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幸い、管理棟の鍵は壊すまでもなく開いていた。閉鎖する際に施錠し忘れたのか、雲雀達以外の誰かがここを訪れた時に壊したのか。地面に南京錠の類も見当たらないので前者だろうか。どちらにせよ労せずして室内に入れた事は確かだ。
ブレーカーが落ちているか、電線がイカれてしまっているかしているらしい。管理棟内の電気は着く様子がない。
スマホのバックライトで足元を照らしながら、管理棟の中を進んでいく。室内は意外にも綺麗なままで特に廃墟のような雰囲気は感じられない。ところどころ蜘蛛の巣が張っているが、それはキャンプ場が経営されている時からだろう。
廊下を進むと来客受付のエントランスが見えた。一〇畳程度の広さの室内を四分の三くらいのところでカウンターで区切っている。当たり前だが、より広いスペースの方がスタッフ用だろう。カウンターや壁に押しつけるように置かれたデスクの上にはデスクトップPCが何台か置かれており、埃を被っている。中央には円筒状の石油ストーブが置かれているが、仮に燃料が残っていたとしても電力が通っていない以上意味はないだろう。
客側スペースにはボロボロのソファが一つだけ。味気ないようにも思えるが、本来なら受付してすぐにサイトまで行くのだからあまり関係ないのだろう。
「ここで良いかな」雲雀は周囲を見回すと、あらかじめ備品倉庫からくすねておいた毛布をソファの上に置いた。「雪も強くなってきたし、ここで一晩やり過ごそうか」
「……あの」
「何だい?」
ひかるが目を泳がせながら、何かを言いたそうにしている。なかなか次の句が紡がれないあたり、言い出しにくい内容なのだろう。そして今の雲雀には彼女が何を言いたいのか大体分かってしまう。
「心配しなくても良いよ」努めて冷静に言う。「今日はやめにした。美波さんがいるからね」
「……迷惑でしたか」
「いいや」
そう返しつつソファに腰を下ろす。隣を空けておいたら、ひかるも続いて座った。肩が触れそうなほどの距離。ふわりと綺麗なブロンドヘアから甘い香りが漂う。
「仕事で体を壊してしまってね。しばらく社会復帰できそうにない」スラスラと身の上話が出てくる。「とはいえ体がある程度治ったとしても、僕自身はもう働いていける自信がないんだ」
一年と数ヶ月。組織の一員として日々を過ごすという経験を通じて分かった事がある。
「向いてなかったんだ。毎日他人と関わりながら顔色を窺って過ごすのが」
「人間が嫌い……という事ですか」
「嫌い――とはまた違うかな」少し考えて、「疲れるんだ」と言った。「仲が良かったとしても悪かったとしても他人とコミュニケーションを取る事自体が億劫で酷く精神を摩耗させるんだ」
「それは……何となく分かる気がします」ひかるは自分の膝をぎゅっと抱えた。「常に誰かの事を考えて過ごすより……最初から一人でいた方が」
「気楽」
「はい」
「はは。僕らは似たもの同士みたいだ」
ガタガタとログハウスが揺れる。風も強まってきたようだ。どこからともなく隙間風が吹き込み、足許の気温が急激に下がったように感じる。
「……本当に――一人で全部やってしまえば良かった」ぽつりと少女が呟く。冷えた空気に同調するように光の消えた瞳が虚空を凝視していた。「何で私は頼っちゃったんだろう……。ああなる事は……少し考えたら分かるはずなのに……」
敬語が抜けているという事は、これは雲雀に向けられた言葉ではないのだろう。
あくまでもひかるの独白。
それを理解した上で雲雀は答えた。「――『人間はポリス的動物である』」
「……人間は社会的動物だから、死ぬ時も誰かと関わろうとするのはおかしくないとでも言いたいんでしょうか? でもアリストテレスは社会的動物として、その言葉を使った訳では――」
「それは分かってるさ。そっちの意味での社会の概念を提唱したのがホッブズである事もね」
雲雀は一拍置いてから――
「人間は常に最善を求める。それが寄り集まって形作られる共同体も同じ。だから美波さんのやろうとした事は何も間違っていない。一人で自殺を試みるのが不安だから、より確実な方法を取ろうとした。それだけだよ」
「……でも、結果はこの通りです。私は騙されて……お兄さんにも迷惑をかけて……」
「そんな事はないさ」と雲雀ははっきりと言った。「僕はさっき『今日はやめにした』って言ったと思うけど、別にあれは『自殺を思い留まった』って意味で言った訳じゃない」
「それは……」
「自分が用意してきた方法で命を絶つのをやめた――そういう意味だよ」
そう。雲雀達のいるログハウスは電気が通っていない。暖房もつかない。石油ストーブもつかない。彼らが本格的な防寒道具を持っている訳でもない。
しかし雪はどんどんと強くなっていく。夜は深くなり、気温は際限なく下がっていく。
「凍死するつもりですか」
「その通り」雲雀は口許を愉悦で綻ばせた。「アルコールがない事を除けば条件はかなり良好だと思わないかい?」
ひかるの方を見ないままさらに言葉を紡ぐ。
「それとも練炭自殺の真似事でもしてみるかい? ここには売り物だった薪もいくつか残ってる。密室にして火をつければ一酸化炭素中毒にだってなれると思うよ」
雲雀の提案をひかるが受け入れないだろう事は確信できる。
おそらくは彼女が選ぼうとしていた方法は今しがた述べた練炭自殺だ。
十中八九SNSを通じて知り合った相手との心中自殺。人気のない山奥で確実に自らの命を終わらせようと思えば、おのずと手段は限られてくる。おおかた、あのクラウン乗りの男と車の中で練炭自殺を図る予定だったのだろう。それが裏切られ、あの結末になったという訳だ。
雲雀の放ったワードに対し、ひかるは明らかに怯えた様子を見せている。襲われている際に見た光景と、この単語が紐づいてしまったのだろう。
ひかるは口の端をきゅっと引き結んだまま、ふるふると首を振る。予想通りの反応だった。
「分かった。それじゃあ眠るようにあの世に行けるよう祈ろうか」雲雀は柔らかな笑みを向けて、ソファから立ち上がる。「美波さんはここで寝て良いよ。僕は床で大丈夫」
「そ、そんな……申し訳ないです……私が下で……」
「はは。お互い今から死ぬんだ。気遣いなんて無用さ」
そう言ってひかるに背を向けて受付窓口の部屋から出て行こうとする。ひかるが、「どこに行くんですか」と訊いてきたが、「喉が渇いたからさっきの自販機まで戻るだけだよ」と言って廊下へ続くドアを開けた。
一〇分ほど間を開けてから戻ると、ひかるがソファですやすやと寝息を立てていた。身体的にも精神的にも疲れ切っていたのだろう。まだ年齢を聞いていなかったが、この年頃の少女にとって、今日一日の出来事はあまりにも心に負荷をかけたはずだ。
「……本当、何してるんだろう。僕は」
脇に抱える大量の毛布の重さを感じながら、雲雀は自分自身に辟易した。
これが偽善でしかない事は分かっている。なのにどうしても割り切れなかった。今日知り合ったばかりの彼女を見捨てる事ができなかった。
今さら自分が表面上正しい事をしたからといって何になるのだろうか。それは彼女がここまで追い詰められるにまで至った過程で、彼女を蔑ろにしてきた大人の姿をした化け物達がしてきた事と何も変わらないのではないか。
雲雀自身の心の脆いところをガリガリと引っ掻きながら、何度も同じ問いが繰り返される。
「……僕にこの子を助ける権利なんてないはずなのにね」
なるべく音を立てないように、ひかるを起こさないように気を遣いながら埃っぽい毛布を何枚も重ねていく。
これ以上は重量で目を覚ますかもしれないと思うギリギリのところまで毛布をかけると、雲雀は自身にも二枚ほど毛布を巻きつけた。ひかるはともかく自分は朝日を拝む事なく逝ってしまうかもしれない。
静かに瞼を閉じる。
外から聞こえてくる風の音と、可愛らしい息遣いだけが鼓膜を震わし続けていた。