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 自分が何らかのコミュニティに属している時、つまりは規則正しい社会生活を送る事を強制されている時は、とにかく『朝時間通りに起きる』のが苦痛だった。布団から出るのも、家から出るために身支度をするのも何もかもが億劫だった。

 しかし、いざ社会の爪弾き者になってみると良く理解できる。人が人のテイをなすためにはその億劫さこそが必要だったのだ。誰から咎められる事もなく惰眠を貪り、最低限の身嗜みを整える事さえ忘れ、そうしてさらに世俗と乖離していく。与えられた自由は雲雀をさらに深い谷底へ突き落としていった。

「…………」

 枕元にあった安物の中華製スマートフォンを手に取った。無駄にでかいディスプレイに表示されていた時間は午後の一時前。いつもよりは少しだけ目覚めが早かった。

 全身を覆っていた分厚い毛布を剥ぎ取る。すると部屋中に充満していた冷気が一斉に皮膚を刺してくる。日の高い午後でさえこれだ。もう早朝に起きる事など微塵も考えられない。

 自分の体温の残った毛布にもう一度くるまりたくなるが、雲雀は意を決して布団から起き上がった。小学生の頃から使っている勉強机の上に投げ出されていた丸眼鏡を手に取って、自身の耳に引っ掛ける。以前の職場でも使っていた眼鏡のレンズは完全にコーティングが剥がれ、皮脂が付着されるがままとなっている。度が合わなくなっているのも含めて、もはや視力矯正器具としての役割を果たせているのどうかも怪しい。

 五ヶ月前に帰ってきた実家の自室はやはり何の変化もない。それは部屋の主である雲雀自身の停滞を表しているようだった。

 勉強机と同じ時期に買ったクローゼットから着替え一式を取り出した。いつもは部屋で着替えて寝巻き代わりのスウェットを洗濯機に放り込むのだが、今日は違った。着替えを脇に抱えて部屋を出る。階段を降りて二階のリビングに入る。当然、こんな時間なので家族は誰もいない。

 中央付近に鎮座するダイニングテーブルの上にはいつも通り千円札が一枚置かれていた。母親が昼食代として毎日渡してくれるものだ。それを目にする度に自分自身がもう自分の食い扶持を稼ぐ能力さえなくなった事を痛感させられて、胸がきゅっと痛む。

 だが雲雀はこの金を使った事は一度もなかった。もらった分は自室の勉強机の引き出しの中に全てしまってある。いつかまとめて返すために。

 そして。

「今日が……その時だよ、母さん」

 ぽつりと呟いた。ほとんど声を発する事のなくなった喉の筋肉から発せられる声は蚊の羽音並に頼りなく、そしてガラガラに掠れていた。

 千円札を放置し、一階に降りる。風呂場のドアを開け給湯器の電源を着ける。シャワーのレバーを捻り、お湯が出るようにする。出てくる冷水がお湯に変わるまでの間に服を脱ぎ、防水電動シェーバーを持ってもう一度風呂場に入った。

 シャンプーとボディーソープで体を洗い、熱いシャワーで洗い流す。洗顔料で顔を洗い、その上から電動シェーバーで一週間伸びっ放しにしていた髭を根こそぎ剃り上げていく。

 残った泡と髭の削りカスを流し、脱衣所に戻る。鏡を見るといくらか生気を取り戻したような顔をしていたが、それも一時間と続かないだろう。

 伸び切った黒髪と落ち窪んだ目。頬も若干痩せ痩けている。肌に張りは全くなく、少し押し込めばそのまま戻らなくなってしまいそうだった。

 これが二四歳の相貌だと思うと、何だかやるせなくなってくる。元々整った顔立ちとは程遠かったが、外的要因と合わさってさらに醜くなってしまった。

「はは……でももう関係ないよな」自嘲するように雲雀は笑った。「今日で全部終わるんだから――」

 自室から持ってきた着替えに袖を通す。カーキの襟付シャツに黒のコットンパンツ。その上から作業着店で買ったバイクウェア風ウィンドブレーカーを纏った。

 そのまま玄関まで歩を進め、使い古したデニム地の靴を履く。ドアを開けて外に出ると室内とは比べ物にならないほどの冷風が頬を撫でた。思わず身震いする。

 自宅のガレージには自転車が一台と雲雀の所有する原付バイク——ヤマハ製のジョグが一台だけ。いつもは黒のミニバンがガレージの大半のスペースを占有しているのだが、こちらは父親が仕事に行く際に乗って行っている。

 殺風景なガレージの中で白い息を吐き出すと、雲雀はマットな質感に深緑色をしたジョグに跨った。右のミラーに被せておいたジェットヘルメットを手に取り、頭からすっぽりと被る。顎紐を締めてシールドは跳ね上げておく。速度計の真下にあるフロントポケットから安物の防寒手袋を出して装着する。

 跨った状態で両脚を前後に動かして人力でガレージの外まで出る。そこから両手でブレーキレバーを引き絞りつつ、右手親指でスタータースイッチを押してセルスタート。エンジンが小気味良い音を鳴らして回り始める。

 このジョグは雲雀が大学生の頃から通学用に使っていた愛車だった。毎日往復二〇キロほどの距離を走り続け、休日は遠出するのにも活躍していた。見知らぬ土地で愛車を止め、そこで持ってきたノートPCで執筆するのが休日のルーティーンだった。

 社会人となってからは電車通勤となり、偶の休日も外出する気など起きなくなり、愛車に乗る機会はめっきり減ってしまった。一人暮らししていたアパートの駐輪場でカバーを掛けたまま廃車同然の扱いをしていた。

 心なしか久々に搭乗した原付も喜んでいるような気がする。五〇CCの控えめなエンジン音がそんな感情を伝えてきているような錯覚がした。

 右手でアクセルを捻ると、四ストロークエンジン特有のゆっくりとした動きでタイヤが滑り出していく。徐々に速度が上がっていき、風切り音がヘルメット越しでも聞こえてくるようになった。

 走りながらちらりと横を見やれば、路肩にうっすらと雪が積もっている。二輪にとって雪は天敵だが、これくらいの積雪であれば問題はないだろう。そもそも本線はアスファルトの黒一色で染められ、白色といえば車線を区切るための白線しかない。

 元々市街から離れた郊外なため、人も車も少ない場所であるが、今日はそれに輪をかけて閑散としていた。いや、元々この時間帯はこんなものなのかもしれない。この時間に外出するなんて事がなかったからそう感じているだけだろう。

 まだ走り出してから五分にも満たないのに体が冷えていく。防寒手袋の生地を貫通して冷気が吹き込み、指先が氷水につけられたかのようにかじかんでいく。顔全体が細かい針で刺されるようにチクチクと痛み、毛穴が一斉に引き締まっていく。風を感じるのを楽しむ余裕もなくヘルメットのシールドを下ろした。首許はともかく顔面の苦痛はいくらかマシになった。

 小さな交差点に差し掛かると同時に前方の信号機が赤色に点灯した。雲雀は原付を止めるとその場でセンタースタンドを下げて車体を倒れないよう固定させる。一旦降りてリアキャリア側に取り付けられたホームセンター製の箱を開けると、そこから使い古したマフラーを取り出す。首に巻き、蓋を閉め、再びシートに跨るとちょうど信号が青に変わったところだった。そのまま何事もなかったかのように走り出し、直進する。

 原付スクーターは速度が出ない。そのため普段であればミラーを確認しながら後続車の存在を逐一確認するのだが、今日はその心配もなさそうだった。走れど走れど追いついてくる車は現れなかった。

 しばらく走り、大通りに合流する。そこで初めて自分以外に道路を走る車両を見つけた。ブロンズカラーのクラウンが制限速度を大幅に超過しながら、二車線あるにも関わらず雲雀の真横スレスレを通過していく。明らかに正当な手順で追い越しする気が見受けられない危うさだった。

 内心で舌打ちしながら遠方に消え去っていく暴走車クラウンを見送る。原付では追いつく事もできない。

 交差点をいくつか抜けると分岐に差し掛かる。右指示器を出しながら隣の車線に移る。その先は山道が見えていた。勾配のある道路を登る。エンジンが唸りを上げ、速度計がみるみる内に左に傾いていく。目に見えてスピードが落ちた。

 空気の質が一気に変わるのを感じる。先ほどまで感じていた寒さが序の口だったと思うほどの冷たさが体全体を撫でつける。しっかりと上半身を覆っているはずのウィンドブレーカーが一瞬にして飛んでいってしまったのかと思うほどだ。

 体を丸めて縮こまらせて、少しでも体温を逃さないようにする。そうしている間にも標高は高くなっていき、ついには空から雪がちらつき出した。

 今すぐに積もるほどではないだろうが、場所によって路面が凍結しているかもしれない。

 前方だけでなく、路面の状態も確認しながら慎重に進んでいく。

 体感で標高五〇〇メートルほどまで登ったところで少し開けた場所に出た。

 そこで雲雀が気がつく。

「さっきの……」と薄く白い息を吐きながら溢す。

 先刻、猛スピードで雲雀を追い抜いていったブロンズのクラウンが鎮座していた。エンジンはかかっておらず、ぽつんと捨て置かれたように駐車されている。

 そして、クラウンのすぐ隣——並んで止めるには少しばかり似つかわしくない車両が一台。

 雲雀の乗るものと同じく五〇CCの原付スクーターだった。

 角ついた見た目のジョグと異なり、丸みを帯びた可愛らしいシルエット。丸型のヘッドライトが特徴的なホンダ製のジョルノだ。

 カウルは薄いベージュでシートは濃いめのブラウン。どこか懐かしさを感じるようなレトロなデザインだ。

 自分以外にも原付でこんなところまで登ってくる物好きがいるらしい。しかしジョルノの持ち主らしき人物も見当たらない。

「……ま、良いか」

 ここで止まっていても仕方がない。再びアクセルを回して先に進もうとした時だった。

 悲鳴。

 どこからともなく聞こえてきたのは明らかに女性から発せられたと思われる慟哭だった。

 明らかに恐怖の感情が込められている。音の出どころを探ってみるとそこまで離れてはいない事が分かる。十中八九、このクラウンかジョルノの持ち主のものだろう。

 雲雀は逡巡する。行くべきかどうか。

 ——この時期だ。

 ——まさか動物にでも襲われて……?

 ——それなら俺が行ったところでどうにも……。

 ——警察に連絡……?

 ——いや、ここじゃスマホの電波も届かない。

 ——それに仮に連絡できたとしてもそのあと……——

「大人しくしろ! この火傷女が!」

 思考を寸断するように聞こえてきたのは野太い男の声だった。火を見るより明らかな、悲鳴を上げた女性に向けられた敵愾心。雲雀の脳裏に一つの予想が浮かび上がると共に顔から血の気が引く。

「……っ」

 ごくりと生唾を飲み込む。これだけ派手に事に及んでいるという事は雲雀の存在には気づいていないのだろう。ゆっくりとエンジンを止めて降りる。なるべく音を立てないようにしてセンタースタンドを掛け、ヘルメットを脱ぐ。それを持ったまま、忍び足で声の出どころへと向かう。

 木々が茂る山の中でも少し平らになっている場所からだ。枝を踏み折らないように気をつけながら進んでいくと、一〇メートルもしない内に揉み合う二人の人間が確認できた。

 聞こえてきた声の通り、若い男女だった。

 組み伏せられているのは未成年らしき少女で、白い薄手のニットの上から淡いブラウンのスクエアネックのアウターを纏っている。膝丈より少し上くらいのスカートもアウターと同色で、そこから厚手のタイツに覆われた脚が伸びている。エナメル質の黒い編み上げシューズは右足にしか履いておらず、元々彼女が着ていたと思しき濃いブラウンのチェスターコートと共に、左足用の靴が周辺に投げ出されていた。

 緩くウェーブのかかったセミロングのブロンドヘアが無造作に揺れる。その下に覗く相貌は恐怖に満ち満ちていたが、それ以上に雲雀の気を引くものがあった。

 火傷。

 正確にはその跡。少女の顔面の左側——主に額から目の周辺にかけて、重い熱傷を負ったあと特有のケロイド状の痕跡が見て取れる。未成年が抱える傷としては余りにも酷く痛ましい。

 少女を押し倒しているのは彼女より一回り年上に見える男性だった。くすんだ茶髪に黒いダウンジャケットを羽織った中肉中背の体格で、鬼のような形相で少女を睨みつけ、彼女の両手を片手で押さえつけている。

 強姦の二文字が雲雀の脳裏に浮かぶ。少女の格好から判断するに、まだ未遂ではあるが、それも時間の問題だろう。血の気立った茶髪の男はすぐにでも少女の服を剥ぎ取りそうな雰囲気を発していた。

 雲雀のこめかみから冷や汗が流れ落ちる。

 見なければ良かったという気持ちと、どうにかしなければという気持ちがせめぎ合う。

 今この場で彼女を助けられるのは雲雀だけ。だが、半分引きこもりと化してから半年近くも立つ雲雀に喧嘩で殴り勝つ自信は全くなかった。

 ——どうする……!? このままじゃ……!

 ——考えろ……考えろ……!

 ぎりりっ、と奥歯から嫌な音がするまで歯軋りする。たった一秒が無限に引き伸ばされたように感じる。

 ——あいつは僕がここに来た事に気づいていなかった……。

 ——それなら……偽ってしまえば良い。

 ——僕がもう一度ここに戻ってきた事にしてしまえば……!

 一秒が終わる。

 延棒で薄く伸ばされていた時間が、伸縮するゴムのように一気に元に戻る。

 意を決して雲雀は声を張り上げた。「やめろ!」

 やはり誰かがいるとは気がついていなかったのだろう。突如として現れた第三者に、茶髪男の肩がびくりと強張った。驚愕した表情を雲雀に向ける。『やらかした』という感情が簡単に汲み取れてしまう。

「……お前、いつからそこに……」と音が呟く。

「さあな」具体的な時間を言えばボロが出る。だからぼかす。「けど、もう警察には通報済みだ。ここは圏外だったからな。一度電波の通じるところまで戻ってから通報した。じきに変態野郎を捕まえるために国家権力サマがいらっしゃるぞ」

 平静を装うが、背中がじっとりと汗ばんでいる。鼻先に落ちた粉雪が上がった体温によってすぐに溶けた。

 バクバクと心臓が脈打つ。先述の通り、取っ組み合いになれば雲雀に勝ち目はない。嘘がバレれば劣勢に立たされるのはこちらの方だ。

「安心しなよ。車のナンバーまでは言ってない。今ここから立ち去れば逃げ切れるかもしれないぞ」

「…………ッ!」男の顔が焦りと怒りで歪む。雲雀の方へ殺意を込めた視線を向けるが、具体的な行動に移す様子はない。雲雀の発言の意図を計りかねているのだろう。

 男は一瞬組み伏せられている少女を見やった。涙目の少女の肩がびくりと震える。やがて、「ちっ」と舌打ちするとゆっくりと立ち上がった。「……警察に俺の事喋ってみろ。どこまでも追いかけて犯し尽くしてから殺してやるからな」

 物騒な捨て台詞を吐きながら踵を返す。雲雀の真横を通り過ぎるように歩き去っていく。後ろの方から、「お前もだ」と一言添えて——。

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