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夢を追いかけ続ける熱意にも限界はある。
膨大に使える時間があり、学んだ事を素早く吸収できる若さがある事――要するにアウトプットとインプットをするにあたって圧倒的なアドバンテージがあった学生時代は、その熱を維持し続ける事ができていた。
しかし今はどうだろう。
日々の業務に追われ時間はなく、疲弊した体と脳味噌ではまともに受け入れた情報を処理する事さえできない。
最後に文書作成ソフトを立ち上げたのはいつだっただろうか。
あれだけなりたかった夢が遠ざかっていくのを感じる。
このまま無気力にしたくもない仕事を死ぬまで続けていくだけの人生が待っている――そう実感する度にぞわりとした感覚が背中を撫でた。
椚雲雀は頭の中を占める負の感情を振り払うようにかぶりを振った。それだけで髪に纏わりついていた汗が四方八方へ飛び散っていく。七月中旬の太陽光は尋常でなく強烈で、作業服を貫通してその下にある皮膚を焼き上げていく。アスファルトに照り返した光が地上の空気を熱して蒸しあげる。温度計の類は置いていないが、体感で摂氏四五度以上はあるかもしれない。
――考えるな。手を動かせ。そうやって一日を耐え忍べ。
自らに言い聞かせるように脳内で命令を反芻しながら、雲雀は熱で火照り切った四肢を無理矢理動かす。
しかし熱中症間近の脳は持ち主本人の言う事さえ聞いてはくれないらしい。考えないように意識しようとした事が次々と浮かんでくる。
思えば大学を卒業して就職するにあたり、今の職場を選んだ事が失敗だったのかもしれない。職に就いたとしても自分は変わらず夢に向かって突き進んでいける。そう考えてたから、内定が出たところにそのまま就職してしまった。
だが予想に反して待っていた社会人生活は過酷そのものだった。余暇などないに等しかった。書く暇も読む暇もなくなり、かろうじて自分の生活を維持するだけで精一杯となってしまった。
インプットもアウトプットもなくなった人生。
それらがある事が当たり前の人生を二〇年以上送ってきた雲雀にとって、それは余りにも耐え難い拷問に近かった。
あるいは大気中の酸素がなくなれば。
あるいは血管を流れる血液がなくなれば。
人を人として構成するための何かが一つでも欠けてしまえば、人は簡単に命を落とす事になる。雲雀の場合はそれが創作活動であり、椚雲雀という一個人を形作る必須の要素であった。
それを失ってしまった今、肉体ではなく心が死に突き進んでいる。
人間は肉体が死を迎えても、心が死を迎えても、いずれにせよ不可逆の運命を辿る事となる。
それを理解していながら、この泥沼から抜け出せなくなっている自分に嫌気が差した。
「…………」
灼熱の太陽光は未だ勢いを保ったままだ。あと数時間は地上を蒸し焼きにする事だろう。
地熱発電でもできそうなほどの環境のさなかで周りの同僚達とさえ一切の言葉を交わす事もせず、黙々と作業に打ち込む。樹脂製のパレット(荷物置き)に載せられた段ボールケースを持ち上げてはひたすらに右から左へ流していく。
ふと考える。
このまま倒れ込んでしまえば、もうここに来なくて良くなるのだろうかと。
二度とまともに動けなくなるような不可逆の何かを負ってしまう事さえできれば――。
もはや能動的に動けなくなった自分が救われる唯一の方法は、外的要因による予想外の一手しかない。それが無様に口を開けて餌を待つ鳥の雛のごとき愚行である事は理解していた。
それでも。
この行き詰まった人生を打開する劇薬を求めずにはいられなかった。
今手にしている段ボールケースを地面に叩きつけてしまおうか。周囲にいる同僚を何の前触れもなく殴りつけてみようか。この場で狂ったように奇声を上げて踊り狂ってみても良いだろうか――。
様々な愚行を脳裏に思い描いては消しゴムをかけるかのように掻き消していく。やはりできない。どこまで行っても雲雀は受動的に状況が変化するのを待っている。そんな自分を疎ましく思う。
中腰になり荷物を持ち上げる。
その時だった。
腕の先から脳天まで電撃が駆け抜ける錯覚を覚えた。
何が起きたのかを把握するよりも早く指の神経が抜け落ち、だらりと五指が投げ出されると同時に段ボールケースが落下した。幸いパレットから数センチ持ち上げていただけだったので、物が破損する事はなかった。
安堵したのも束の間。ぐわんと眼前に映る景色がマーブル模様のように歪んだ。一瞬遅れて右肩と右側頭部に鈍痛が走る。一瞬遅れて自分が倒れたのだと気がついた。
起き上がらなければ――。頭では分かっているのに四肢は動かない。いつの間にか指だけでなく全身にまで神経の欠落は広がっていた。痛覚も触覚も残っている。なのに脳から筋肉に信号を送る事ができない。ぼやけた視界の向こうで同じ作業服を着た誰かが駆け寄って来るのが見えた。誰かの声が聞こえる。しかしそれを意味のある言葉として変換できない。知らない言語で話しかけられているかのような不快感を覚えた。
徐々に視界が黒く染まっていく。意味不明な音の羅列が遠ざかっていく。
瞬間、電化製品のスイッチを切ったかのように雲雀の意識がぶつりと途切れた。