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頭が痛む。
脳味噌の芯から放射状に広がってくる痛みが否応なしに思考を蝕む。体の節々も同種の感覚に支配され、寝返りをうつのすら一苦労だった。
椚雲雀の現状は高熱にうなされている、である。
一晩かけてじっくりと身体中を冷やし尽くし、さらには山から下りる際に冷たい風によって追い討ちをかける。家に帰ったあとに温かい風呂に入ろうが何をしようが、生存に適さない環境で鞭を打ち続けた体が限界を迎えるのは規定路線だったのだ。
雲雀は自室の布団で止まない痛みに耐えている。解熱剤も大して効いた様子はなく、逃げ場のない現実が有無を言わせず雲雀を絶望の淵に叩き落としている。
奇しくも昨日自分が言った通りとなった。
もはやあの朝の晴れやかな気分はどこにもない。ぐわんわぐわんと脳味噌が揺さぶられ、視界いっぱいに度の合わない眼鏡をかけたような景色が張りつけられていた。胸中に去来するのは、あの時の自分の行動に対する後悔だけであった。
――冷静になって考えたら、本当に気持ち悪い事したな……。
――会ったばかりの女の子にあんな状況だったとはいえ……。
――駄目だ。恥ずかしさで消えてしまいたい……。
あのあと美波ひかるとは山を下りたところで別れた。路面の凍結こそなかったが、溶け始めた雪によってお互いに何度かスリップしかけた事は覚えている。愛車に傷をつける事なく人里まで戻って来れたのは運が良かっただけだろう。
あの出会いが一期一会とするのは彼女の方が嫌がった。別れ際、ひかるの圧に屈しメッセージアプリの連絡先を交換し合った。スマートフォンを握り締め、頬を淡く染めて微笑を浮かべる彼女に不覚にも心を動かされてしまったのは内緒だ。
はっきり断言できる。
美波ひかるの容姿は世間一般の基準に当てはめて、かなり整っている。芸能人と同レベルとまではいかなくとも、街中では良い意味で人目を引くだろう。きめ細かい白い肌とそれに調和するような薄い色の瞳と髪。まさに昨夜形容した通りの西洋人形のような美しさだ。
だが、雲雀は知っている。全てが完璧と思えるような造形をしている彼女の、前髪に隠れたその一点に痛ましい火傷の痕がある事を――。さながら姿を認知できない上位存在の手によって、無理矢理世界の均衡を保たれるかのように。彼女の持つ美しさは、たった一つのマイナス要素によって歯止めをかけられているのだ。
こう言えば、他人の持つ個性を貶めるなと怒りを露わにする人間が出てくるかもしれない。しかし、ひかる自身にとってはまず間違いなくそれは足枷なのだ。雲雀にそれを見られた際の取り乱し方から察するに、彼女はまだそれと折り合いをつけられていない。
そこに含まれる過去は少女にとって忌まわしきもの。であれば他人でしかない雲雀に深入りしていく権利はない。
「ううーああー……」
熱にうなされながらも右手で毛布の下をまさぐり、自分のスマートフォンを探り当てる。画面を点灯させると味気ない壁紙の上部分にデジタル時計が表示されているのが見える。
時刻は午後の四時を少し過ぎたところだ。日が落ちていないので何となくそんな感じはしていたが、とにかく時間が過ぎるのが遅い。ベッドに横になる以外、特にできる事もなければ、眠りに落ちる事さえ許されない。苦痛だけが傍にあった。
投げ出すように端末を置いた時、通知音が鳴った。出どころは当然雲雀のスマートフォンだった。再びディスプレイに目線を落とすと、どうやらメッセージアプリの通知のようだ。
デフォルトの人型の輪郭だけのアイコンの横に差出人の名前が表示されている。ハンドルネームを設定する事もできるはずだが、律儀にも本名で設定されていた。美波ひかるだった。
通知バーをタップしアプリを開く。
『お疲れ様です。
美波です。
いかがお過ごしでしょうか。
私は家に帰ってからさっきまで寝てしまってました。
キャンプ場で良く眠れたと思っていたのですが、
自分で思っていた以上に疲れていたみたいです。』
文面がやけに堅苦しいのは彼女の素か、それとも意識してだろうか。
文章に目を通し終えたタイミングで次のメッセージが表示された。
『申し上げにくいのですが、
お兄さんさえよろしければ
今からお会いできないでしょうか。
これといった用事がある訳ではないのですが……
駄目でしょうか……?』
この様子だと、どうやら彼女自身の体調は問題ないらしい。しかし、ひかるは知る由もないだろうが、画面の向こうにいる愚か者は絶賛ダウン中なのだ。
ひかるの気持ちは理解できるが、答える事はできない。
雲雀は働かない頭をフル回転させて返事を打ち込んでいく。
『お疲れ様。
申し訳ないんだけど
昨日の寒さにやられてしまったみたいでね。
風邪を引いて動けなくなってるんだ。』
そこまで送信し、続けて、『だから日を改めてほしい』との旨を伝えようと仮想キーボードに指をかけた時だった。一足先にひかるからの返事が返ってくる。
『それなら、お兄さんの家にお邪魔しても良いですか?』
急いで入力したのだろうか。吹き出し風のUIに表示されたのは、その一文だけだった。
これは困った。彼女にとって、顔を合わせる場所は外である必要はないらしい。そう仕掛けてくるのならば、先ほど考えていた文言はもう使えない。さてどうしたものかと頭を悩ませ始めた途端、さらなる追撃が繰り出される。
『何か必要なものはありますか?
お薬でもご飯でも飲み物でも、
何でも買ってきますよ。
私のせいでお兄さんが風邪を引いてしまったようなものなので、
ぜひ看病させてください(>_<)』
「…………」思わず枕に顔を埋めて叫び出しそうになってしまった。
今どきの若者らしいスタンプではなく一昔前の顔文字を使うあたり、やはりこの手のメッセージアプリに慣れていないのだろう。厚かましい事を言っていると理解しながらも、少しでも印象を和らげようと四苦八苦しているのが分かって、とても愛おしい。
勝者――美波ひかる。
完封された雲雀は大人しく自宅の住所を打ち込んだのだった。