9 聴講生? sideレクス
「聴講生制度?」
レクスは首を傾げた。
妻ドーラから手渡された案内書の表紙には【王立文学アカデミー聴講生制度】と書かれていた。
「はい。レクス様、私、この制度を利用して、王立文学アカデミーの聴講生になりたいのです」
そう言うドーラの瞳はキラキラと輝いている。
「えーと?」
ドーラからの突然の申し出に、レクスは戸惑った。
ドーラが記憶を失ってから1年が過ぎていた。
彼女の10年間の記憶は戻らないままだ。
レクスの目から見た、この1年間のドーラの努力は並大抵のものではなかった。
伯爵夫人としての仕事も一から覚え直した。屋敷の女主人としての采配も、最初こそ執事に助けられながらだったが、やがて自ら振るえるようになった。
そんな中で、ドーラが特に懸命だったのは、子供たちとの母子関係の再構築だ。産んだ記憶が無い子供たちの真の【母】になろうと、ドーラは必死だった。出来る限り子供たちの側にいて、積極的に世話をし、一緒に遊び、時には叱り、躾もした。笑ったり泣いたり怒ったり驚いたりしながら真剣に子育てをするドーラの姿に、レクスは感動すら覚えていた。
もしもドーラが普通の状態なら、母親として当たり前の事をしているに過ぎない。ただの日常だ。だが10年間の記憶を失っている、結婚したばかりの17歳までの記憶しかないドーラが、いきなり三人の子供の【母】となったのだ。
出産の記憶も今までの育児の記憶も全て失ってしまったドーラが、突然三人の子育てを担う――もちろん、使用人達が大いにドーラを助けているが、それでも大変な苦労や苦悩があるに違いないのだ。だが、ドーラは愚痴一つ溢さずに子供たちに真摯に向き合っていた。使用人達から子供たち一人一人の成育歴を聞き取ってはこまめにノートに記し、毎夜のように読み込んでいるドーラ。
そんな妻の姿を見たレクスもまた、妻と子供たちをピクニックに連れ出したり、自然の多い領地の視察に遊びを兼ねて伴って行ったり、夏には避暑地に誘い5人で水入らずのバカンスを過ごしたりと、頑張っているドーラを後押しするべく家族サービスに努めた。
ドーラが記憶を無くした当初はお互いに気を遣っていた彼女にも子供たちにも、最近では自然な笑顔が多く見られるようになり、レクスは安堵していた。
そんなところへ、突然のドーラからの申し出である。
「君は……勉強がしたかったのか?」
ドーラの気持ちに全く気が付かなかったレクスは少し落ち込みながら尋ねた。
「はい。実は私、王国古典文学が大好きなのです。王立文学アカデミーの聴講生になって王国古典の講義を受けたいのです」
妻の言葉に、レクスは結婚後初めてドーラを同伴し、出席した夜会での出来事を思い出した。
公爵家のヘンドリックが、失礼極まりない態度で、不躾にドーラに声を掛けて来たのだ。あの時、ヘンドリックはドーラに向かって確かに言っていた。
「あんなに熱心に王国古典文学の勉強をしていたじゃないか!?」と。
そうか、ドーラの同級生だったあの男はドーラが好きなものを良く知っていたのだな――レクスの気持ちはまた一段と落ち込んだ。
あの時は「ドーラ」とレクスの妻の名を呼び捨てた上に「金に目が眩んで結婚した」等とドーラを貶めたヘンドリックに頭が沸騰してしまい、スマートな対応が出来なかった。ヘンドリックに殴りかかってしまいそうな自分の衝動を抑えるのに必死で、ドーラに労わりの言葉すら掛けることが出来なかったのだ。
レクスは当時の不甲斐ない自分を思い出し、苦い表情になった。
すると、レクスのそんな表情を見ておそらく何か勘違いしたのだろう、ドーラは慌てた様子でこう付け加えた。
「アカデミーに通うのは週に2日だけです。伯爵夫人としての仕事は勿論きちんとしますし、子供たちにも寂しい思いをさせぬよう頑張ります! レクス様、お願いします! 王立文学アカデミーに通わせて下さい!」
「……分かった」
「そこを何とか……え? あれ?」
「ドーラ。家のことは心配要らない。聴講生になって、君の思うように王国古典を勉強するといい」
「ありがとうございます!」
ドーラは心底嬉しそうに礼を言った。
「私の旦那様は最高ですね!」
ついでに世辞まで言ってくれる。
「『無口の愛想無し』だとよく言われるがな」
「口数が少なくても、レクス様は温かい心を持った御方です。私も娘たちもよく分かっておりますわ」
「そうか。君と娘たちがそう思ってくれるなら、他人からどう思われようと構わないな」
「うふふ。レクス様ったら」
微笑むドーラ。我が妻ながら実に美しい、と思う。
その後、手続きを済ませたドーラは、聴講生として王立文学アカデミーに通い始めた。
講義を受けるのは週に2日ほどだが、多くの課題が出されるらしく、ドーラは屋敷にいる日も熱心に勉強している。かなりの時間を勉強に割きながら、伯爵夫人としての仕事にも母親としての役目にも決して手を抜かない、頑張り屋のドーラ。とても忙しそうだ。レクスは何度も無理をしないようにと伝えたのだが、ドーラはその度に「安心してください。大丈夫です! ちゃんと食べていますし、しっかり眠っています。レクス様は心配し過ぎですよ」と笑うのだ。
アカデミーで講義を受けた日は、毎回目を輝かせながら、必ずレクスにその内容を話してくれるドーラ。
好きな事を始めた妻は、毎日とても楽しそうだ。
このまま一生記憶が戻らなくても、ドーラが幸せならそれでいい――レクスはそう思うようになっていた。