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結論から言うと断れなかった。
街の方に下りるのも警察に引き渡すのも拒まれてしまった以上、彼女を一人にしないためにはこうするしかなかったのだ。
雪のちらつく山道を二台の原付スクーターが駆け上がっていく。
先導するのは当然だが雲雀だ。サイドミラーで後方を確認すると一〇メートルほどの距離を維持しながら追随してくるジョルノが見える。ひかるが被っているのも雲雀と同じジェット型ヘルメットだが、シールドはバブル型。革張り風のレトロな外観に湾曲したバブル型クリアシールドが映える。
彼女の方が愛車に寄せているのか、それとも愛車の方が彼女に寄ったのかは分からないが、乗り手とマシンの姿はとても良く調和していた。甘いチョコレートパフェを思い起こさせる様相は彼女のセンスによるものだろうか。
――とりあえず安物で済ました僕とは大違いだな……。
防寒用のグローブでさえお洒落な革手袋をしているのを見て、思わず自虐的になる。
――バイクにも全然傷とか汚れとかなかったし、大切にしてるんだろうな。
自宅を出発してから三時間が経とうとしていた。そもそも家を出たのが午後二時前だった事もあり、空は段々と暗い影を落とし始めている。日が完全に傾けばさらに冷えるだろう。防寒全振りのウィンドブレーカーの雲雀はともかく、ファッション性重視のチェスターコートのひかるは大丈夫だろうか。
とはいえ走行中に話しかける事もできない。本物のバイク乗り達とは違って、こちらはインカムのような便利なツールなど何も持っていないのだ。
とりあえずは問題なく着いてきているので大丈夫だろうと結論づけつつ、雲雀は左指示器を出してこの先にある脇道に入っていくことを伝える。
リアブレーキを利かせながら小回りで左折。それまでそれなりに綺麗に舗装されていた路面から、デコボコの悪路へと変わる。ガタンっと後輪が僅かに陥没した路面を捉え、リアサスペンションが衝撃を吸収する。
ミラーを見ると、ひかるの方もあとに続いている。
申し訳程度にあった街灯も一切その姿を晦ませ、辺り一面が黒に染められていく。指示器のレバーの上にあるボタンを左親指で切り替え、前照灯をロウからハイビームにする。
暖色系の灯りが前方を広く照らす。ハンドルをしっかりと握り込み、デコボコ道の衝撃に耐えながら進んでいく。
すでに日は暮れている。両親はもう帰宅しているだろうか。息子が久々に外出している事にどう思うだろうか。
――変な気を起こさないでいてくれたらありがたいんだけどな。
エンジン音と風切り音だけが鼓膜を震わせる。世界から自分達の発する音以外がなくなってしまったかのようだ。
五キロほど進むと、それまで背の高い木々に囲まれていた景色がぱっと開けた。それまで樹木によって遮られていた風がシールド越しに顔を薙ぐ。
雲雀は両手でブレーキを引き絞り減速していく。一〇メートルほど進んだのちに車体が停止する。後ろを見やればすぐ傍に停車したジョルノが確認できた。
「寒さ、大丈夫だった?」
「あっ、は、はい……。寒いのは慣れてるので……」とひかるがぎこちなく返事する。「えっと……ここですか?」
「いや、もう少し行ったところだよ。ちょっと心配になったから」
「あはは……気にしなくて大丈夫ですよ」
「そうか。一応もうすぐそこだけど辛かったら言ってね」
「はい。ありがとうございます」
「よし、行こうか」
雲雀は一つ頷くと再びアクセルを捻った。
実際、距離としては一キロもなかった。少し走らせただけで廃れた管理棟が見えてくる。木製の小屋のような建物がぽつんと一軒だけ建っており、他には小屋に寄り添う自販機が一台だけ。電気はまだ通っているらしく、自販機から発せられる明かりが頼りなく周囲を照らしていた。
「驚いた。まだ撤去されてなかったんだね」
つい最近閉鎖されたばかりな事もあってか、まだ一部の設備は生きているようだ。何にせよ都合が良い。
雲雀は管理棟の前でスクーターを停めると車体から降りてスタンドを下げる。ヘルメットを脱いでミラーのポールに引っ掛けた。
「せっかくだから何か飲もうか」と自販機を指差すと、ひかるは申し訳なさそうに伏し目がちになった。
「あ、えと……ごめんなさい。私……財布持ってきてなくて……」
「良いよ。僕が買うから」
ズボンの尻ポケットから財布を取り出し、小銭入れ部分のファスナーを開ける。ちょうど良く五〇〇円玉があったので、それを小銭の投入口に突っ込んだ。
「はい、どうぞ」
「すいません……ありがとうございます」
謝罪と感謝の言葉を一緒に述べながら、ひかるの人差し指が自販機のボタンを押した。ホットのカフェオレだった。
彼女が出てきた缶を取り出すのを確認してから、雲雀も飲み物を購入する。こちらはブラックコーヒー。もちろんホットである。
「お兄さん。すいません、いただきます」
プルトップを開け、小さな唇を缶の縁につける。こくりと小さく喉を震わせ温かいカフェオレを嚥下する。口を離し、「はう……」と白い息を吐き出した。頰が僅かに紅潮しており、表情も幾分か和らいでいた。やはり寒いものは寒かったのだろう。
緊張の緩んだ表情を見せてくれた事に少しだけ安堵する。雲雀の方も缶コーヒーを開けて、湯気の立ち昇るそれに口をつけた。舌を刺激する苦味が脳を覚醒させ、熱い液体が冷え切った四肢の先に浸透していく。
「やっぱり長距離走ったあとのあったかい飲み物は格別だね」
「そうですね」ひかるが控えめに笑った。精巧な西洋人形のような彼女が見せる幼い笑みはとても魅力的に写った。「私も好きです」
同じ乗り物を乗る同士、分かり合えるものがあるらしい。ブロンドヘアの少女は恍惚の表情でカフェオレを飲み干していく。
「さて、それじゃあ行こうか」
空になった缶コーヒーの容器を自販機横のゴミ箱に放り込む。ひかるも慌てて缶を捨て、上目遣いで雲雀を見た。
「はい……」と力なく返し、それから何度か目を泳がせて意を決したように、「あの……」と切り出す。「訊いても……良いですか?」
「何かな?」
「その……お兄さんは何の目的で……ここに来たんですか?」
「あれ? 言わなかった? ここは星が綺麗で……」
「――たぶん、違いますよね?」
「え?」
「あ、えと、私の勘違いだったらごめんなさい。でも……何か別の目的がある気がして……。私がさっき『どこに行くのか』質問した時……その……お兄さん、凄く悲しい表情をしてた気がして……」
「…………」
言葉に詰まる。どうやら見透かされていたようだ。どうしてバレたのだろうか。
――いや、僕だって分かっていたじゃないか。
――きっとそんな気がしていた。
――でも。
――それを口にするのが……どうしようもなく気が引けて……。
――あえて見て見ぬ振りをしたんだ。
そう。
おそらくは。
お互いに分かっていた。
雲雀とひかるは同じだった。互いが互いの内心に気がついていながら、そこから目を背けてここまでやってきた。
もう隠し事はできない。
「答えは……たぶん分かってるよね」
「でも、お兄さんの口から聞きたいです」
「そっか」
雲雀は肩をすくめて諦めたように小さく笑った。それから空を仰ぎ見た。夜の闇からは対照的な白い結晶が降り落ちるだけで、星なんて一つも見受けられなかった。
「――死ぬためだよ。価値のなくなった自分の人生を自分の手で終わらせるためにここまで来たんだ」