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妊娠したかもしれない。
それに気付いたのはお腹の子の父親である男が、この町から消えたあとだった。
結論から言えば、私はこの異世界で出会った男に恋をして、たった数カ月であっさりと捨てられたのだ。
男はローガンと名乗っていた。
ローガンは狼の獣人で、この世界は青緑赤黄と色とりどりで個性的な髪色が多い中でもスタンダードな銀髪碧眼。
ピンと立った三角の獣耳とモフモフの尻尾は、綺麗な白銀色。
スラリと背が高くいつも小綺麗な格好をしていて、短パン、ビーチサンダルに首からタオルを下げる漁師のおじさん達が多いこの町ではそれだけでも明らかに浮いているというのに、さらに驚くほど顔が良かった。
出会いのきっかけは、ローガンが私の働く食堂にお客としてきたことだ。
私の黒髪が珍しかったようで、店に入ってくるなりジッと観察するような不躾な視線を向けてきた。
まあそれはこの世界に来てから初対面の相手だとたまにあることなので気づいていないフリをしていると、ローガンは定食を注文すると同時に私の故郷は何処かと訪ねてきた。
つい『日本』だと言ったらキョトンと首を傾げて、更に『周りは黒髪ばかりだった』と言うとすごく驚いていた。
あの時の三角の耳をピンと立てて目を丸くしたローガンの顔は子供みたいで、なんだかとても可愛かったのを覚えている。
ローガンにだけは『日本』というのは異世界の国で、私は人攫いにあったのではなくそこから転移したのだと告げていた。
ローガンがあまりにも『日本』について色々と聞いてくるから、悪戯心もあり「実は異世界なんだー」って冗談めかして言ってみたのだけど、それがさらに興味を持たれてしまう結果となったのかもしれない。
彼が私の元の世界の話を聞きたがって更に頻繁に店に通うようになり、その内に店の外でもふたりで会うようになった。
ローガンにとっての異世界の話は、きっと夢物語のように聞こえたのだろう。
揶揄うような顔をしながら「それで?」と話の続きをとても楽しそうに促してくる。
それに私は「信じてないくせに」と少し不貞腐れながらも求められるまま話してしまう。
そして、ローガンの話も私にとっては物語のようだった。
彼はこの世界の様々な国を渡り歩いて商売をしているらしく、その土地の逸話や地形、文化や特産品などに広く精通していた。
商人の話というよりは、まるで冒険物語を聞いているかのように私はワクワクした。
ローガンといる時間は、今まで感じたことのないほど楽しくて温かくて、安らげる時間だった。
すぐに深い仲になったのも自然なことのように思えた。
私は、ローガンが好きだった。
あの綺麗な顔も、引き締まったバランスの良い身体も、優しげな声も、私を見つめる蒼い瞳も。
冷たさを感じる程の美貌なのに、私を揶揄っては楽しげに笑う子供っぽいところも。
耳や尻尾は表情よりもずっと雄弁で、彼の気持ちを表してくれていると思っていた。
だから、たとえ将来の約束や彼の気持ちが言葉になくても信じていた。
でも、ローガンが私に告げた職業や住所は、彼がいなくなってから全部嘘だったとわかった。
探そうにも追いかけようにも、消息は掴めない。
貰っていた合鍵で入った彼が住んでいたはずのアパートの一室はもぬけの殻で、本当に誰かが住んで居たのかと思うほどに何も残っていなかった。
食事を共にしたテーブルや抱き合ったベッドはもちろん、紙切れ一枚残っていない。
いや、違う。あるにはあった。
愕然と部屋の真ん中で立ち尽くしていたら、カーテンのない窓が光に反射してキラリと光った。
すぐにでも泣き出してしまいそうだった顔をそちらに向ければ、窓枠の上にぽつんとピンポン玉くらいの石がひとつだけ置かれていて、彼の瞳を思わせる蒼色が存在を主張するように煌めいている。
……なにこれ、宝石……だよね?
なんで、まさか……手切金のつもり?
ふざけんな‼︎‼︎
頭に血が上った私はその足ですぐに近くの港に向かい、握り締めていた宝石を漁港から大海原にぶん投げた。
キラッと光って波間に消えたそれは、気持ち良いほどの大遠投で一瞬だけ胸がスッとしたけれど、後から思えばあの大きさと透明度はかなり高価な物だったのでは……せめて今後の生活のために売ればよかったかも……と、ちょっとだけ後悔したり、しなかったり。
こうして私とローガンの関係は、ある日彼が忽然と居なくなって終わった。
彼は、一体なんだったんだろう。
何がしたかったんだろう。
お腹に子供だけ残されて、私にどうしろと?
思い返せば、何もないこの港町には異質な男だった。
サウザンさんも言ってたじゃないか。
訛りひとつない綺麗な発音とあの顔は、まるで王都付近の上級国民のような佇まいだと。
あの時は揶揄っているだけだと思っていたけど、案外本当にそうだったのかもしれない。
お忍びで羽を休めようと田舎に来て、そこでたまたま出会った毛色の変わった女と気紛れに遊んだだけ。
見た目だけでもあれだけ高スペックなのだ。
本命が他にいたとしてもおかしくはない。
そういえば、彼は私と話しながらもたまに周囲を気にして視線を飛ばすことがあった。
その先には何度か同じセクシー美人の猫獣人がいて、内心嫉妬した事があったなぁ。
ああ、そういえばその猫獣人も最近姿を見ていない。
…………ほう、なるほど?
もうここまでくると男運の問題じゃないだろう、と自分自身に呆れてしまう。
痛い目を見てきたはずなのに、学習の甲斐も、何の根拠もなく、今度こそは幸せになれると思い込んでしまうなんてバカだ。身から出た錆だ。
でも。
「異世界で、シングルマザーかぁ……」
まだ、ぺったんこのお腹を撫でながら、途方に暮れた。
※※※
なんとなく「そうなんだろうなぁ」と、ぼんやり思ってはいたけれど現実味はなくて。
月のものが来なくなって暫くすると、本格的に悪阻らしき症状に悩まされ、これはもうどんなに現実逃避してもほぼ妊娠確定か? となってから、私は今更ながらに混乱してパニックになってしまった。
どうしよう。
ひとりで生きていくのもやっとなのに、子供を育てられるのか。そもそも、私が親になんてなれるのか。
そういえば、薬局はあるけど病院なんて見かけたことがないし、産婦人科ってあるの? え、まさかの自然分娩? そんなことできるの?
異世界の常識が無さすぎて、分からないことが多すぎる。そうなると、全てが怖くなってくる。
男に逃げられた上、妊娠してるなんて誰にも相談できず時間だけが過ぎていく。
気持ちだけどうしようと焦って、そのうち食欲がなくなって、気付いたら何日も全然眠れていなかった。
「アリサ、ちょっといいかい?」
ある日、食堂の店主であるオリエさんが閉店後に声をかけてきた。
店の二階にある私の住み込み部屋で、小さなテーブルを挟んで座ると、オリエさんは前置きなく告げた。
「あんた、子供ができただろう」
ギクリと心臓が嫌な音を立てた。
肯定するべきか、否定するべきか。
肯定したら仕事を失うかもしれない。
けれど、バレるのは時間の問題だということも分かっていた。
腹を決めて言うなら今しかない。
体調不良を隠して仕事をするのも、もう限界だった。
「はい……」
思っていたよりずっと、蚊の鳴くような声が出てしまった。
あまりに自分の頼りない声に泣きたくなってきた。
オリエさんは「やっぱりね」とため息を吐いて「相手は?」と聞いてきたが、答えることが出来ずに俯いた。
「そいつに子供のことを言ってないのかい? 結婚は? するんだろ?」
「わ、わかりません……」
「わからないって、子供が生まれるんだからしっかりしないとダメじゃないか。アンタ、親になるんだろ?」
そうだ、親になる……私が、親になってしまうんだ。
たったひとりで。
無理、育てられない。どうやって生んで、どう育てたらいいのかわからない。こわい。
ローガンどこに居るの?
なんで私をひとりにしたの?
元々私のことなんてどうでもよかったの?
ねぇ、どうしよう。
生き直すって決めたのに、なんでこんな事になってしまったんだろう。
「あの、オリエさん、ごめんなさい…私、どうしたらいいのかずっと考えてて……折角雇ってもらった仕事も、最近ちゃんと出来てない……しっ。なのに、子供なんて、もう……っほんとに、ど、どうしようぅ~……っ」
ちゃんと話そうと思って口を開いた途端に、ブワッと一気に感情が溢れた。
ボロボロと滝のような涙が、頬を流れ落ちていく。
「⁉︎ おぉ⁉︎ いや、アンタ落ち着きなって、大丈夫だよ! ごめんよ、責めるつもりはなかったんだよ! あああ、泣かないどくれよ、困ったね……」
オリエさんが慌てて子供をあやす様に私の背中を優しくポンポンと撫でるから、それにまた涙腺が緩んでしまう。
「ううぅ、なんで私、こんなに馬鹿なんだろうぅうぅ~っ」
「まぁまぁ、とりあえず相手は誰なんだい? すぐにここに呼んで話を」
「居なくなっちゃったんですぅぅう~」
「なんだって‼︎⁉︎」
オリエさんにローガンが父親であると告げると、店で顔見知りだった事もありすぐにピンときたようだ。
「アンタ面食いだったんだねぇ」
「ううう~ずみまぜん~」
「ありゃダメだよ。この辺のやつじゃないし、どう見ても訳ありだったろう。きっと戻ってきやしないよ」
「やっぱりぃぃいぃ」
オリエさんは気休めを言わない。
でも、いつか迎えにきてくれるかもしれないという馬鹿な期待は、オリエさんのおかげで離散して現実を見ることができる。
それでも「アレが元なら生まれてくる子供の顔はきっと可愛い」と慰めてくれた。
それもちょっと複雑だが。
その日は私のパニック具合と目の下の隈の濃さにドン引いたオリエさんに「もういいから今日はとりあえず休みなさい!」とベッドに押し込まれた。
私は誰かに話した事で気持ちが少しだけ浮上していて、ずっと眠れなかったのに布団をかけられた途端に目蓋が落ちていった。
その日の夢の中には、ローガンがいた。
あの綺麗な顔で、宝石みたいな瞳で、私を優しく見つめていた。
もう一度会えたらぶん殴ってやりたいと思っていたのに、夢の中の私はローガンに抱きついて『迎えに来てくれたんだね、もうずっとそばにいてね』なんて甘えて縋っていて、目が覚めたときには頭を抱えたくなった。
……私の馬鹿、大馬鹿野郎め。
※※※
私は仕事をクビになる事はなかった。
あの日、オリエさんは私の状況を確認したかっただけらしく、何故もっと早く言わなかったのかと改めて叱られた。
でも、仕事は体調に合わせてすれば良いと言ってくれて、子供が産まれても住み込み部屋をそのまま使って良いとも言ってくれた。
私の涙腺は、この町にきてバカになったと思う。
だって、何から何まで優しすぎて、また泣いてしまった。
それに、オリエさんには彼女と同じ狸の獣人である夫がいて、子供はなんと6人もいるそうだ。
こんなに心強い味方は居ない。
妊娠中や産後に必要な物もオリエさんから「お下がりで悪いけど」と融通してもらえる事になった。
「えっ、給付金まで出るんですか?」
「そうだよ、子供の出産届けと一緒に役所に申請するんだ。サウザンの甥っ子が福祉課にいるから頼んどいてくれるってよ」
何らかの理由で片親になった場合は、子育てで働けない間の生活支援を町でしてくれると聞いて驚いた。
仕事ができない間はどうしようと不安に思っていたけど、なんとか最低限の生活はできそうだ。
「でも、私まだここに来て数ヶ月しか税金払ってないのに、良いんでしょうか……」
「あっははは!何言ってんだい、それでも町民には変わりないだろ。アンタは変なとこで律儀だねぇ。貰えるもんは貰っときな!」
オリエさんが私の肩を叩いて元気に笑うから、いつの間にか私もつられて笑顔になっていた。
私がシングルマザーになることは、あっという間に町に広がっていた。
何もない平和で小さな港町だ。
気づけば私の事が事件のように扱われていて、色んな人に「元気出せよ」とか「人生山あり谷ありだからな」と声をかけられ、時に肩ポンされた。
でも、ぜんぜん嫌な気持ちにならなかったのは、みんなが好意的なのがわかったからだ。
オリエさんは勿論のこと、サウザンさんのように役場に勤める甥っ子さんに色んな手続きを聞いてくれたり、知らないリス獣人のご婦人が妊娠中に良いと言うお茶を教えてくれたり、商店で買い物をすればオマケを付けてくれたり。
この田舎ならではの距離の近さが、万年愛情不足だった私には合っていたのかもしれない。
あんなに怖がっていたのに、少しずつ膨らんでいく自分のお腹を撫でるのがいつの間にか癖になったいた頃には、悪阻が落ち着いて食欲も出てきたからか精神的にも安定してきたのが自分でもわかった。
町のみんなが楽しみにしてくれているこのお腹の子に、私も早く会いたいなぁ。




