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ラクチョウ  作者: みやびつかさ
抜け落ちたページ
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page.11

 陽菜は跳ね起き、スマホで日時を確認した。

 土曜日の午前十一時。

 学校は休みだ。何も慌てる必要はない。ほっと胸をなでおろす。


 春風家の家事の多くを引き受ける陽菜も、土日の朝食は用意していない。

 食事はおのおの適当なタイミング、掃除や洗濯は陽菜が時間を決めている。

 先の夕食のように、示し合わさないと家族がそろうことは滅多になく、さして広くもない家の中でも「会う」という表現が合っていた。

 昨晩などは、拓也も深夜遅くまで作業をしていたらしく、陽菜が飲み物を取りにキッチンに下りたさいに、コーヒーを淹れようとしているところに出くわした。

 陽菜もカフェオレを作ってもらったのだが、やはりカフェインを摂ると夜更かしが過ぎるようだ。普段なら甘えることはしないが、コガネムシ事件の礼を言いそびれていたし、あまりコーヒーが好きでない陽菜の舌にも、拓也の飲んでいる「ちょっといいやつ」は美味しいからだ。


 陽菜は昨晩は中学生らしく、流行りものの動画や音楽、SNSを追いかけていた。そうこうしているうちの寝落ちだ。

 きっと遅い時間に寝たせいだろう。ベッドから出ると軽い頭痛があることに気づいた。


 特に用事はない。部活も自由参加。お腹もあまり空いていない。陽菜は部屋を出ると、まずは玄関に向かった。

 靴の状態で家族の在不在を確かめる。

 美羽はもとより、拓也もいないようだ。紗鳥の靴は動いた様子がない。

 陽菜は早足でキッチンに向かい、ゴミ箱のペダルを踏んで中を確認した。


 ……昨晩と中身がほとんど変わっていない。


 紗鳥は昨日は学校に行っていたようだったが、帰宅後は夕食を摂りに現れていなかった。ちゃんと食べていればいいのだが。

 ゴミチェックなんて昔の姑のようなことをしてるな、なんて考えていると、ゴミ箱の底にきらりと光るものを見つけた。


 何か金属のような気がした。陽菜の暮らす自治体はゴミの分別に取り分け厳しいわけではないが、ゴミ袋を一見して金属が入っていると回収を拒否されてしまう。

 以前、拓也がここに来たばかりの頃に横着をして、空き缶やステンレスの定規なんかを可燃ごみと混ぜて捨てたことがあったのだが、そのさいは回収不可のシールを貼られてしまった。陽菜が気づいたのが翌朝だったため、早朝からゴミの再分別と再保管という不愉快な目に遭ったのだった。


 袖をまくってゴミの中から物体をつかむと、冷たさと重みから電池を想像した。電池は火災事故の原因になるから危険だ。陽菜は犯人が継父だと決めつけて苛立つも、すぐに物体は電池ではない別の何かだ気づいた。


「これって……」


 心臓が縮みあがる。

 拾い上げたのは、数日前に見た紗鳥の折り畳み式ナイフだった。


 これがここにある意味は? 理由は?

 考えようとしても、歯車のあいだに何かが挟まったように脳が動かない。

 陽菜はとりあえず手とナイフを洗い、濡れたままの凶器を見つめた。

 シルバーの刀身を納めた木製のハンドル。威圧的な存在感と重み。

 恐る恐る刃を引っ張り出すと、欠けのない鋭利な輝きが現れる。

 壊れた、というわけではなさそうだ。当たり前だが、血まみれということもない。


 陽菜は激しい鼓動と頭痛でふらつきを覚える。

 なんだか、悪い予感がする。


 ナイフを洗って消毒し、二階にある義姉の部屋へと向かう。

 自分でもどうしてだか分からないが、紗鳥に気配を悟られないよう、慎重に、忍び足で進む。

 紗鳥は部屋にいるはずだ。先週と比べて関係も気易くなっている。ノックすればいいだけの話だ。

 だが陽菜は、薄い扉の向こうの気配を全身で探ろうとしていた。この扉は開けてはいけないものだと、この部屋を覗いてはいけないのだと、そういう気がしていた。

 予感に反して、陽菜の手はドアノブにかけられていた。

 鍵束を手に提げてドアの前に立ち尽くすイメージが脳裏によぎる。


 開けてはいけない。陽菜の脳裏でひげ面の男がいびつに笑う。

 警告を無視して、ノブが下がる。

 扉がわずかに押されると、まるで慣性に責任を押し付けるように手は離れる。

 思いのほか強い力で押された扉が、開く。



「おねえちゃん」

 陽菜は言った。



「陽菜ちゃん」

 紗鳥は言った。



 陽菜は見た。ペローの青髭の新妻のごとく。

 義姉は、ドレッサーに向かって立ち尽くしていた。

 一糸まとわぬ姿で、片手で肩を抱くようにして。

 陽菜は息を呑む。

 紗鳥が衣類を身につけていなかったからではない。


 彼女のまっしろな肌に、無数の赤や青の模様が刻まれていたからだ。


「入っていいよ」


 言われるがままに部屋に踏みこむ。

 いつもと違う、熱気を孕んだ空気を感じた。


 紗鳥の肩に痣。

 腕にも痣。

 彼女がこちらを向くと、内腿にも青黒い痣。

 内腿のはまるで、鷲づかまれたかのように指の並ぶ痕に見えた。

 そして、乳房には明らかな歯型があった。


 ……誰にやられたの?


 声には出せなかった。

 彼女が素行不良めいた行動を取っていたころ、いちど考えようとしてやめたことがある。

 不良めいた若い男や、財布から札束を出す大人の男性。

 百合か牡丹かという義姉には、不釣り合いなはずの存在。


 陽菜の前には、確かに傷ついた紗鳥がいた。

 しかし陽菜は、紗鳥がまるで衣類を身につけているかのように、傷痕など見えないかのように振舞った。


「これ、ゴミ箱にあったんだけど」


 折り畳みナイフを差し出す。

 紗鳥は反射的に腕を伸ばそうとしたが、「もう、要らないの」と引っこめた。

 その腕にも傷があった。無数の赤い直線。

 かさぶたの残る、まだ新しい、切り傷。

 それを描いたのがこのナイフかもしれないと思うと、陽菜はナイフを投げ捨てたい衝動に駆られた。


「描いて」

「えっ?」


 紗鳥が何を言っているのか分からず、手の中のナイフに視線をやる。


「それ、陽菜ちゃんにあげるね。鉛筆を削るのに使ってたの。陽菜ちゃんも美術部なんだよね?」


 陽菜が話を呑みこめないでいると、紗鳥は机に行って一冊のスケッチブックと数本の鉛筆、そして練りゴムを取り出した。


「ヌードデッサンってしたことある? ないよね」


 裸体であることが、ここで初めて言葉にされた。その瞬間、陽菜は紗鳥に向かって手を伸ばそうとした。だが、スケッチブックと画材を押し付けられ、「ほら、早く」と強引に椅子に座らされてしまった。

 紗鳥はベッドを整え、それから少しわざとシーツにしわを作り、ベッドに上がった。

 足を崩して座り、身体は少しひねるようにして膝の上に手を置き、視線はまっすぐと陽菜に向けた。


「ベッドが低いから、椅子は下げて使って」


 言われるがままに回転いすの高さを調整する陽菜。

 少し俯瞰(ふかん)するような視点が直され、義姉と同じ高さになる。


 紗鳥は恥部を不自然に隠すこともせず、まんじりともせずに座っている。

 陽菜は仕方なくスケッチブックを開いた。新品だ。

 鉛筆のほうは使いさしで、F、HB、2B、4Bと、濃淡不足なく支度されていた。


 無生物のデッサンは美術部の部活動にて機会があったが、人物画は小学生のころにクラスメイトの横顔を描かさせられて以来、初めてだった。

 ことさら、デッサンの定番とされる裸婦は初体験だ。


 義姉の目論見は分からない。だが、痣だらけの裸体で座りこむ彼女には、どうかすると消えてしまうのではないかという儚さがあった。


 これは仕方なくではなく、描かなくてはならないのだ。陽菜はそう思った。


 陽菜は机の横のゴミ箱を足元に引き寄せると、Fの鉛筆を手に取り、くだんのナイフの刃を当てた。


***

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