7 愛おしい妻 sideレクス
ひとまずドーラを休ませることにし、レクスと主治医は別室に移った。
レクスは主治医に尋ねた。
「どういう事なのだろうか? ドーラは今日を結婚式翌日だと思っていた。だから、私はてっきり結婚式の後からのここ10年間の記憶だけがスッポリ抜けてしまったのだと思ったのだが……結婚前の顔合わせの席に母がいたことも、もちろん結婚式に参列していたことも、全く覚えていないようだし、はっきりと私の『両親』が既に亡くなっていると言った――ドーラの中では母は私たちの結婚前に亡くなっていて、会ったことも無い人物という認識のようだ。単純にこの10年間の記憶が抜け落ちたという訳ではないということだろう?」
「そうでございますね……。ただ、今一度奥様が記憶を無くされた原因を考えますと――失礼な言い方になりますが、奥様が一番ご自分の記憶から消してしまいたかったのは大奥様だと思われます」
「……そうだな」
「大奥様と同居されていた10年間の記憶とともに、それ以前の大奥様に関する記憶――つまり大奥様についての全ての記憶が奥様の中で抹消されたのではないでしょうか」
主治医の言葉はレクスの胸にストンと落ちた。
「……そうか。そうかも知れないな。それほど、ドーラは苦しかったのだよな」
「ええ。奥様はきっと、大奥様の存在を無かったことにして、ご自分の心を守られたのだと思います」
自分の母が、そこまで妻を追い詰めてしまったのだ。レクスはやり切れない思いだった。
レクスは、記憶障害を起こしているドーラと生活していくにあたって、三人の娘たち――6歳の長女シーラ、4歳の次女ノーラ、そして2歳の三女カーラ――にドーラの現在の状態を話した。
さすがにまだ2歳のカーラには理解できないだろうとは思ったが、それでもレクスは三人を前に言葉を尽くした。それが父親としての娘たちへの誠意だと考えたからだ。
彼女たちの母親であるドーラが普通の状態ではないこと。それは3週間前にドーラが急に倒れた病の後遺症であること。自分が子供を産んだことさえ覚えていないこと。それでもドーラが前を向き家族の絆を取り戻そうとしていること。どれだけ伝わったか分からないが、娘たちは神妙にレクスの話を聞いていた。
レクスが一通り話し終えたところで、長女シーラが口を開いた。
「ねぇ、お父様。お母様が私たちの事を忘れちゃったのって、やっぱりお祖母様の所為なの? お祖母様がお母様に何かしたんでしょう?」
「え?」
シーラの問いに驚くレクス。
娘たちには、3週間前にドーラが倒れた原因を単に「急な病」としか伝えていない。
「だって、お母様が倒れた日の夜、お父様は大きな声でお祖母様に何か怒鳴っていたじゃない。別の部屋にいても聞こえたわ。そして次の日にお祖母様は突然お引っ越していなくなったでしょ? お祖母様は何をしたの? もしかしてお母様をイジメたの?」
子供は鋭い。侮れないとレクスは思った。
「……実はそうなんだ。母上がドーラを傷付けてしまったんだ。だから、ドーラの前で母上の話は一切しないで欲しい。ドーラが嫌な事を思い出すといけないから。頼むよシーラ」
「やっぱりそうなのね。お父様、任せて! ノーラ、カーラ、いいこと? 貴女たちも協力するのよ! わかった?!」
姉にそう言われて、次女ノーラと三女カーラは「「わかった!」」と声を揃えた。本当に理解しているのかは不明だが。
この10年間の事、そして母アマリアに関する記憶全てを綺麗さっぱり忘れてしまった妻のドーラは、その代わりに食欲と安眠を取り戻したようだ。
痩せ細っていたドーラの身体が少しずつ元に戻っていく様子を見て、レクスは安堵した。
ドーラと子供たちの距離も順調に縮まっていた。長女シーラも次女ノーラもドーラを気遣いながら慕っている。三女の2歳児カーラに至っては、まるで何事も無かったかのように、気付くといつもしれっとドーラの膝の上に乗っているのだ。
ドーラの方も、産んだ記憶が無いというのに、積極的に子供たちに関わり、世話をしたり一緒に遊んだりしている。懸命に子供たちの【母】になろうとするドーラの姿に、レクスは心を打たれた。
倒れる以前のドーラは、他の事に関してもだが子育てに関しても常にアマリアに相談し、アマリアの言う通りにしていた。だが、今のドーラは、自分自身でいろいろと考え、悩み、試行錯誤しながら頑張っている様子だ。
レクスはそんなドーラが愛おしかった。
「ドーラ、無理はしないでくれ。家族5人でゆっくり前に進んで行こう」
そう言ってレクスが抱きしめ唇を重ねると、恥じらい、頬を真っ赤に染めるドーラ。彼女の身体が完全に元通りになるまではとそれ以上の事は我慢しているレクスだが、自制心が保てるか自信が無くなってくる。
思い起こせば10年と少し前、レクスは渋々向かった初めての顔合わせの席で、一瞬にして美しいドーラに心を奪われた。