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ラクチョウ  作者: みやびつかさ
抜け落ちたページ
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page.12

 ふたりだけの空間に、鉛筆の削れる音が響く。

 芯を軽く露出させ、まっしろなスケッチブックにそっと線を入れ始める。

 紗鳥は陽菜から見て左を向いている。

 左に少し空間が多く残るように意識し、アタリをとっていく。

 義姉はなぜ、こんなことをさせるのか。

 繰り返しの疑問。陽菜の筆運びは鈍く、モデルを見る目もピントが甘い。

 だが、輪郭に手を付ける段になって、生の肌を直視しなければならなくなる。

 陽菜は行為への疑問に重ねて、気恥ずかしさと紗鳥への心配も相まって、いよいよ筆先が迷い始めた。


 紗鳥はこれを通して、何かを伝えたがっているのではないか。

 彼女なりのSOSの発信ではないのか。

 仮にそうだとして……あの傷は誰にやられたのか、どうしてそうなったのか……その時には、ほかに何がおこなわれたのか……鮮明にならない。

 紗鳥は何も語らない。まるで魔女に白鳥やカエルに変身させられてしまったかのように。

 ただ、痛々しい身体を晒し続けるだけだ。


 窓を閉めているせいか、夏にはまだ間があるというのに、室内はじっとりとした熱気に満たされ始めていた。

 少し酸味のあるような、甘いような香り。

 これが紗鳥の肉体から発せられているのだと思い至ったとき、陽菜の鉛筆はもはや動かなくなった。

 紙上の義姉は、乳房の辺りの描写が抜け落ちたままだ。


「陽菜ちゃん、そろそろ構図はできた?」


 紗鳥が少し動いた。窓のほうを気にしているようだった。

 レースのカーテンは引かれているが、雲の主張が強いのか、室内に差しこむ光量が変わっている。


「灯り、点ける?」


 動く気配があった。陽菜は慌てて「そのままで」と制する。


「見てあげよっか。ちゃんとぜんぶ描いてね」

「モデルが動いたらダメです」

「また敬語」

「動いたらダメ……」

「スマホで撮っといたら、元の姿勢に戻れるよ」


 ――ッ、ダメ!


 陽菜は思わず立ち上がり、部屋いっぱいに響く大声量で言ってしまった。

 紗鳥は目を丸くして驚いたふうだったが、くすりと笑うと「そうだね」と言った。


 とにかく、紗鳥は自分を描かせたがっている。

 従わないと何を言い出すか分かったもんじゃない。

 陽菜は少し腹が立ち、怒気に任せて残りの線を描いた。


 おおよそのラインは決まった。

 陽菜は鉛筆を2Bに持ち替え、大まかに陰を入れ始める。

 窓の外では雲が流れているほかにも、何かがたまに横切るのか、モデルの肌に影が落ちたり、不意に白く照らされたりして煩わしい。

 それでも、おおよその光量を脳内で固めて描き進める。

 デッサンでは、見えるものを見えるまま描くのではなく、「嘘をつく」ことも珍しくない。

 顔の描写では線や陰影を省いたり、背後に空間が大きくある箇所や物体同士の接地箇所で陰影を強化したり。絵筆を取るようになってからまだ浅い陽菜でもそのような工夫はする。

 細部に注目すると、すらりとした義姉の身体でも、腋の周囲や曲げた腹にはしわが寄ることや、髪染めの黒が天然の黒よりも扱いが難しいことなどに気づく。

 やはり、以前の背の中ほどまであった黒の長髪の姿で描きたいと思った。

 あの頃の肌には余計な赤や青はなく、無垢の肌だったのだろうかと考える。

 嘘をついてしまうこともできる。だが、紗鳥は「ぜんぶ描いて」と言ったのだ。

 部分的に見えている腕の切り傷や、腿に残る指型の痣。描くことで全体のバランスへの悪影響があるだろう。

 陽菜はそれらを、ただ色の濃淡として紙に乗せようと努めた。

 無感情を装ったが、傷を描くたびに自分もそこが痛む気がした。


 黒鉛が紙をこする音。ナイフが鉛筆を削る音。

 聞こえるはずのない、紗鳥の心音。それから、遠くでツバメが鳴くのが聞こえた。


 どのくらい時間が経っただろうか。


 指に表情を宿らせ、目鼻を描きこむためにFの鉛筆を手に取るころには、陽菜は何も考えなくなっていた。

 全体のバランスを取るために、ひとつの細部を一気に仕上げ切らず、時たまほかの箇所に作業を移す。

 陽菜の義姉という存在が、春風紗鳥という人物が、ゆっくりと露わになっていく。



「えっと……」



 陽菜は手を止めた。

 紗鳥に「終了か休憩か」を問う意味があった。

 現時点での出来栄えはモノクロ写真のようだとはとうてい言えないが、陽菜がふだん部活でやっているデッサンでは、立体感が出る程度で止める。

 まだ中学生だから、というのもあるのだろうが、学校の顧問が「若いうちは小手先の技術よりも発想、一球入魂より球数」という方針なのもあった。

 それに、このくらい陰影が決まってしまえば、モデルなしでも作品としての形を作ることは可能だ。

 陽菜がスマホを見ると、起きてから二時間が経過している。一時間半以上はやっていることになるから、続けるにしても紗鳥には休憩が必要だろう。


 返事がなく、問い直そうと紗鳥に視線をやると、彼女は慌ててベッドのタオルケットで身体を隠した。


「も、もういいの?」

 そう言った紗鳥の顔は上気し、小さな汗を浮かせていた。


「おねえちゃんが描いてって言ったんだけど。でも、デッサンって終わりがないものだし……」

「そ、そうだよね」


 紗鳥はタオルケットで身体を覆うと、ベッドを降りてスケッチブックを覗きこんできた。

 モデル当人に出来栄えを見られるというのは普通は緊張するものだが、陽菜はそれ以上の緊張から解放されたばかりで、気にならなかった。


「何分くらい?」

「一時間半はやってた」

「けっこう、描けてる。ちゃんと、描けてる。陽菜ちゃん、上手だね」


 お世辞や時間制限も込みでの評価なのは分かっていたが、陽菜もまた頬を熱くした。


「これ、宝物にするね。その代わり、ナイフは陽菜ちゃんが使って」


 義妹に描いてもらった自画像を宝物に――でも、この身体は。

 陽菜は問いかけようとした。傷の正体を。

 可能であれば、身体の内側の傷についても触れたかった。

 だが、紗鳥が陽菜の腕を取って引っ張り、いつかのようにベッドに無理矢理に着席させた。

 陽菜は「ひょっとして、次は自分がモデルにされるのでは?」と、いっしゅん自身が裸でベッドに座るさまを想像してしまう……が、そうはならず、紗鳥は隣に腰かけた。


「陽菜ちゃん、聞いて」


***

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