本づつ折られてその姿を隠した。
「ごめんね、びっくりさせちゃったね」
紗鳥はベッドに腰かけると、隣をぽんと叩いた。
派手な茶髪に短いスカートという、陽菜からすれば威圧感を感じる容姿だったが、一連の動作には、あの時の着物姿が重なって見えた。
……やっぱり、紗鳥さんは紗鳥さんだ。
陽菜は、義姉は性根まで変わってしまったわけではないと確信した。
経った今見た非日常も、瞬く間に陽菜の意識から消えた。
「ほら、おいで」
ぽんぽん。もう一度叩かれるベッド。
これを合図に、陽菜の足は誘われるようにして室内へと踏みこんだ。
「何かご用事?」
姉の声が陽菜の右耳をくすぐる。
単に要件を告げに来ただけなのに、まるで人生の重要ごとを相談しに来たかのような気分になってしまう。
話の口火を切れず、陽菜はきょろきょろと部屋を見回した。
紗鳥の部屋は、かつて陽菜の父が使っていた部屋だ。
家具は入れ替わり、高級感のある棚やベッドが置かれ、棚には文庫本やハードカバーの難しそうな書籍やデッサンの指南書が並んでいる。
それから、古めかしい和風のドレッサー。紗鳥の産みの母の所有物だ。
他には陽菜の部屋にもあるような、ぬいぐるみやフィギュア、アクリルスタンドなんかも置かれている。
今では興味を失ったであろう子供向けのものも残しており、思い出を大切にするたちであるのが現れている。
容姿が変わり果ててしまったから部屋も変わったのだろうと、陽菜は勝手に思い込んでいたが、そうでなかった。
陽菜は身体の力を抜くと、ベッドのスプリングに体重を預けた。
「今日、お母さんが帰って来るから、みんなでご飯にしようって、たく……お父さんが言ってました」
紗鳥が陽菜を見る。吟味するような、どこか怒っているような表情に思えた。
「敬語。わたし、怖い?」
陽菜は黙って首を振る。
「よかった。変だよね。急にこんな格好するようになったから。あの人には何か言われたりした?」
「あの人って……」
「お父さん。わたしの」
陽菜はもう一度首を振り、「拓也さんは優しいと思う」と言った。
肩が痛い。紗鳥が肩をつかみ、指が食いこむようになっていた。
「……優しい、だけ?」
「う、うん」
「それならいいんだけど。わたしも美羽さんと仲良くしないとね。晩御飯、食べるよ」
肩から手が離される。
「悩みとかあったら相談してね。こんなおねえちゃんだけど、なんでも相談に乗るよ。中学校、楽しい? いじめられてない? 友達いる?」
悩みがあるのは紗鳥のほうではないのか。
しかし、矢継ぎ早に問いかけられ、陽菜は慌てて返事をする。
「学校はまあまあ、友達は……」
何か答えねばと、最近の試験の話や、友達の優花の飼い鳥が死んでしまったこと、鳥に詳しいクラスの男子の話などをした。
取り立てて聞いて欲しい話ではなかったが、鳥の挿話が呼び水となり、陽菜の目線は窓のほうへと引き寄せられた。
陽菜の部屋と似た間取りで、同じ方角に窓がある。
こちらの部屋からも隣家、烏丸家の二階の壁が見える。
陽菜の部屋とは違って、小窓のようなものも見えた。
カーテンが掛けられている。廊下かお手洗いの窓だろう。
「……おねえちゃん」
少し力を籠めて呼ぶと、紗鳥の口元がほころぶのが見えた。
「なあに? 陽菜ちゃん」
「学校のことじゃないんだけど、聞いて欲しいことがあるの」
陽菜は、烏丸家の姑と、その魔女によって落とされたツバメの巣の話をした。
紗鳥がこんなふうになっていなければ、ツバメのことは壊される前から共有したいと思っていた話題だ。
陽菜は姑の仕打ちを語るうちに、自身の声に熱が籠っていくのを感じた。
「うーん、酷い人だね。でも、仕方ないよ」
陽菜がぶつけた熱量に対して、短い感想が返された。
陽菜は腹を立てそうになったが、紗鳥はこう続けた。
「家族は自分で選べないからね。奥さんも旦那さんは選べたけど、お義母さんまでは選べないから。ツバメだって、家主のことまでは分からないよ」
……選べない。それは、わたしと同じ考えだ。
立腹は一転、陽菜は瞳を見開いた。
笑おうとする口元を慌てて手で覆い、咳をするふりをして誤魔化した。
「お姑さんは、息子さんをとられたって気持ちになってるのかな? わたしもお姑さんは見たことあるけど、舅さんっていうの? おじいさんは見たことないし、片方だけ同居というものヘンだから、きっと死んじゃったんだろうね」
「同情する?」
「少しね」
「だからって、いじわるすることなんてない。奥さんもツバメも可哀想だよ」
「ツバメのことは法律違反になるんだっけ?」
「多分。最悪だよ」
「最悪。うん、陽菜ちゃんの言う通り。でも、どうしようもないよ」
どうしようもない。彼女もまたそう思うのだ。
弱い者には、決める権利がない。
陽菜。紗鳥。隣のお嫁さんもまたそうなのだろう。
陽菜は思う。わたしたちには願うことしか……。
「だけど、できることもあるかも」
隣にあった紗鳥の重みが消える。
陽菜の視界で丈の短いスカートが揺れ、部屋のまんなかに紗鳥が立つ。
紗鳥は学習机に置いた写真立てを手に取った。
彼女によく似た美しい人が映っている。
写真を見る瞳は、ずっと遠くに焦点が結ばれている気がした。
彼女はそのままの姿勢で動かない。
陽菜はなんとなく不安になり、「できることって何?」とこぼす。
……紗鳥は動かない。
「おねえちゃん?」
……返事はない。
「ねえ、できることって何!?」
わずかに声を荒げ、陽菜もベッドから立ち上がった。
紗鳥は、はっと我に返る様子を見せると、目を泳がせ慌てて答えた。
「お嫁さんが家から逃げるとか?」
「現実的じゃないよ。お腹に赤ちゃんもいるし、旦那さんを捨てなきゃだよ」
「だ、だよね。じゃあ、お姑さんを追い出すとか」
「同居を許した旦那さんが賛成するとは思えないよ」
「えーっと……」
紗鳥は必死に考えているらしく、棚に並ぶ文庫本やぬいぐるみ、置物なんかに目を走らせた。
「やっぱり、どうしようもないんだよ」
陽菜は拗ねたように言ってみせる。
陽菜としてはその結論でよかった。もちろん解決したほうがいいに決まっているが、それが難しいのは陽菜だって承知している。
せいぜい願うくらいしかない。
それでも、紗鳥が同意見なら、隣家やツバメの不幸も諦めがつくと思った。
「あ、そうだ」
そう言った紗鳥の視線の先には、骸骨模様の衣装を着たキャラクターのぬいぐるみがあった。
「お姑さんを、呪うとか」
「呪いって……」
非難の視線を義姉に向ける。
「現実的じゃないよね。ごめん。どっちかというとー……」
引き伸ばしながら紗鳥は陽菜を見つめた。
どこかいたずらっぽい笑み。
ふたりの視線が、かちりと重なり合う。
「呪いをしてそうなのは、お姑さんのほう」
そろって口にする。
一言一句たがわぬ文言に愉快になり、ふたりは声をそろえて笑った。
「魔女だよ。魔女。ホウキ持ってたもん」
「悪いお妃様の正体は魔女でしたー。きっと、王子様がどうにかしてくれるよ」
「王子様かあ。旦那さん、気づいてない気がする」
「ありがちな話だね。ね、王子様といえば、陽菜は好きな男の子とかいないの?」
「え!? ちょっと何、急に」
陽菜は義姉に手をつかまれ、ベッドに連れ戻されてしまう。
話を逸らされると思うも、「ほら、おねちゃんになんでも相談して?」と、整った顔がドアップになった。
「い、居ないよ、そういう人」
「ホントにぃ?」
「おねえちゃんこそ、彼氏いないの?」
「さて、どうでしょう~?」
「えーっ、ずるい!」
どちらからともなく押し合いが始まり、ふたりそろってベッドに転げ、スプリングと共に声を弾ませ笑った。
こんなノリの義姉を見たのは初めてだった。
陽菜は思う。選べないことが全部、不幸というわけではないかもしれない。
暗いおはなしにだって、ひとつくらい希望の星が輝いているものだから。
***




