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何となくそんな気はしていたが、ブロンズのクラウンはやはり茶髪男のものだったらしい。けたたましいエンジン音を響かせながら山を降っていく。
雲雀は重たい息を吐き出した。それだけで胸の内に溜め込んでいた緊張がみるみる解けていく。
「……さて」と思考を切り替えて、未だ仰向けで倒れたままの少女に近づいていく。その場でしゃがみ込むと、「う大丈夫だ」と少女を安心させるように告げた。「立てるかい?」
「……来るんですか?」少女がか細い声で尋ねた。「警察の人……今から……」
「悪いけど、来ないよ」すでに隠す必要もない。正直に答えた。「あのオッサンをあしらうための嘘だよ。僕がここに来た時にはもうかなり危ない状態に見えたからね。とっさにした演技だよ」
「……っ、ふぐっ……」
雲雀の種明かしを受けて、少女の両目から堰を切ったように涙が溢れ出した。思わず面食らう。どうしたのかと尋ねる前に少女が口を開いた。
「よ、かった……良かった……です……! 通報されていたら……どうしようかと……思ってました……」
「ええと……? 警察、来ない方が良かったって事?」雲雀は眉をひそめる。普通は逆ではないか。どんな事情があったかは分からないが、あれだけの乱暴をされたあとだ。しっかりと頼れる大人に保護してもらえる方が良いのではないのだろうか。
少女が嗚咽を洩らしながらも上体を起こす。そこで何かに気づいたように自身の左顔面に触れた。先ほどまで号泣していたのが嘘のように顔が総毛立つ。ぱぱぱっと髪を整えると、彼女の顔の左側が重ための前髪にすっぱりと遮られた。
「み……見ましたか……?」こちらを見上げてくる少女の瞳から光が消え失せているような感じがした。
雲雀は僅かに目を逸らしつつ、「ああ、うん……まあ……」とぎこちなく答える。こういう時にどう接するのが正解なのか皆目検討もつかない。「その……大丈夫と言ったら語弊があるのかもしれないけど……深くは聞かないよ」
「あ、ありがとうございます……」
人里離れた山の中に明らかな訳ありの少女と強姦(未遂)魔の組み合わせ。
その裏に隠された背景は想像する事しかできないが、いずれにせよ碌なものではないはずだ。
そしてそれを上手い具合に聞き出すコミュニケーション能力は残念ながら持ち合わせていない。
とはいえ、この状態の彼女をほったらかしにしたまま自分の本来の目的地に向かえるほど薄情にもなれなかった。
雲雀は衰えた表情筋を無理矢理動かして、精一杯の笑顔を作る。少しでも自分に敵意の類がない事を伝えるために。
「僕は椚雲雀。君は?」
「……美波、ひかる……」
「美波さんか。これからどうする? 街まで戻るかい?」と薮の外の方を見やる。「車と一緒に停まってたスクーターって君のだよね? 僕も原付で来てるから、もしあの人が戻ってくるのが怖いなら一緒に——」
「——お兄さんは……どこに行こうとしていたんですか」
「え……?」
ひかるは前髪で隠れていない方の目で雲雀を射抜いた。「……私、戻りたくありません。少なくとも、今日一日は……」
「それは……」
親御さんに心配かけてしまうんじゃないか——と言いかけて言葉をぐっと飲み込んだ。こんな目に遭ってなお帰るのを拒む少女。胸の内に抱える何かを想像すると、とてもじゃないがそんな薄っぺらな心配の言葉はかけられなかった。
だから、「……ここよりももっと進んだところにある廃キャンプ場だよ」と正直に答えた。「少し前に閉鎖されてしまってね。泊まったりはできないんだけど、そこ凄く星が綺麗なんだ」
「…………」
ひかるは雲雀の方を見つめて何かを思案しているようだった。
そこで初めて彼女の瞳が色素の薄い琥珀色をしているのに気づく。宝石のような輝きと色合いを湛える眼球を見て、素直に綺麗だと思った。肌もパウダースノーのように白くきめ細かく、もしかしたら彼女のブロンドヘアも染めているのではなく、自前なのかもしれない。
そんな事を考えていると、西洋人形のような少女は艶やかな唇を動かしてこう言った。「私も連れて行ってくれませんか」と。「お兄さんの迷惑にはならないようにします。……だから少しの間で良いんです。私と一緒にいてくれませんか」