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陽菜は一家団欒を演じている最中も、あることがずっと気にかかっていた。
小走りに廊下を進み、玄関でローファーをつっかけて外に出る。
日は沈んで久しく、住宅街の道路は薄暗く、家々の灯りがやけにまぶしい。
このあたりの治安は悪くないと思うが、たまに不審者情報が共有されることもある。
陽菜は周囲に人がいないことを確認すると、スマホのライトでアスファルトを照らし、視覚と聴覚を研ぎ澄まして歩きはじめた。
「……あった!」
目的のものはすぐに見つかった。電柱の裏に隠されるようにして、乾いた土くれと藁の混じったような物体が落ちている。
近づいてライトで検めると、土の中に動くものをみとめた。
まだ羽の開いていない半裸のツバメの雛たち。
見たところ二羽しかいない。もっといてもいいはずだ。
巣の捨てられていた場所のそばにはコンクリートの側溝の蓋があり、蓋の穴がくろぐろとした口を開いている。
ライトで穴を照らしてみようかと頭によぎるが……やめておき、代わりに打ち棄てられた雛へと手を伸ばした。
恐る恐る、恐々と、指先で雛鳥の頭に触れる。
雛の首には力がなく、指を引っこめると重そうにこうべを垂れた。
水に落とした墨汁のように、陽菜の胸に薄い濁りのようなものが広がる。
動いているように、見えたのだが。
ぴ。
陽菜は目をしばたたかせた。確かに鳴いた。
だが、見える範囲にいる二羽はすでに亡骸だ。
陽菜は電柱に髪がくっつけるくらいに前のめりになり、巣材の塊を横から覗いた。
「いた!」
それはまだ生きていた。
すくい上げると、雛の熱いくらいの体温が指へと伝わった。
……いのち。
こころの中で、そして声にも出して繰り返すと、急いで自室へと戻った。
陽菜の指がスマホをスワイプする。
ツバメの雛の飼育方法。
まず、何よりも保温。
だが、今は初夏だ。ヒーターのたぐいなどはしまいこまれている。
部屋には小動物に向いた都合のいい保温道具など見当たらず、苦し紛れに思いついたいつかのバレンタインにやったチョコレートの湯煎を応用することにした。
お湯の確保にキッチンに下りると、無人だったが料理とワインのにおいがまだ残っていた。
拓也が洗うと言っていたはずの食器は流しにつけられたままだ。
陽菜はボウルを失敬すると湯を入れ、そこに一回り小さいボウルを重ね、さらにキッチンペーパーを敷いた。
部屋に戻り、ツバメの雛をボウルの中に入れる。
小さないのちは薄目を開け、こちらに何かを訴えかけているように思えた。
保温の次は食事だが……。
ツバメは完全虫食の生物だ。
ツバメでなくとも、鳥の雛の多くは消化と栄養価に優れた虫を食べて育つ。
今から出て虫を探すか? これは陽菜には難しいことだった。
かつて実父によって決行された早朝の虫取りで、樹液に群がる大量の虫を相手に悲鳴をあげて泣きじゃくった記憶があるからだ。
そうでなくとも、虫を見つける自信はないが。
では、代替になる餌は?
ドッグフードやキャットフードをふやかしたもの。春風家では動物を飼っていない。
他は? ……固ゆで卵をすり潰したペースト。これならできそうだ。
陽菜は卵を求めて再びキッチンへ下りる。
とりあえず灯りはつけず、まっくらな中で冷蔵庫を開けた。
夕食のイタリアンに使われただろうトマトが、野菜室ではないところに放置されている。
常温管理で構わないだろうオリーブオイルの大びんも、牛乳の隣に居座っていた。
そして、卵のケースは空だ。
食材の買い出しもしている陽菜の脳内では、まだ四つ残っているはずだった。
夕食を振り返るが、卵料理はなかったはずだ。
あてが外れ、義父に対して大きなため息をつく。
拓也はやればなんでもこなせる男らしかったが、それが手段にすぎないとあり得ないほどに雑になる。
庫内を整頓していると、その拓也が現れた。
冷蔵庫の扉と陽菜の腕のあいだの闇から、ぬうっと、あの笑顔で。
「陽菜ちゃん、お風呂まだだよね?」
驚きつつ、普通に登場しろよと胸の中で悪態をつきつつ、「はい」と返事をする。
「早めに済ませてもらっていい?」
そういえば、いつも入っている時間を過ぎていた。
陽菜が「すぐ行きます」と返すと、拓也はすでに後ろ姿だった。
ぼんやり見送っていると、冷蔵庫からあけ放ちを報せる警告音が鳴った。
カラスの行水を済ませ、髪もろくに乾かさずに部屋に戻る。
ボウルの中の雛を確認すると、雛はうずくまって小さく胸を上下させていた。
だが、湯は冷めてしまっていて、保温の役目を果たせていない。
この調子だと、数十分おきにお湯を取り換える必要がありそうだ。
熱湯を使うわけにもいかないし、寝ている間にボウルが冷たくなったら、かえって冷やしてしまう。
陽菜はペーパーごと雛を取り上げると、手のひらの上に乗せた。
飲まず食わずでは死んでしまう。
食事というには心許ないが、くちばしの端に薄めたスポーツドリンクをつけてやった。
これまで動きのなかった雛が、飲み下す動作を見せ、陽菜は思わず「やった!」と声をあげた。
だが、保温も栄養も不充分だ。素人の陽菜にもよく分かっている。
希望的観測を述べるなら、巣は道端に廃棄されてしまっていたが、日のあるうちはもしかしたら親ツバメが餌をやっていたかもしれない。
野生でも夜間は給餌はないはずだし、数時間は食事を摂らなくても耐えられるはずだ。
早朝にこの子を巣の付近に戻し、親ツバメに認識させたのちに、安全な場所に仮巣を設けるというのはどうだろうか。
先達の情報ではカップ麺の容器が便利らしい。あの手の容器はスーパーで回収をしているので、うちにも多少ストックがあるはずだ。
陽菜は計画を立てると、自分と雛を励ますように「よし」と言った。
望みが薄いのは承知している。
……あと、わたしにできることがあるとすれば。
願うことだけだ。
無力な陽菜には、それだけしかない。
手のひらの中の温かいものが消えてしまわないように、ちゃんと明日を迎えられるように、ちゃんと家族のもとに帰れるように、祈るだけだ。
……祈るって、何に祈るのだろう?
星だろうか、神様だろうか。
祈り。おとぎ話ではそれは大きな意味を持ち、物語を推し進める力にもなる。
たった一羽だけ生き残った雛。
雛鳥に願いをたくし、己の身をも重ねて。
これは陽菜の、
「わたしの物語だから」
だから、お願い。
体温が伝わるように。祈りが届くように。
……。
日付が変わるころ、陽菜は手の中のものが息をしていないことに気づいた。
揺すっても反応はなく、持ち上げると、翼や頭がだらしなく垂れた。
半開きの瞳には涙が浮いていた。
無理もない。鳥の体温はヒトの体温よりも数度高いのだ。
外気よりはマシかもしれないが、加熱や保温には足りない。
陽菜は不意に尿意を覚え、亡骸をそっと机の上に置いて部屋を出た。
二階のお手洗いは紗鳥が使っているのか、扉の小窓から光が漏れている。
仕方なく一階に降りると、母の部屋からベッドが激しく軋む音と獣が唸るような声が聞こえた。
陽菜は用を済ませて部屋に戻り、さっきまで生き物だった物体を手にすると、それを力いっぱいゴミ箱の中へと叩きつけた。
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