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春風紗鳥が姿を消した。
先日から高熱で伏せっていたはずだったが、拓也が昼前に食事を勧めに部屋を訪ねたところ、ベッドはもぬけの殻だったという。
拓也は当初、調子が回復して登校したのだと考えていたが、スマホに連絡を入れても返答がなく、夕方になっても未読、彼女も戻らなかった。
このことが陽菜に話されたのは午後の六時だった。とはいえ、高校生の帰宅時間としては、まだ遅すぎない。
だが、拓也の心配は現実のものとなり、紗鳥は帰らなかった。
陽菜が頼まれて義姉の部屋を調査したところ、スマホや財布のほかに、制服や学習道具の入ったカバンなどが消えていた。
この時点で、陽菜は紗鳥がどこへ行ったか見当がついていた。
「紗鳥から何か聞いてない?」
陽菜は、「分かりません」と、力なく首を振るにとどめた。
義姉は一足早く計画を実行に移したのだろう。
紗鳥の髪が染められていた時期にも、帰宅しないことがあった。
しかし、ここのところはツバメの観察で姿を見せていることが多く、家族間の会話も増えていたため、拓也も何かを感じ取ったのだろう。
一日、二日、三日と経過した。
二日目の夜は陽菜は気が気ではなかった。
拓也が警察に連絡をする可能性を考えたからだ。
紗鳥はきっと、信頼できる人のもとにいる。だが、法的な責任と照らし合わせた場合、誘拐犯として庇護者が罰せられる可能性があった。
祈るような気持ちだった。
心配はほかにもあった。
……そもそも、わたしの推測は当たっているのだろうか。
別の事情で帰っていないのではないのか。
帰らないのではなく帰れない。失踪ではなく誘拐や事故ということも……。
反して、ツバメの雛たちはすくすくと育ち、太い筆羽が生えそろっていた。
ついぞオスツバメが邪魔をしにすることもなかった。
こころのよるべであるツバメたちが健在だというのに、陽菜の胸には悪い予感が居座り続けていた。
一週間経過しても、紗鳥は戻らない。
その頃には、陽菜も拓也も彼女のことを口にしなくなっていた。
無論、紗鳥のことを諦めたわけではない。
陽菜はようやく本人からメッセージを受け取っていた。
やはり彼女は安心できる場所に身を寄せている。授業にも出ているらしい。
紗鳥が気に掛けていたのは陽菜のことだった。
拓也についても訊いてきたが、『警察に相談してた?』というものだった。
春風拓也は娘の失踪に関して、警察に通報していない。
拓也も、紗鳥がどこへ行ったのか知っているのだろう。
父親の態度や責務としてどうかというものだったが、これがふたりの距離なのだ。
紗鳥にとって継母である美羽からの反応も、冷たいものだった。
紗鳥が消えてから、美羽も帰宅の頻度が低くなった。
というか陽菜はこの一週間、彼女の姿を見ていなかった。
メッセージで知らせたところ心配するそぶりは見せたが、向こうから紗鳥のことを訊ねたのは三回だけだった。
もっともこれは、陽菜が紗鳥は安全であることをにおわせたのも一因となっているのだろうが。
陽菜はモニタ越しの円満なツバメ一家を見つめながらため息をつく。
……せめて巣立ちを見届けてから出て行けばよかったのに。
紗鳥は、あれだけ気に掛けていたはずのツバメのことを訊ねてこない。
ふと、リビングで語り合った深夜に、義姉が意味深なことを言っていたのを思い出す。
「ツバメの季節が終わったら、次はなんの季節かな」
思い浮かんだのはキンモクセイだ。
陽菜が「キンモクセイの季節かな?」と返すと、紗鳥は「あの匂い、嫌い」と言った。
そのあと沈黙が続き、ふたりは会話をやめて眠りに向かったのだった。
あのやり取りには、どういう意味があったのだろうか。
義姉は胸奥に何を宿していたのだろうか。
思索にふけっていると、スマホが着信を知らせた。
『巳住 達樹』
実父だ。パソコンの時計を見ると深夜一時前。
陽菜は慌ててスマホをタップした。
『すまん、陽菜。起こしたか?』
「ううん、今寝ようと思っていたところ」
達樹は何の用があって連絡をよこしたのか。
『美羽は帰ってないか? 連絡がつかないんだ』
鼓動が早くなるのを感じる。
陽菜は震えそうな声を抑えつつ、「最近は帰ってないよ」と答えた。
『そうか……。早く寝ろよ』
そう告げると達樹は通話を切った。
紗鳥に続いて美羽までが失踪?
まさか。
美羽はスマホを置き忘れたり、充電を切らしたりする常習犯だ。
陽菜は自分を産んだ両親を恨みがましく思った。
眠るツバメたちを映したノートパソコンを休ませ、自室へと戻る。
ベッドに入る前に、机の上に並べていたぬいぐるみの一家をゴミ箱へと捨てた。
さらに一週間が経過した。
陽菜は部活動の作品の下書きを完成させた。
どの段階の巣を書こうか悩んで何枚も試していたが、やはり巣立ち直前の、巣内ではちきれんばかりになった雛たちがいちばん魅力的だった。
それから間もなくして、ツバメたちは巣立っていった。
巣立つのは早朝が多いという話だったから、巣立ちの気配を感じてからは毎朝気を揉み、独りで巣を見上げた。
しかし上手くいかないもので、あれほど楽しみにしていた巣立ちを肉眼で見ることは叶わなかった。
帰宅したら巣はもぬけの殻。映像を確かめると、陽菜が登校してすぐに一羽目が飛び出し、昼頃に掛けてだらだらと残りが巣立ったのが分かった。
立ち会えなかったのは残念だが、あるべき形で営巣が終わったことに胸をなでおろした。
巣立ってもしばらくは寝床に使うという話を空木会長から聞いていたため、その晩もカメラをチェックしたが、巣はぽっかりとした穴として闇の中に浮かんでいた。
寂しさと、どこか恩をあだで返されたような気持ちがあった。
それもつかの間のことだ。
その三日後には、ツバメたちは二週目の営巣に入ったのだった。
邪魔者がほとんどいなかった良物件だ。当然といえば当然だろう。
邪魔者といえば、魔女こと烏丸典子は、舞よりも先に入院する羽目になった。
どうも骨折の仕方が悪かったらしく、要介護になる可能性もあるという。
加えて、ツバメ駆除の件が効いていた。
陽菜は黙っていたはずだったが、典子が無断で春風家の敷地に侵入し、脚立を使ってツバメを攻撃しようとしたことまでが、舞や陸に知れていた。
舞はしきりにメッセージで謝り、いちどは陸も謝罪のために訪ねてきた。
『さすがに赤ちゃんを育てながらお義母さんを介護するのは無理。陸も絶対にやめたほうがいいって言ってる』
治癒の結果次第では、意地の悪い姑は施設で暮らすことになるのだ。
これだけはおとぎばなし然とした結末だったが、陽菜はもはやなんの感慨も湧かなかった。
あの一件が効いたのか、別の理由があったのか、陽菜は烏丸家のひとびとと疎遠になった。
新しいいのちの誕生すら、知らせてもらえなかった。
ツバメたちもまた知らぬ間に雛を孵し、夏休みが始まった。
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