page.19
陽菜たちがツバメの巣の観察を始めてから、春風家に変化が訪れた。
これまでは外出しているか自室に引っこみがちだった紗鳥が、観察用のノートパソコンのあるリビングに常駐するようになったのだ。
常駐というのも大げさではなく、夜間もカメラのチェックをするほどで、掛布団を持ちこんでソファで眠る日もあったくらいだ。
陽菜もこれに乗っかり、姉妹でお茶だのお夜食だのを囲いながら夜を過ごしたことは幾度にも渡った。
陽菜が熱心さを指摘すると、義姉は「気になっちゃって」と、はにかんでみせた。
いっぽう拓也はというと、準備時ほどの情熱は長続きしなかったか、通りかかるときにノートパソコンを覗きこんだり、陽菜に頼まれてデータ整理などを担当する程度に落ち着いていた。
雛が孵る予定日が近づいてもモニターをチェックする頻度は変わらず、時には挨拶がてら陽菜に聞いて済ますこともあった。
美羽もツバメの観察には肯定的だ。
この二週間のあいだに二度の帰宅をしていたが、二度目は帰ったさいにすぐには家に上がらずのんびりと巣を見上げていたし、陽菜に営巣の進捗を訊ねるメッセージをたまに送ってくるようになった。
卵は次々と産み落とされ、合計で五つに達した。
ツバメの抱卵期間は二週間と少し。
親ツバメは代わる代わる卵を温め、新たないのちの誕生も目前となった。
そして同時に、烏丸家のいのちの足音も近づいてきている。
舞は主張を激しくする赤子のために、いよいよ日常生活にまで支障をきたし、陸と早めの入院の打ち合わせを始めた。
陽菜は早期入院と聞いて不吉な予感がしたが、これはどうも母子に問題があるからではなく、陸が顔利きができることと、典子の態度が関係しているらしかった。
陽菜が舞に勧めた結果、陸は母親の嫁に対する陰険なふるまいを知り、糾弾には至らずとも妻の肩に手を置いた。
それでも、典子が舞を手伝う気配は一向にないという。
鬼の目にも涙というし、お産も間近になれば典子も態度を変えるだろうと、一同は一抹の期待を抱いていたのだが、そうはならなかった。
陽菜は烏丸家のために数回、代理の買い物をおこなった。
メッセージでのやり取りで舞をケアするのも忘れない。
舞の不満も次第に開け広げになり、時には多忙な旦那へ矛先が向かい、典子とは口論になることもあったという。
スマホに表示される言葉や絵文字も、悪辣と呼べるものが増えてきた。
少し心配だったが、陽菜はそれでも彼女の味方であり続けた。
陽菜は、自分も魔女役かもしれないと思う。
……この場合は「シンデレラ」の魔女だけど。
魔法はいつか解けるだろう。早期入院や産気づいたときがその時だ。
本当に大事な局面では魔女の助けは得られない。
今後、自分の産んだ子に対する主導権や、家庭での立ち位置を守るためには、舞は自ら動く必要がある。
シンデレラも、ただガラスの靴を落として待っていただけではない。
ほんの些細なことだが、王子や召使いに存在を知られ、靴に足を入れる機会を勝ち取らなければならなかった。
ところで、陽菜でも典子でもないもう一人の魔女の話にも進展があった。
感染症で数日のあいだ学校を休んだ山田結愛だったが、案の定、彼女と仲のいい友人もあと追うようにして数名ダウンした。
加えて、最初に復活した山田は後遺症が一向に治まらず、四六時中、乾いた
咳をしているという。
なんとなくクラス全体に結愛を避ける風潮ができつつあるらしい。
本格的にコロナが流行していた時期、陽菜たちも他者にうつすことや後遺症についてさんざん脅かされた。
陽菜もまた罹患した経験があったが、味覚が消えたときには「一生このままだったらどうしよう」と、布団の中で独り泣いた記憶がある。
山田結愛のそれは、呪いなのだろうか。
あるいは、昨年のいじめの因果応報と呼ぶべきものなのだろうか。
なんにせよ、山田の状況を毎日のように伝えてくる優花の薄気味悪い笑顔にはうんざりしてきていた。
山田の不幸は偶然だろうが、優花の品性が下がっているのは明らかに呪いの儀式の影響だろう。
呪いなどやるものではない。陽菜はそう思う。
現実にしろ物語にしろ、あるいはオカルトにしろ、実際に行動することの意味が重たいのはよく分かった。
それでも陽菜には、行動に移せずにいることがひとつあった。
呪いと暇つぶし目的で始めた人形作りが思いのほか面白く、魔女のほかにも自分を含めて家族四人分の人形もこさえていた。
本当なら、この人形をそれぞれに渡したいと考えていたのだが、どうにも気恥ずかしさが勝ってしまい、机の上に飾られたままになっている。
紗鳥にだけなら渡しやすいのだが、彼女に渡してしまうとほかも渡す義務が生じるような気がしていた。
それと同時に、これを手渡し受け取ってもらうことが、陽菜の物語のページをめくることにつながるのではないかと感じている。
そして、めくる手を導くのはまたもツバメなのだろうとも。
陽菜は家路を急いでいた。
抱卵が始まって二週間以上が経過。いつ雛が生まれてもおかしくなかった。
雛たちがすべて孵ったら、人形を渡すつもりでいた。
最初の一羽の誕生は、ぜひ自分が確認したかった。
この時間なら紗鳥もまだ帰っていない。義姉と誕生の喜びを分かち合うのも満更でもないが、これは自分が始めた物語なのだと陽菜は信じている。
「春風さん」
自宅まであと一歩というところで、呼び止められた。
烏丸典子だ。
陽菜は内心、舌打ちをしつつも挨拶をした。
「あなた最近、うちの舞のことを手伝ってくれてるそうね」
典子の顔は引き攣っていた。
へたくそな笑顔だ。へたくそで、イヤな笑顔。
拓也の笑顔にいだいていた不気味な印象や、最近の優花ですら霞む。
「お買い物に行くのが大変そうだったので」
「助かるわ。私もね、本当はね、手伝いたいの。でも、足が悪くって、ねえ?」
「お気になさらず。わたしが勝手にやってることですから」
「殊勝ね。いまどきの子って、みんなこうなのかしら?」
もはや笑顔を繕いすらしていない。陽菜は無難に答えたつもりだったが、典子のしわを増やし鼻の穴を広げる結果になったらしい。
「わたし、憧れてるんです。烏丸さんたちみたいな家族、いいなって」
抑揚をつけ、感情をこめたふうに言う。
典子は何かを発見したかのように眉を上げて笑ったが、すぐにそれを押しとどめた。
陽菜は知っている。うちの両親たち、美羽、拓也、そしてすでに去った達樹までもが近所の井戸端会議の肴にされていることを。
熱心に紙の回覧板を回しているような地域だから仕方がないが。
典子はどうせ最近になって聞いたのだろうが、陽菜は小学生のころにはよく近所の大人に「今日もお母さん居ないの?」と声を掛けられたものだ。
……かわいそうねえ。たいへんねえ。
陽菜は自身の口元がゆがむのを感じた。
孫も生まれる年ごろのくせに、呪いで喜ぶ女子中学生と大差がない。
「うちの舞を手伝ってくれてるついでに、お願いがあるのだけれど」
典子は陽菜ではなく、春風邸に顔を向けながら言った。
「知ってる? あなたの家の壁にツバメの巣ができちゃってるの」
しらじらしい。こういうのを噴飯ものというのだろう。
カメラが設置されたことも一目瞭然だろうに。
何を言われようが好きにさせる気はなかったが、続きを聞いてみたい。
陽菜は短く「知ってます」とだけ答えた。
「ツバメはね、フンとかあるでしょう? 病原菌とかを運ぶのよ」
「そうなんですか?」
「お腹の赤ちゃんにもよくないの。なんとかプラズマって病気があるのよ」
「トキソプラズマはネコのフンですよ。最近よく誤情報が出てるって会長が言ってました」
「か、会長?」
典子はたじろいだようだった。
「この手の古い人間は肩書きに弱い」と教えてくれたのは実父だ。
生徒会長の空木は頭脳明晰で行動力もあるが、しょせんは陽菜と同じ中学三年生だ。
「うちの学校の生徒会長です。鳥が好きなんです。鳥のフンに含まれるオウム病も、乾燥させたフンをわざわざ吸ったりしない限り平気だって」
「そ、そうなの? フン……。そうよ! フンといえば、車を汚されるから」
「駐車場に屋根があるのにですか? よそでされてるのかも。それに鳥って、飛行中にはあまりフンをしないんですよ。もっぱら止まってるときだそうです。特に驚いて飛び立つ場合とかに」
最後を強調してやった。
典子は唇を薄くし、鼻の穴を痙攣させている。
内容は大して頭に入っていないだろう。
言い返された事実に腹を立ててるだけだ。
「い、いのちなのよ! 赤ちゃんが……」
――いのち。
陽菜はすかさず典子の発言にかぶせた。
「赤ちゃん。おふたりの、赤ちゃん。舞さん、とってもいい人ですよね。陸さんも素敵だし。お似合いの夫婦」
典子が目を見開いた。食いしばった歯は何か反論したげだ。
普段から舞を好ましく思っていないのが手に取るように分かる。
相手の顔が魔女へと移り変わっていくのを察知し、陽菜は言葉を重ねる。
「安産祈願してるんです」
「あ、安産祈願?」
「うち、家族みんなでツバメの観察や保護をやってまして。ツバメって縁起物らしいので、雛たちが無事に巣立てたら、きっと舞さんと陸さんの子も元気に生まれてくるだろうって」
魔女は震えながら言い返した。「縁起でもない」
「う、上手くいかなかったら、不吉でしょうに……!」
「お気に障ったのならごめんなさい。でも、大丈夫ですよ、きっと。誰も邪魔しなければ」
陽菜は手芸部の次は演劇部みたいだ、などと考える。
あるいは囲碁部や将棋部のように策を弄したな、とも。
さあ、最後の一手を。
「ところで烏丸典子さん、さっき言ってたお願いってなんですか?」
陽菜はそう訊ね、薄く笑った。
***




