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日曜日。
春風陽菜は、せっかくの休日だというのに朝から憤慨していた。
数日前に烏丸家におすそ分けしたビワのゆくえを知ったせいだ。
先ほど、近所のスーパーに食材の買い出しに出かけたところ、隣家に住む烏丸舞と鉢合わせた。
ちょうど入り口近くの青果物コーナーだったこともあり、挨拶からの雑談で舞が「果物を最近は食べていない」と口にしたのだ。
勘違いや行き違いの可能性もあったが、陽菜は態度に出してしまったらしく、舞に首を傾げられ、おすそ分けの件を説明する運びとなった。
すると、舞も「あー……」と、いっしゅん不快感を表し「お義母さん、ビワが大好きだから。食いしん坊なところもあるの」と弁護をした。
陽菜はそれを聞いて我慢ならず、「意地悪されてませんか?」と、とうとう口にしてしまった。
そして、烏丸家の嫁は「どうかな? 嫁と姑ってそういうものらしいけど」と、曖昧に笑ったのだった。
はっきり肯定されたわけではないが、魔女に対して燃やしていた怒りの炎に新たな薪をくべるのには充分だった。
さりとて、何ができるわけでもない。
大っぴらに魔女を糾弾しようものなら、情報源たる嫁への仕打ちが苛烈になるだけだろう。それは血の上った女子中学生の頭でも理解できる。
「わたしは冷静です!」
「ほんとー? 陽菜ちゃん、顔が赤いよ?」
古風なヤカンと化した義妹を見て義姉が笑う。
陽菜は帰宅したのち、紗鳥の部屋をノックしていた。
「あの人にあげるくらいだったら、おねえちゃんと山分けしたらよかった!」
「山分けって……。わたしも食べたし充分だけど。そもそも、あのビワってどこから来たの?」
陽菜は少し詰まったが、「拓也さん」と返す。
「なるほど。いっつも変なもの持ってくるよね」
紗鳥の言う通り、拓也はどこへかふらっと出かけて、高級そうな食べ物やなんとも言い難いお土産を持ち帰ってくるのだ。
口に入るものなら歓迎だが、陽菜は去年、陶器でできたブタの貯金箱を貰っていた。蓋や栓のないタイプのもので、中身を取り出すには割るしかない。そのくせ、どこそこのなんとか焼きだという銘がついていた。
「そういえば、あの人は朝からいないね」
「お母さんも土日なのに帰ってこない」
美羽がいないのはいつものことだ。だが、紗鳥がまた笑みを深めたので、陽菜はそれを見てわざと口を尖らせたのだった。
「ふたりで会ってるのかもね」
「なんかヤダ」
「ヤダって、夫婦だよ。でも、わたしも陽菜ちゃんみたいにヤダって言えたらよかったのかな。そしたら、家を出るなんて考えないで済んだのかも」
陽菜は拗ねるのをやめ、紗鳥の顔を覗きこんだ。
「再婚、反対だったんですか?」
「ん……。また敬語。わたしの中では、まだお母さんとちゃんとお別れできてなかったから……」
紗鳥の実母は病で逝去していた。婦人特有の腫瘍が急速に全身を蝕み、四十を迎えずにしてのことだった。
「あの人がヘンになっちゃったのも、お母さんが死んでから……」
「そうなんですか」
遠くを見る義姉のために慰めの言葉を探すも、何も思い浮かばなかい。
ことあるごとに助けたいと思うのに、ままならない。
ふさわしい言葉は、大人になれば自然と口にできるようになるのだろうか。
「ま、陽菜ちゃんと逢えたのは、人生でいちばんのいいことだけどね。妹欲しかったし!」
紗鳥は咲くように笑顔に転じた。
陽菜は両の頬を紗鳥の手に挟まれ、マンガのタコのような顔にされる。
陽菜はあえて抵抗せずに、その顔のまま紗鳥を見つめた。
お互いに黙って静止し、とうとう堪えかねて紗鳥が吹き出してしまう。
「ふふふ。ありがとう、陽菜ちゃん。美羽さんともちゃんと仲良くなるよ」
「じゃあ、わたしも……」
「いいよ。別に」
陽菜は不器用な慰めを見抜かれた恥ずかしさを消すように義父の名を出そうとしたが、遮られてしまった。
なぜか叱られたような気になり、目をしばたいた。
「でも、美羽さんには謝らないといけないね」
そう言って紗鳥はスマホを見せた。
知らない女性の名前の表示されたメッセージアプリだ。
「これ、わたしのおばあちゃん。母方のね。いまだに連絡取りあってるんだ」
「別に、悪いことじゃないと思う」
「そうかな? よく分からない。陽菜ちゃんは、お父さんとは?」
「さっぱり。父は元から家に寄りつかない人でしたから」
陽菜は厭味っぽく言い、肩をすくめて見せた。
実父は死別ではなく離婚だ。連絡先はお互いに持ってはいるが、向こうから連絡が来たことはない。陽菜のほうから連絡する予定もないし、万が一そうする場合は、美羽の身に何かあったときくらいではないかと思っている。
「そっか。お互い苦労してるね」
紗鳥もやれやれと肩をすくめて、ため息をつく。
黒染めの髪が揺れてつややかに光った。
それから互いに目を合わせ、笑った。
陽菜は今、しあわせだと感じていた。
「苦労する」とはいうが、その副産物がお互いとの出逢いであり、この瞬間だ。
隣家の姑の仕打ちに腹を立てこそはしたが、これも怪我の功名といえる。
だがどうしても、紗鳥が家を発ってしまうことが頭から離れない。
紙の本で良質な物語を読むときの、残りのページがどんどんと薄くなるあのもの悲しさを思い出す。
「でも、それとこれとは別!」
「えっ、何が!?」
陽菜は窓のほうを見て「ツバメ殺しの魔女!」と気色ばんで声を上げる。
腹立たしく不快だが、寂しさを追い出す役には立つ。
「確かに雛のいる巣を壊しちゃうのはね……」
「舞さんにも意地悪してる。ビワも独り占めした!」
「ビワはまあ……。でも、お姑さんがベビー用品のお店の袋持って帰ってくるの見たことあるよ。掃除させてるのも意地悪じゃなくて、適度な運動とかかも」
「気が早いし、そもそもお嫁さんのためじゃなくて孫のため。というか、実際に何かキツく言ってるの聞いたことあるし」
「盗み聞きはよくないよ」
「聞こえたんですー。お隣の庭だって、わたしの部屋の窓のすぐ下だし!」
そもそもふたりの不和を疑いだしたのも、自室で過ごしていて声が飛びこんできたからだ。陽菜だって窓を開けて換気をする権利はある。
「どうどう。陽菜ちゃんって、けっこう激情家なんだねー」
「おねえちゃんは楽観的過ぎ」
「ヒトを信じたいだけなんだけどね」
「性善説っていうやつ?」
またも口を尖らせて訊ねると、陽菜の下半身に重みがのしかかった。
紗鳥が陽菜の膝に顔をうずめている。
「んー……。わたしは信じたいって言ったんだよ」
逆にいえば、信じていないということになる。
陽菜は返事をせず、義姉の髪を撫でた。
染めを繰り返したせいか手触りは固く、指を忍びこませると地肌からの熱がじっとりと伝わってくる。
「今度は上手くいくって祈ろう」
「そうだね……」
陽菜は言葉とは裏腹に、あの継父や母と自然に打ち解ける自分の姿を想像できないでいた。
幼少から家族というものに対して、周囲の友人たちのそれと比べても淡泊な付き合いと感情しか持たなかったから、一家団欒、家族の絆というものが分からない。
……やっぱり、わたしも出て行くべきなのかな。
巣立ち。巣立てなかった烏丸家のツバメたちを想う。
あの子たちだけではない。じつをいうと、ほかの観察箇所も営巣が不振だった。
駅前のスーパーは食品衛生の都合でクレームがあったのか、ふたつの巣がきれいさっぱり落とされていた。
登校途中に盗み見ていた民家にある巣は、やはりカラスの仕業かいつの間にか半壊しており、保育園近辺で婚活していた個体はいまだに独身だ。
願うばかりではなく、見立てたものに任せるのではなく、紗鳥のように自ら動かねばならないのだろうか。
義姉を励ますのもままならない自分に、あの母親が説得できるだろうか。
「あっ、そうだ!」
やにわに紗鳥が起き上がった。陽菜もこうべを垂れていたので、すんでのところで鼻先に頭突きをされるところだった。
「何、急に……」
「今度は上手くいく、で思い出したんだけど。ちょっと外出よう」
跳ね起きた紗鳥に手を引かれて、陽菜は家の外へと連れ出された。
どうしたのかと訊ねても、紗鳥は「いいからいいから」と、強引な牽引をやめてくれない。
「陽菜ちゃん、ツバメツバメってずっと言ってるけど、これ気づいてる?」
春風家の手狭な庭で、ふたりは頭上を見上げた。
義姉の指さす先には、泥と藁で作られたキレイな椀が壁にくっついていた。
「うそ、ツバメの巣……」
「この前の雨の日のあとにできたんだよ。たぶん、魔女に壊されたからうちでやり直すんじゃない?」
そう言えば、空木会長のうんちくに、ツバメは営巣に失敗しても、渡りまでに時間があればやり直すとあった覚えがある。
同じ巣を修復する場合もあるが、近場に作り直すことが多いらしい。
場所をほとんど変えないのはリスク管理的に頭のいいやり方とは思えないが、今回のケースは陽菜にとって大正解だ。
位置的に陽菜の部屋からは見えないのが惜しいところだが、うちの敷地内ならば魔女のホウキに襲われる心配は絶対にない。
……もしも、このツバメの巣が無事に役目を終えれたら、わたしも。
陽菜は突然の幸運に、口をぽかんと開けたまま巣を見つめ続けた。
「今度は、上手くいく」
陽菜ははっきりとそう口にした。
祈りでも願いでもなく、確かなことばだった。
義姉に手を握られる。力強い。そう思った。
ぬくもりと明るさ。昼近くの太陽が、春風家を照らしている。
陽菜はそのとき、背後に何者かの気配を感じ取った。
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