わたしたちは未来で待っている
怪物と一時を過ごしたことがある。
それはいつから一緒にいたのかもわからないけれど、いつの間にか去っていた。
私はいつかそれを忘れるだろう。傷跡が若いうちは、何をしても痛みが教えてくれた。けれどそれは、消えてしまう定めへの一時の抵抗だった。
時間は許すのではなく、忘れさせる。全てを、私さえも流してしまう。
人間の条件は、同じだと思えること。あなたがいつか同情した花は、あなたにとってひとだった。
そして、私もひとだったから。同じようになると思っていた。
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眠る前に、僕はアルバムに手を寄せた。特別な目的があったわけではないが、ふと思い出をなぞりたいと思った。それだけだ。
記憶というものは完全ではない。僕らは思い出すとき以外では、それを忘れている。忘れている間のそれはとても柔らかく壊れやすくなっているから、何かの拍子に違ったものに変わってしまうことがある。
だから記録を残した。過去を間違ってしまわぬように。
記憶の中の自分を生かし続ける。意味などないが、少しだけ生きやすくなる。何百回と繰り返されたその所作は、僕が今日まで生きていたことを物語るかのように。
時系列にそって写真を見ることによって、まるで時間が連続しているような構造を学び取ることができる。それはここに限らず偏在し、僕らは縫い合わさった物語の中にさまざまなものを規則する。
そうしてアルバムをなぞってゆく中で、ひとつ目についたものがあった。
そこには目の下に隈が染み付いた少女が僕と一緒に写っていた。
それ以前にも以降にも登場しない人物。思い出すことに時間がかかり、かえってその思い出の中で異彩を放っている。
時系列的には高校生の頃だろうか。そこで、手繰り寄せるように記憶の枝葉がまとまってくる。
高校生の夏休みに曽祖母が亡くなった。それで実家に帰った時に出会った少女だ。しかしそれ以上思い出そうとしてもそこから先はもう壁のように手応えがない。少女の名前も、何をしたのかも。僅かに思い出せるのは少女が何かに怯えていたことくらいのものだ。
二十数年も前の記憶を正確に思い出せる人間はそうそういないと思うが、それでもいささか自分の記憶力に不安を覚える。最近は調べれば大体のことはネットが答えてくれるので、自分自身への蓄積が随分と薄くなったように思える。しかしこの少女やあるいは自分のことは、ネットに尋ねても答えが出ることはない。
中心を失った人間たちは、アイデンティティに飢えて何かに固執する。
僕の場合は、このアルバムだった。
ああそうか。彼女は死んだのだ。
不意に記憶が補完され、謎は解けて興味の熱が冷めてゆく。彼女は僕のアイデンティティにそこまで関係ある人間ではないのだ。僕は忘れた記憶がないことにほっとして、僕の一部でなくなった空気を吐き出す。
アルバムに目を通した僕は整頓され、整合性をもった存在とすら錯覚できた。
これで安心して眠ることができる。夢の裏で起こる記憶の死を、少しだけ遅らせることができるだろう。
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象と象を重ねた裏には一つの骨が通っていた。意味とはまず同じであるということであり、次に違うということである。どちらも利用できることが根底にあり、それらは気づいた時には僕の一部だった。
誰かが言っていた。昨日と今日の自分は違う生き物になっている。それは確かにそうだったが、その情報は利用できないから意味はない。そうして意味のないものは柔らかい記憶の中でも特に壊れやすいから、他の記憶とぶつかってなくなった。プロセスは裏側で起こり続ける。僕はその過程を意識しない。それは境なく繰り返して、巨大なひとつをつくっている。
『違うから……これはそんなんじゃないの……』
新しい記憶、古い記憶、二つが化学反応をする。余波を再び形作ることで、僕らはそれを夢と呼ぶ。
怯えるコヨミを僕は無視して、霧を払うように目を覚ました。
夢に知り合いが出るのは珍しい。それだけ彼女を忘れていたのがショックだったのだろうか。
僕は部屋の中にひとり。まだ日は昇っておらず、暗闇は何も語らない。時刻はまだ夜の二時だった。
僕は再び眠る前に、いくつかの記憶違いについて考えていた。
アルバムにいた少女はコヨミという。夏休みに出会った僕らは高校卒業の年まで付き合っていた。彼女はその時期までは生きていたのだ。
そして彼女が言っていた言葉も鮮明に思い出すことができた。
『記憶がだんだん近づいてくるから。もうすぐ私は死んじゃうの』
そして彼女は予言した通りの時期に、突然息を引き取った。
僕は彼女の恐怖をどうにかしたかったが、何もできなかったのだ。
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様々な違和感を抱えた僕は、翌日になってアルバムを確認する。昨日の今日で既視感を纏ったページをめくる手は早かった。生まれてから入学まで、そこから卒業し、季節が巡り、まるで早回しでビデオを見ているような。追想。
そこにはもはやその出来事そのものに対する印象はなく、既視感だけを追いかけて安心するコレクターのような僕が機械じみた動きを繰り返しているだけだった。
問題のページに辿り着いた。そこにはあの少女、コヨミが昨日と変わらぬ姿でぎこちない笑みを浮かべて写っていた。昨日見た時は彼女はその一枚だけに写っていたはずだった。
ページをさらにめくる。コヨミはまだ、そこにいた。
おかしいと思っていたのだ。僕が妻との思い出を写真に残していないはずがない。昨日の僕はそれを思い出せず少女の正体について考えながらその先を見落とした。そうなのだろうか。
少しだけ僕は混乱していた。今までもアルバムを見返す行為は幾度となく行っていたが、これほど短期間に多くの記憶違いに悩まされることはなかったのだ。
昨日の僕はアルバムにいたコヨミを見て、数日間の友人だと思っていた。コヨミはあの夏に知り合ってすぐに死んでしまった印象の薄い人物だと、そう理解したのだ。その後のページはきっと先入観で見落としたのだろう。着ている服装が違えば印象も違う。興味がなければ見落とすこともある。僕はそうやって自己の整合性を守ろうとするが、欺瞞の蔓はすでに強く僕の意識を捕まえていた。
写真に写るコヨミは印象深い顔立ちをしていた。とにかく隈が濃いのだ。死神に追われて眠ることを拒んだような、猜疑心で満ちた目。それが人に向けられたことは最期までなかったが、とにかくコヨミの顔は一眼で誰だかわかる程度の特徴を有していた。
そういえば昨日の深夜にも僕はおかしな勘違いをしていた。僕はコヨミを付き合ってすぐ死んだ彼女だと思っていたのだ。しかし現実はどうだ。コヨミは生きていただろう。
僕は今ここに立っている自分が、ふと誰なのかわからなくなった。
僕は僕自身の連続性に対してひどい不安を感じ、得体の知れない恐怖心を覚える。
救えなかったコヨミよりも自分の正しさの方が大事なのだろうか。いや、そうだろう。僕はまだ生きており、コヨミは既に死んでいる。生理的にも、合理的にもこれは正しい判断で、そして。
正しさを規則する僕自身が、その裁判にかけられて否定されたのだ。
結婚式の写真を最後に、アルバム上でのコヨミの歩みは終わっていた。眼前に迫る死を睨んだその顔は、苦痛に歪んでいた。
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目を覚ますと、僕はまた新たな記憶の異変に気づいた。コヨミを失ったのは十年前、結婚してから六年が経過した頃だった。
慌ててアルバムを確認すると、アルバムの中のコヨミはしっかりと、結婚してから六年間の写真に写っていた。その一枚一枚の思い出を、僕は記憶から蘇らせることができる。
最初に出会ったとき、とても不安になったのを覚えている。見えないものを恐れているような仕草で無理して愛想笑いをしている少女。それがコヨミの第一印象だった。
良い印象とは言えない。様子はおかしいし僕のことも面倒そうに対応するので、嫌なら嫌とはっきり言えば良いのにと思ってしまった。
コヨミは草花が好きで、道案内がてら色々な草の名前やどんな花が咲くのかを教えてくれた。そのときの彼女は、宝物を見せる子供のような笑みをした。その笑みに照らされて、深く彫られた隈と消えてしまいそうな背中の中に、僕には想像もできないような苦しみが見えた。
僕はそれを、どうにかしたいと思ってしまったのだ。
コヨミはずっと頭の中に恐ろしいものがいるのだと言っていた。死んだ友人の死期が、だんだんと今に向かってずれてくるのだと。友人も同じことを言って、そして死んだそうだ。
僕は彼女の言っていた状況が今の自分にも重なることに気がついていた。
コヨミに起きていた出来事が、自分にも起きている。僕はもうじき死ぬ。
過去に追いつかれて、コヨミと同じように。
いや、コヨミと同じかどうかは問題じゃない。彼女は結局、僕とあまり関わりが無いまま死んだのだ。そこからの思い出は全て偽りの記憶で、僕はその時間を実際に過ごしたわけではない。
アルバムの写真の一つに目が止まる。いつもは構えて作り笑いをしているコヨミが、珍しく自然に微笑んでいた。
確かこれは僕が作っていたアルバムについて、コヨミに提案したときのことだ。
『コヨミは写真に写るの、苦手だったのかな。ごめんね。僕の趣味に付き合わせちゃって』
『ううん……違うよ。ただちょっと、余裕がないだけ、かな。でも、トオル君が一緒に写ってくれていると、一人じゃないんだって思えて……嬉しいよ?』
コヨミは記憶に怯えていた。だが、記録に怯えていることは見たことがなかった。むしろ定まった外界に安心を見出しているようにすら見えたのだ。僕はこのアルバムがコヨミにとっても大切なものになっていることをうっすらと感じ、何かもっとできることはないかと考えていた。
『…………提案なんだけど。アルバムに花の写真を入れるのはどうかな。僕ばかりが写真を追加するのはなんだか寂しくてさ。これは僕らのアルバムだから、コヨミも好きなものを詰め込んで欲しいんだ』
そこから先、アルバムには草花の写真が名前を添えて貼られていた。それは僕らが歩いた道と出逢ったものたちの記憶だった。花の写真に囲まれた彼女の自然な笑みが、僕には何よりも綺麗な花に見えた。憑き物が落ちたような彼女の隣で、僕が心から笑っている。
既に記憶は色付いて、深く思い出の中に根を張っていた。
ああ、既に僕の一部になってしまっている。
それを肯定する覚悟も否定する度胸もない僕が、どこにもない筈の今の真ん中でアルバムを開いている。
なあ、ここにいる君は何者なんだ。
この記憶は偽物だ。君はあの夏休みの散歩道で倒れてそのまま死んだのだ。高校卒業間際に死んだわけでも、結婚して死んだわけでもないんだ。
僕は君を知らない。
僕はこの今を追いかける記憶を、『追憶』と名づけることにした。
そんな冷静さを影に、脳裏にはコヨミの声が響いている。
『死にたく……ないよ』
拒否と同意を含んだかたちで、その音に僕は言葉を重ねた。
「ああ。僕も死にたくない」
その日の仕事は手につかなかった。何か考えようとするたびに、コヨミの居場所が気になるのだ。
思い出すたびに彼女がまたここに一歩近づいているのではないかという恐れと、見張らなければならないという強迫観念。彼女が動くのは眠って意識を完全に手放している瞬間だとは思うのだが、確信が得られない以上僕は怯えに従う他ならなかった。
同僚が心配して声をかけてきたので、もうすぐ死ぬかも知れないことと、命をかけた達磨さんが転んだをしていることを話した。話に尾鰭がついていつの間にか数日の休みをもらうことになった。
本気にするなって。そう言い返そうとしたが、有無を言わさず病院を勧められた。きっと僕もあのときのコヨミのように見えているのだろう。
家に帰った僕は、じっとアルバムを見続けていた。開いているのはコヨミが最期に写っている写真だ。彼女は、それが最期の写真であることを理解した面持ちでファインダーを見据えている。その先にいる僕を見ている。
インクで描かれた彼女は動かない。しかしそれを見ている僕の記憶はどうだ? 瞬きの合間に記憶がすり替わったとしたら? さっきまでここで歩みを止めた君を知っていた僕は、たちまち嘘になってしまう。
乾いた目に涙が滲んだ。
頼むからじっとそこで動かないでいてくれ。
僕は青く縁取られた感傷を手に祈ることしかできないでいる。
焼き付くほどに見ていれば、いずれ動かなくなるかもしれないと思った。
しかし確認ができるのは、いつも何かが終わってからだった。僕らは先を知らないまま費やすことでしか恐れを退ける方法を知らず、それすらもただ抗った気にさせるだけの気晴らしに過ぎない。
充血した目から辿り、頭がきりきりと痛みを上げる。アルバムがゆらゆらと歪んでいる。
君が死なないでまだ隣にいてくれれば。
弱った心が呟いた。その心をためらいなく殺す。
変わらないことが美徳なのではない。正しくないことが悪徳なのである。
その徳が守ろうとしているのは自己であり、整合性であり、過去であり、未来だった。
ただ、僕は僕のまま明日を迎えたかった。
夜が広がる。
一人きりの不寝番がはじまった。
既に眠気は訪れていた。何かを行いながら刺激を受けて目を覚まし続けることとは違う、変化のない景色の中で自らを保つ作業。途切れ途切れの意識をつなげながら、僕は僕自身を継続させる。
不変を求めていることの矛盾を突きつけるように、意識がぷつりぷつりと千切られてゆく。
耳鳴りがだんだんと彼女の声のかたちを取った。
「無理しないで……ゆっくり……休んだら?」
悪魔が囁く。疲れが彼女との思い出を引用している。
「トオルは十分頑張ったよ」
そんな言葉は聞いたことがなかった。
思わずのけぞるように立ち上がった。自然と体に力が入っていた。
開いたままのアルバムを前にして、鳩の鳴き声が外から響いている。
僕は夢を見かけていたのだ。
眠れば死に近づく。しかしだからこそ、これからどうすればいいのかわからないまま、逃げるように隅へと追いやられてここにいる。
彼女の声は、まだ怪物のように思えた。なぜなら彼女は僕の中ではもう死んでいるからだ。
十年も経てば傷は癒えるしかし明日はどうだ。
眠るたびに僕は死んでいたのだ。
僕は光を浴びるために外に出た。
その先で糸の切れた人形のように僕は倒れた。
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朝四時に目を覚ました僕は、いつも通りに朝食を作り始めた。息子の分も作らなくてはならないから、早起きをしなければならない。
そうしてまた僕は、自然と記憶の中に生まれた亀裂と積層を理解した。
もう驚くまい。
作業を中断した僕は震える足を引き摺って、子供部屋の扉に手をかけた。動悸が激しくなる。まるで全身が心臓になったかのように、首筋で脈が感じられる。
半ば現実逃避的に僕はコヨミのことを考えた。彼女を失ってから二年経った。まだ心の整理はつかなかったが、シオンの為にも僕はやることが多くあった。
これはやるべきことなのだろうか。あの子を疑うことが、僕が今あの子のためにしてやれることなのだろうか。
そう思うと同時に、その思考を自分の心ではないと拒絶する昨日までの僕がいた。
追憶の副作用だ。コヨミの死が今に近づくにつれて、それにまつわる出来事に変化が生じているのだ。記憶の媒体が物質的なものであるのなら、現実に変化が生じるのも無理な話ではない。事実昨日までの僕はアルバムの変化を目撃していたではないか。
さて。事実や現実の根拠は、どこにあったのか。
いかにして簡単に壊れてしまうのか。確かさとは、そこにある以上のものを求めた時から伽藍堂になってしまう。それに答えはない。それを求める行為自体が、昨日までの僕が嵌まっていた過ちだった。
追憶との距離はあと二年。明日には僕は死ぬ。いや、あくまで更新されるのが眠ったときであるだけで、起きている間も刻一刻と追憶は僕に歩み寄っているのかも知れない。そうだとしたら僕の命の時間は午前中のうちには尽きることになる。
予想以上に早い進行だ。気づいてからまだ三日しか経っていない。
何故僕なんだ。僕が何をした。今である必要はあるのか。この苦しみに意味はあるのか。
疑問というかたちを取って、恐怖が解消されようとする。しかしそれは理解できず、また理解する必要性もない誤った問いだった。怯えをいななかせるばかりの心は空の器を乱反射して、ただそこにあり続ける。
僕は混乱していた。混乱して、曖昧なかたちで整合していた。それは前にも、後ろにも、時間にすら、逃げ道が残されていないことを僕に理解させた。
扉を開ける。それは確認ですらなかった。
死を前にしているからこそ胸を打つものがある。それは悔いか、或いは安堵か。未分化の感情は熱と質量を持ってそこにあった。
僕はベッドの上に目を奪われる。
水底の泡のように言葉が生まれるのを、僕は黙って眺めていた。
この子供の名前を僕は知っている。そして、誰が名前をつけたのかも、はっきりと。
ベッドの上に寝ている男児は僕の子供で、僕は紛れもなくその時間を生きていたことを思い出す。
知るはずもない。だが知っている。昨日にはいなかったのに、この六年間を共に過ごしていた。
シオンの寝顔から空気に溶けるように、何千回と想起された言葉が聞こえる。二年前に聞いた音が、染み付いて。僕を正しい形へと導いてゆく。何が正しいのかなんて、誰も最期まで知らなかった。
『シオン……お母さんはあなたが笑うのをもっと見ていたかった。アルバムも……私、みんなと別れたくないよ』
弱々しく項垂れた肩。震える背中。手を伸ばしたら壊れてしまいそうなほどに、脆く。だから。
起きながら目を覚ますように、僕は過去の自分を手にかけた。
「……どうして、こんなことになっているんだ」
虚空に問いかけるよりも先に答えは見つかっていた。最初にコヨミに出会ったときに、彼女が追憶に殺されるところを見てしまったからだ。
あのときは持病か何かだと思った。しかしそのときには既に追憶の種が植えられていたのだ。
僕は何も知らずに、コヨミを自分の人生に関係のないこととして忘れた。実際、コヨミは僕に取ってすれ違った他人の一人と変わらない筈だったのだ。
だが、三日前の夜にその記憶の中の怪物は発芽した。奴は僕の運命に根を張り蔓を伸ばし、寄生虫のように僕を狂わせる。
僕はもうそれに抗わない。
救いも知らないから傲慢にも助けたいと思った。記憶の中の僕は確かに愚者であった。だが、その前から結末は決められていたのだ。そして同様に答えも決まっていた。
もし追憶が死の瞬間を見たものに感染するのならば、僕のすべきことはひとつ。シオンに僕のその瞬間を見せないこと。
現実に戻れなくなった役者のように、今目の前に広がる現実に意識を重ねていた。
僕は躊躇いなくベランダから身を投げた。
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「アルバムばかり見ないで……! 外に出ようよ!」
コヨミが僕の腕を掴んで強引に鞄を持たせた。遠慮を感じないその図々しい振る舞いに、思わず満更でもないため息が出た。
「折角の休みなんだからいいじゃないか」
「よくないよ。折角の休みだからこそ……だよ!」
コヨミはどちらかと言えばアウトドア派だ。出会った時から、一人でいつまでも散歩ができるような人だった。彼女と結婚してから十六年。これほど積極的に僕を散歩に誘うことはなかった。
「ちょっと、どうしたの突然」
「私たち……いつ死ぬかもわからないんだよ。だったらせめて今まだやってないことはやっておかなくちゃ」
コヨミは昔から変なことを言うことがあった。記憶の中で怪物が追いかけてくる。最近は言わなくなっていたが、まだ不安なのだろう。僕は少しだけ大袈裟だと思って、声にした。
「今日じゃなくても来週にも行けるよ。来年だって。僕らがお爺さんお婆さんになっても行けるさ」
無根拠な励ましというものは、それが嘘にさえならなければ何も問題はないのだ。真実どうであるかなどは問題でなく、主体的な僕らがどのように人と関わるかという命題のもとに許された手段であった。
「あなたは来週もアルバムを見てるでしょ……ほら、早く支度して」
「シオンを起こさなきゃ……」
シオンを起こしに行こうとした僕を、コヨミが制止した。
「昨日友達と遊んで疲れちゃってるから、シオンは……休ませてあげよ?」
彼女はそう言って僕の目を見ていた。アルバムの最期のような深く濁った目を突き刺して、記憶越しの僕を睨んでいるのだろうか。
僕の目の奥には未来の僕が座っている。もちろんその未来の僕の奥にも。
「ほら……私にアルバムを教えてくれたんだから。トオルも散歩を覚えないと!」
いつも歩いている道を、いつもと違う理由で歩いた。
道を歩くことは手段であって、道とは通過できる空間であって、僕はその景色をまじまじと見たことはなかった。
しかし全く見ていない訳でもなかった。僕は道にあるもの一つ一つに、僕の記憶を重ねて置いていた。アルバムに写真を貼るように、焦点を合わせた先にこれまでの出来事が浮かび上がった。ここは僕の記憶の道だった。
シオンが初めて自転車に乗れるようになった日を思い出した。それは何の変哲もない松の木だった。何の役割も持たなかったから、思い出を掛けておくには丁度よかったのだ。
「この木」
その木を指差したコヨミが言った。
「シオンが初めて木登りをした木なの!」
記憶が塗り替わる。自分が配置した記憶よりも強く関連付いたそれは、その前に何があったのかも思い出せないほどにイメージを書き変える。僕のアルバムは、ずっと前から僕とコヨミとシオンのアルバムになっていたのだ。
道ゆくたび些細なものにコヨミが言葉をつなげた。まるで僕の記憶を上書きするように丁寧に空欄を埋めてゆく。
僕はその度に自分の知らない思い出に驚きを抱えて、やり返すように僕だけが知っている思い出をコヨミに投げ返す。
そして、短かった旅が終わった。
「コヨミ、そろそろシオンが起きてくるよ。帰らなきゃ」
話し足りない感覚は満ち足りている証でもあった。記憶が鼓動していた。
コヨミの時が止まる。その背中が、何度も最期に見てきた写真と重なる。
それはこの僕の記憶ではなかった。
コヨミがゆっくりと振り向いた。その顔は泣いているような、笑っているような、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされたクレヨンのような理解のできない感情を表して、
「さよなら」
何度も見た記憶たちと同じように、倒れた。
僕はその先を知らない。
その先とは何だ? 僕は今どうしている?
……今?
背中を刺すように怯えが走ると、目を閉じていた視野が広がり肌が思い出す。
僕はそれまで見ていた景色が、昨日の記憶であることを理解した。
手足も、質量もどこか置いてきたような感覚に芯が生まれ、もがくように目を覚ます。
病室の天井と、今がそこにあった。
「──ぁ」
涙が追いついてきた。昨日はそれどころではなくて出なかったが、今は思考のほうが遅れている。
色が重なっていた。幾重にも幾重にも積み上げられて切り分けることもできないまま、踏み躙られた花を思い出す。像がぶれる。僕は自分がどこにいるのかを必死に理解しまいとしていた。
「目が覚めていたんですね」白衣の老人が病室に入って来た。
「覚めているのかまだ夢を見ているのか、もう何だかわかりませんが。ただ、僕はあの後どうなったのですか? 妻が死んだ後から今までのことがわかりません。シオンは、息子はどうしていますか」
「奥様が亡くなったことを確認したんですか?」
医師は言葉の調子を変えずにそう言う。
「変な話ですが、妻が死ぬことは分かっていたんです。昨日の時点では知りませんでしたが。何だか妄想みたいですね。説明はできません」
口は心と無関係に動いた。話している間も涙は止まらなかった。
「……仰る通り、奥様は心肺停止で亡くなられていました。あなたはその土手の下の川に浮かんでいるところを発見されたそうです。落ちる際に頭を打ったのでしょうから、無理はなさらずに」
「そうですか」
間抜けな話だ。そのまま死んでしまえばよかったのに。そう思ってからシオンのことを思い出した。
「それで、息子は大丈夫ですか?」
「息子さんならあなたと奥様のご両親と一緒にいらしていますよ」
「そうですか、よかった」
僕がいなくなっても、何とかなりそうだ。
「目が覚めたら面会と思っていたのですが、まだ混乱なさっているようだ。お子さんのことを考えたら、まだ会わないことをお勧めしますが、どうなさいますか?」
「ええ。僕は今日誰にも会わない方がいいですね」
「わかりました。目が覚めたことと気分が優れないことを伝えて帰って頂きます」
「お願いします」
医師は病室を後にしようとする。
「後でまた様子を見に戻ります」
「すみません」
「何でしょうか」
「今日は気持ちを整理したいので、一人にさせて頂けないでしょうか」
医師は少し視線を左上にそらしたあと、視線をこちらに戻す。
「わかりました。しかし何かあったら呼んでくださいね。十八時頃に夕食を持ってくるのでそれまでゆっくりなさってください」
「ありがとうございます」
僕の言葉を最後まで聞いてから、医師は扉を閉めていった。
自分の口が他人のもののようだった。機械仕掛けのように自然に動いていて、静寂が残されてからその事実に驚いていた。
この体はもともと誰のものだったのか。僕は何かを忘れているような気がしていたが、それほど大切なことでもないと思った。
コヨミが死んでしまったことの方が辛かったからだ。
受け止めているようでいて、まだ思考のそこかしこにコヨミが生きていた残滓が残っている。また明日になれば、ここにはコヨミがいる。そうどこかで思っていた。
何もない掌で、アルバムを開く真似をした。幼少より続けてきた所作は一切の疑問もなく神経を手繰り寄せ、焼き付くほどに見てきた写真を思い出す。左後ろに首をやると、そこにはコヨミがいる、はずだった。
虚空に手を差し伸べる。アルバムを受け取ってくれる手はそこにはない。
目を瞑っても隠せない。止まらない涙が証明する。
分かっていた。これが僕の最期だ。
追憶に追いつかれた最後の朝で。これから僕は誰にも知られずに死ぬのだ。
そう決めていたじゃないか。
いつの間にか僕の中では死ぬことが当たり前になっていた。
死にたくないと騒いでいた心の声は、もう死んでしまったようだ。
体から力を抜くと、緩やかに眠気が訪れた。
瞼の力を抜くと、自然と目が綴じられてゆき、世界から光が忘れられる。
輪郭がぼやけてゆく。脳裏に湧き出る走馬灯も、溶け混ざって意味を失ってゆく。
まるで僕自身が暗闇になったようだった。
全てが暗闇から始まるように、最後は暗闇に帰るのかもしれないと、そう思った。心はそれをもう記録してはいない。全てがただ過ぎて行く。
その中で心地よく全てを忘れるように、最後に残った意識から手を離した。
僕という事象の最期には、誰かの声が刻まれていた。
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「おはよう」
カーテンを引くシャーシの摩擦が、急くように空気を薄く震わせた。
男は妻の声に起されて微睡んだ瞳を擦りながら体を起こす。
「ああ、おはよう」
朝日が部屋の隅にまで広がり、夜の間に冷え切った空気を温め始める。
「遅い! もうシオンは朝ごはん食べてるのよ」
「ごめん。昨日仕事が少しだけ残ってたんだ」
「いいから早く」
女はそう言うと、居間へと戻っていった。男は少し考えるようにあたりを見回すと、掌で何かをめくる真似をしてから戸棚に目を向けた。
世界はまるで形を変えずに続いているかのように、形を変えなかった痕跡だけが残っていた。
居間に男が戻ると、二人の家族がそれを待っていた。二人は男を見ると仕切り直したように、おはよう、と言葉を渡す。
朝のニュースがそれまでの毎日と変わらぬ日々を模っている。丁度桜が咲く時期になったようで、人々が塊のように木の下に集まっていた。
何者とも関係なく季節が巡っている。その傍ら、目立つものに引き寄せられて人々は関連する。木に留まった鳥が歌うと、ざわめきは黄色い音階に揺られて波打った。全てはモニタの内側で起きていることだ。
「どうした? シオン。今日はやけに嬉しそうだね?」
父親が問いかけると、子はそれを共有することを待っていた口ぶりで話し始めた。
「いい夢をみたんだ」
「よかったね。どんな夢?」
「明日いい夢を見る夢!」
ゆらりと言葉が揺れる。その残像を脳はかたちに変えて、ふたつの像が重なった。
「ん? ちょっと待って。それはどんな夢? いい夢なのかい?」
「いい夢だよ。だって昨日も見たんだもん」
「じゃあ明日もいい夢なの?」
「うん!」
「……結局何を見てるんだ……」
テレビと何ら変わらずに、夢のように日常は過ぎてゆく。思い出したとき儚げに思うそれは、既に壊れた偶像にすり替えられ、誰もそれに気づきはしない。
「トオル……何ぼけっとしてるの」
男はずっと、何かを探るように俯瞰していた。
「コヨミ。僕は、どうして生きているんだ?」
空気の隙間、僅かにあった切れ込みに指をかけられたようだった。
「どうしたの? そんな改まったこと」
「君が死ぬ夢を見た気がするんだ。その記憶が、いつなのかわからない昨日の何処かにあって。僕が死ぬはずだとずっと思っている」
その問いが間違っていたとしても、それだけ答えに近づけると思ったから。人は、言葉を投げかけた。
答えもまた同じだった。その二つは繋がっている。
無限遠点を望みながら。
「人はみんな死ぬよ? 花だって枯れるから。私たちだって何も変わらない。ただあるようになっただけ、だよ」
「君が生きている。怪物に追われた君が。僕だって、つい昨日まで同じだった」
女は窓の外を見た。それは目を逸らしたというよりかは、遠い昔に置いてきた過去を探しているようだった。
「あれはもう通りすぎちゃった。これでおしまい。じゃ、ダメ?」
「どうなれば良いのかもわからないよ」
答えがどんな姿をしているかもわからないから、投げかけた。
「私もそう。でも、時が経てばきっとどうでも良くなるよ」
「この先ずっと関係がないのなら、そうだね。でも、通りすぎたんなら……追憶は未来に行ったのか」
それは今日と明日、昨日と今日の間に存在した。次を操るための価値観。しかし、幻というには再現され続けて、いつの間にか当然へとすり替わっている。未来とは常に錯覚の上にあった。
それはそこにいる二人も良く理解しているようだった。
「追憶なんて名付けたら行き止まりだね」
「そうでもないさ。僕らが追いかける。あるいはもう怪物はいないと安堵できるからそれでもいいのかもね」
男が肩の力を抜いた。そうしてその記憶が掘り起こされることはもうなかった。
「とにかく、今日はシオンの病院の日だからね」
「ああ。検査結果が届いたんだね」
人々は生きていた。
今日わたしたちは思い出の息の根を止めようとするのだろうか。さもなくば全てを有耶無耶に過去にしてしまうというのか。
人間が語るとき、そこには他に誰もいないか、誰かが常にそこにあった。
さよなら。もう会うこともないでしょう。なんて。他愛のない言葉を捻っては、気付かれないように埋葬しようとした。
実りない渇きばかり産み続けた。時間だけが滔々と過ぎている。命など、もうすぐに。
棺を閉じるように眼を瞑った。暗闇の中を答えのようなものが浮かんでは消え、万華鏡のように回っている。
皆、ヒトの夢を見ていたのだ。ずっと、明日を過ぎてしまうまでの間。
夢から覚めて、朧げな記憶を辿るなかで、選ばれなかった記憶たちが溢れてゆく。そっと、誰かが祈るように前を向くと、その先にあるものが大きな口を開けて私たちを呑み込んだ。
わたしたちはその先で待っている。
扉が開いて、身支度を済ませた少年が戻ってくる。
彼は両親を見ると背を向けて、濁った深い咳を吐いた。
2023/7/3
大学卒業前の最後の執筆。
テーマは「怪物」より、理解不能の死の恐怖を動かそうと思った作品。