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鳥オタクのクラスメイトが早口で教えてくれた。
鳥の鳴き声にも種類があるのだと。
ツバメたちの放っているツピッ、ツピッという音は、「警戒」を意味する。
警戒……。いや、もはやあれは「悲鳴」だ。
陽菜は家を出て、道路から烏丸家を見上げた。
塀の上で魔女の棒がせわしなく上下運動している。
汚された白い壁は、ホウキによって執拗に突かれていた。
巣が硬いのか、魔女はわざわざ柄のほうで息子夫婦の新居の壁をがりがりとやっていた。
がりがり。がりがり。
陽菜は魔女の行為に瞳を釘付けにしながら、逃げるように自宅へ戻った。
耳から離れなかった。
固めた泥が砕ける、かすかな音。
上から下へと落ちていく、無垢のエレジー。
窓の外では、親鳥たちが今もまだ騒いでいる。
がりがり。がりがり。
この音は陽菜の鼓膜が震えているのか、脳が繰り返しているのか。
床に座りこみ、ベッドに顎を預けて頭をかかえる。
おこないを目撃した心臓は高鳴り、鼓動はツバメの狂騒とまじりあって、胸を破って何かが生まれてきそうな気すらした。
烏丸家の姑。烏丸典子。
夫婦が越してきて、しばらくして現れた女。
そもそも典子は、陽菜の描くしあわせにとって不要だった。
瘤のようなもので、悪性の腫瘍のように思われた。
……ううん、必要。
陽菜は思いなおす。彼女は「悪役」なのだ。
この一件で、彼女が魔女であることがはっきりとした。陽菜は確信した。
陽菜は知っていた。
あの魔女は、一家のあるじが留守のあいだに、奥さんに対して好き勝手に指図しているのだ。
大きなお腹をした奥さんが大汗をかいて庭の掃除をしたり、両手に大きなエコバックを提げて買い物から帰る姿を何度も見ていた。
これもまた受け売りだが、鳥の巣は卵や雛が入った状態だと、無断で撤去するのは法に触れるという。
もっと早い段階で妨害を受けていれば、ツバメにもよそを選ぶ余地があったはずだ。
典子は、魔女はヒトの観点から見ても、鳥の観点から見ても間違っている。
……だったら、何か罰を受けなければ。
――どんっ。
陽菜は肩を跳ねさせ、床に座ったまま身をひるがえした。
部屋の扉が叩かれたのだ。
「陽菜ちゃん、居るか?」
この口腔内で唾液が糸引くような声の持ち主は、継父の拓也だ。
何の用だろうか。
陽菜は机の上に置いたままだった日記帳を引き出しに押しこみ、「なんですか」と返事をした。
「なんですかって、なんだよ」
扉の向こうから聞こえる抗議は怒りではなく、笑いを孕んでいる。
「あ、分ったぞ! 何かやましいことをしていたんだろう? 俺にも経験がある!」
「別にしてません、何も」
「何もって……」
陽菜の反論に対して、扉の向こうから再びねちゃついた笑いが起こったが、すかさず「鍵なら開いてます」と被せた。
がちゃり。
ノブへの反応は早かったが、扉はいやにもったいぶったようにゆっくりと、少しだけ開いた。
隙間からねじ込まれるように室内に入ってきたのは、拓也の顔だけだ。
彼の脂でてかった笑顔は、どこかヒキガエルを想起させるものだ。
拓也は「継父だから、陽菜ちゃんは年頃の娘だから」という遠慮を口にして、陽菜の部屋の絨毯をいちども踏んだことがない。
だから今も、顔だけで訪ねてきていた。
「今日は、美羽さんが早い時間に帰って来るそうだ」
美羽は陽菜の母親で、拓也の再婚相手である。
陽菜が生まれる前からデザイン会社に務めていて、陽菜の出産前後と感染症による自粛期間以外では、自宅にはたまに寝に帰るだけの生活をしている。
ここ数年は特に、重要な話――離婚と再婚について――がある場合を除いて、美羽が一日じゅう自宅にいるようなことはなかった。
「……そうですか」
「そうですかって、そっけないな。お母さんだぞ?」
「ごはん、作ればいいですか」
陽菜の口から転がり出た言葉は乾ききっていた。
拓也はまるで小石でもぶつけられたように顔をしかめたが、「いいよ、俺が作るから」と笑顔を繕った。
離婚前から共働きだ、陽菜は幼少時より家事の多くを担っていた。
両親ともに同業で、たまに早く帰ったからと声を掛けても、「仕事、プロジェクト」という単語と、大きなアルタートケースが陽菜の言葉をはじき返していた。
「家のことは俺がやるからさ、紗鳥を説得してくれないか? たまには家族全員そろって食卓を囲もうよ」
「紗鳥さん、いるんですか?」
「みたいだ。一応はきみのお姉ちゃんなんだからさ、陽菜ちゃん頼むよ」
あなたの娘でしょうと頭によぎるが、陽菜は呑みこんだ。
義姉の紗鳥は陽菜の憧れだった。
初めて引き合わされたのは料理屋の座敷で、彼女は長い黒髪をしていて、亡くなった母親の着物を身にまとっていた。
目鼻もすっきりと通っており、化粧にも嫌味がなかった。
紗鳥は見目の麗しさだでなく、物腰の柔らかさを見せ、陽菜に対して包みこむような物言いをしてくれた。
陽菜とお手洗いに立ったとき、自身が母親を失っていることを横に置いて、陽菜の家庭環境の変化を慮ってくれたのだ。
……素敵なおねえさん。
まるで、小説か何かから飛び出してきたようだった。
何かで憶えた「大和なでしこ」という言葉を、初めて正しく使えた気がした。
陽菜も、当初は相手の家族に会うのに乗り気ではなかった。
前日の食事も喉を通らないほどで、まるで胃に七つの石を詰めこめられたように水ばかりを飲んでいた。
拓也は美羽の勤めているデザイン会社の重役の息子であると聞いていた。
そして陽菜は、拓也の介在が両親の離婚の原因だという推理を、小学生だてらに導きだしていた。
だが、その大岩を押し流すほどに、紗鳥の存在は魅力的に映ったのだ。
食事会が終わるころには、すっかり懐いていた。
紗鳥もまた、妹ができてうれしいと顔をほころばせていた。
それが、
「最近のあいつは分かんないよ。勝手に髪も変えちゃうしさ」
拓也は愚痴をひとつ吐き出すと、顔を引っこめた。
扉はきっちりと閉じられず、数秒遅れてわずかに開いた。
陽菜は扉を閉めようと腰を上げる。
「あっ、そうだ」
顔が戻ってきた。
「陽菜ちゃん、今日はスカートなんだな」
顔はそれだけ言い足すと、満足げに笑って引っこんだ。
陽菜は出かける用事がなければ、自宅ではスウェットで過ごしている。
今朝、慌てて洗濯をしたために部屋着がまだ乾いていない。
それも、昨晩に妙なタイミングで洗濯機を占有したその継父のせいなのだが……これもまた呑みこんでおいた。
――最近のあいつは分かんない。
あの美しい義姉は、ここ数ヶ月で変わってしまった。
長かった髪を切り、色を明るい茶色に染め、制服のスカートも詰めた。
そのうえ、登校していない旨を告げる連絡が学校からくるようになった。
実父の拓也に対して怒鳴るようになり、陽菜とも疎遠になり、以前のようにお互いの部屋を行き来することもなくなった。
何が彼女を変えてしまったのかは分からない。
だが、陽菜は悲しかった。
ノックも不要だった紗鳥の部屋は、扉の前に立つのもためらわれるようになった。
だから、こんな形だろうとも、部屋を訪ねる口実が得られたのは嬉しかった。
紗鳥は食卓に着くのを望まないかもしれない。いや、望んでいないだろう。
それでも、陽菜は与えられた役をこなさねばと胸で使命を燃やす。
卓上の鏡で前髪を直し、スカートも整え、義姉の部屋へと向かった。
扉の前で深呼吸をし、強すぎず弱すぎずを心がけてノックを二回した。
「紗鳥さん、居ますか?」
……いっぱく置いて返事があった。「開いてます」
声だけ聴けば、あの頃の紗鳥となんら変わりがないように思えた。
ドアノブに手をかけ、そっと扉を開く。
慣れ親しんだ義姉のにおいが漂い、陽菜は思わず口をほころばせる。
だが以前のように、扉を押すと同時に部屋に踏みこむようなはしたない真似はしない。
それはふたりの距離が遠ざかった証か、あるいは陽菜が少し大人になったからか。
……そのどちらでもなかった。
陽菜は紗鳥の部屋と廊下のあいだに、不可視の線があるように感じていた。
境界。いや、部屋の内側から何もかもを押し返すような、強い圧力。
けれども陽菜の手がノブから離れれば、扉は慣性によって全開となった。
そして、陽菜の瞳はまたも釘付けとなった。
机の前に立ち尽くした茶髪の娘の手には、ナイフが握られていたからだ。
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