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拉致監禁の表現が続きます。苦手な方はご注意ください。
意識が戻ったとき、目を開けても真っ暗だった。
目元のガサガサとした布の感触、口は覆うように粘着性のテープが貼られていてくぐもった声しか出せない。
身体は固くて冷たいコンクリートのような床に転がされていて、両手首を胸の前で固定されて身動ぎする度に細くて硬い何かが皮膚に食い込み痛みが走る。足首も同じようなものだった。
……これは完全に、拉致監禁されてる。
目蓋の裏に、神経質そうな男が浮かんだ。
サンカルさんとモラハラ元カレ。ふたりとも顔の印象はほとんどなく朧げにしか覚えていないけれど、その代わりに顔のない真っ白な仮面を着けたイメージだけが鮮明に蘇ってくる。ある意味、ホラーだ。
私の事なんかどうでもいい。
それより子供達は? 泣き声は聞こえない。というか、今、私の周りに誰かがいるような気配がない。
拉致られたのが私だけだとしても、部屋にふたりきりで残されたままなのも心配だ。
お昼寝から起きたら私が居なくて心細くなってないだろうか。お腹が空いていないだろうか。
明日の朝になればオリエさんが店に来てくれるとは思うけど、それまでまだ幼い子供達だけで過ごすなんて出来ないし、させられない。
「うー! むぅうー!」
もうサンカルさんなんて呼んでやらない! あのクソモラハラ似の野郎‼︎ どこへ行った⁉︎
イモムシみたいに身をよじってその場で暴れてみるけど、疲れただけで何の反応もなかった。
せめてここが何処なのか、目隠しだけでも外れたら……っ!
そう思って床に顔を擦り付ける。
地味に痛い!
目を覆う布が結構ガッチリ後頭部で締められていたけれど、ズリズリとコメカミ辺りを床に何度も擦り付けて少しずつ少しずつズラしていく。やっと片目だけ覆っていた布が外れた時に脱力した。
部屋自体が真っ暗じゃんか!
視界を遮るものを外してもよく見えない。
この部屋には窓もないようで、何処かから漏れる明かりさえも感じられなかった。
せめて目が暗闇に慣れたら少しはマシかもとじっと目を凝らしていると、唯一塞がれていなかった耳に微かにコツコツという足音が聞こえてきて、それがこっちに段々と近づいてくるのが分かった。
ガチャン……
ギィ……
古い鉄を引っ掻くような音と、仄かな光が部屋の中に射し込んだ。
「……あー、目隠しが外れてしまいましたか。しっかりと結んでおいたはずなんですが……まあ、もう構いませんが」
思った通り、現れたのは小さな炎を灯すランプを手にしたサンカルで、床に転がる私の側まで近づくと腰を落として顔を覗き込んできた。
キッと睨み上げると、サンカルは首を傾ける。
その表情は逆光でよく分からない。
「すみませんね、本当はこんな形で貴女を連れてくる予定はなかったんです。もっと平和的にお話させて頂くはずだったんですが、ほら、貴女の家からあの男が出てきたでしょう?」
あの男?……ミドさんの事?
「まさか、と思いましたよ。こんな所に黒狼がいるなんて見間違いかと。でも、貴女の子供達が黒毛なのも、父親が黒狼なら納得できる。貴女の遺伝だなんて……最初からあり得ない話だったのに、本当にこの町の者は妙にお人好しが多いですよね」
ああ……、ローガンの事を言っているのか。
ローガンに用があるなら私ではなく本人に言えばいい。私とローガンはもう何でもないんだから!
そう言いたいのに口を塞がれていては言葉にならない。「むーむむー!」とくぐもった声を上げると、サンカルがわざとらしく今気づいたかのように「ああ、そういえば」と、私の口元のテープをピリリと剥がした。
「はふっ」
「すみません、忘れてました」
「ふざけんな‼︎」
「怒ってます? まあ、今の状況では仕方ないかもしれませんね」
「なんなのよこれ! 子供達はどこ⁉︎ 手を出してたら許さないからね‼︎」
「貴女の今後の対応次第ではありますが、今はまだちゃんと保護していますから大丈夫ですよ。いくら子供とは言え黒狼には迂闊に手を出せません」
「保護⁉︎」
「ええ、黒狼は希少なんです。片親が黒狼である事以外の条件はほぼ不明で生まれる確率も測れない絶滅危惧種。けれど生まれれば漏れなく神から贔屓されているとしか思えない程の才気を持つと言われているので、どの国も喉から手が出るほど欲しい逸材です。傷なんて付ければ大変な事になりますから」
「うちの子を、まるで商品みたいに言わないで! あの子達は私の子で、黒狼なんか関係ないっ」
サンカルは私の言葉を無視して手持ちのランプを床に置くと、私の顔からズレていた目隠しを全て剥ぎ取った。
「さて。契約をしましょうか、アリサさん」
「……契約?」
「そうです。貴女と、貴女の大切な子供達のための契約です」
サンカルが何を企んでいるのか分からず、じっと黙っていると、彼の瞳がゆっくりと細められていく。
「さあ、本題に入りましょう」
そう言って、アッサリと私の手足の拘束は解かれた。
※※※
節だらけの粗末な木製のテーブルの上に用意された1枚の契約書。
向かいの席には、顔の前に手を組んだサンカルが座っている。
「前々から貴女には協力を得たいと思っていたんですよ。語学堪能であることは、この仕事に大変役に立ちますから」
「……人を拉致までしておいて、協力? なにを……」
「ですからこれは私も想定外だったと言ったでしょう。黒狼を見て少し頭に血が上ってしまったのです。その点は反省しています」
「私は意識を失って拘束までされていたんですよ。薬品の匂いがした……もう十分計画的じゃないですか」
解かれたとはいえ、赤い跡が残る手首を摩る。
「話し合いが拗れた際の念のために用意していただけですよ。使うつもりはありませんでした」
「どうせまたこれから拗れます。私は貴方に従いません」
「それはどうでしょうか。契約書をお読みになれば、きっと考えは変わります。この文字は隣国のものですが、もちろん読めますよね?」
ついっと中指で寄せられた契約書に目を落とす。揺れるランプの心許ない明るさに目を凝らした。
文字はもちろん問題なく読める。けれど問題は中身だ。
「これは……どういう事ですか。子供達と隣国へ行けと?」
「早くいえば、そうですね。隣国の王は黒狼を欲しがっています。その為の手厚い待遇と条件が記されているでしょう」
確かにそこには子供達を保護する名目で、基本的な衣食住や養育にかかる費用の他、成人するまでの教育環境の整備や王族が後ろ盾となる身分まで保証されている。
それを得る条件は、隣国へ移り住み将来的に王家に仕え、忠誠を誓うこと。つまり、子供達の将来の就職先まで決められていた。
「どうですか。港町の福利厚生などより、よっぽど良い条件だと思いませんか? 貴女たち親子のために、私が急遽、隣国に話を付けて差し上げたのです。生活が保証されれば、アリサさん、貴女だってもう働かずに済みます。ずっと子供達の側にいたいでしょう?」
こんな物を、なぜこの男が?
小さな町の役所の職員、それがサンカルであるはずだ。隣国との繋がりなど何処にあるというのか。
何か仕掛けがあって、私を騙すつもりなのだろうか。でも何故? やはりここまでされる理由がわからない。
「なにを考えてるんですか? こんな事をして、貴方に何の得が? とても一介の公務員のやることではないですよね?」
「ええ、実は私の本業はこちらなんですよ。役場はお遊びのようなものです」
サンカルの所属する経済産業課は、諸外国との窓口でもある事を思い出した。
「……ずっと隣国と繋がって、悪い事をしていたんですか? だって、こんなのまるで……」
まるで『人身売買だ』と口にしようとして、言葉を止めた。
人身売買……そんな話なら最近耳にしていた。英雄キースがひとりで組織を壊滅させたとかで武勇伝のような噂話に市場が盛り上がっていた。
でも、それはずっと遠い場所の出来事だと思っていた。
「あの、組織の話は……でも、全て捕まったって……」
私の独り言のような呟きを、サンカルは拾い上げて感心したように言った。
「貴女は実に勘がいい。そうですよ、私はその組織の取りこぼしです。英雄といえど、末端の私までは分からなかったんでしょうね」
「……」
「しかし、組織の人間の大多数が一夜のうちに王都に護送され、処刑されたことは変わりません。残された数名の残党は所詮は逸れ者たちだ。こうなってしまえば他国に逃れて別の組織に属するか、路頭に迷い野垂れ死ぬしかない。私達はただビジネスをしていただけなのに、こんな扱いは不当だと思いませんか? 漁師や商人と何が違うというのです。私達は決して悪ではなかった」
ああ、と妙に納得した。
最初からサンカルに感じていた違和感。
この人がずっと私を窺い見ていたのは、組織に使える人間かを見極めると同時に、私自身の善悪を探っていたのだろう。
「私は、私の居場所を再び作り上げたいのです。そのチャンスを貴女が持っていた。それも、黒狼をふたりも!」
サンカルは興奮したように声を上げた。
「これは善良な人材斡旋であり、三者がお互いに利を得るための契約なのですよ。安心してください、魔力を込めて作られた特別な紙とインクには拘束力があるので、一度結ばれた内容は簡単に破棄できない正式な契約書です。サインをしたなら黒狼の子供達の身の安全と将来は隣国によって保証されます。王族が後盾だなんて、こんなに強固な保護はないでしょう?」
「もし……サインをしなかったら?」
サンカルは暗い瞳のまま口端だけを引き上げて笑った。
「そうですねぇ、どうなるかはこのまま隣国に行って確かめてみたら如何でしょうか。黒狼は殺せませんが、魔力の発現していない子供のうちならまだ囲い込める。私なら、母親はいない者として育てるでしょうね」
「どちらにしても、子供達は貴方に隣国へ売り飛ばされると言うことなのね?」
「何度も言いますが、私は求める側へ求められるものを斡旋しているだけです。今回のように良い商品にはそれなりの配慮もする善良な商人なのです。貴女達を守るために、私はこうして提案しているのですから」
それが保証という名の配慮……? 相手に条件を提示して、価値を高く見せているだけじゃないか。
隣国にもサンカルにとっても、子供達が『モノ』なのは変わらない。そして私はその『おまけ』だ。私が子供達の身代わりになると言っても受け入れられないだろう。
「サインをしたら、子供達は本当に安全に生活できるの? 今はどこに居るの? すぐに会わせて。まずは無事を確認させて」
「子供達なら近くに居ます。会いたいのなら、決断を。身の安全、そしてこれまで以上の生活水準。それらは全て、貴女さえ契約書にサインをすれば、叶うことなのです」
こんなのは、脅し以外に他ならない。
いくら条件が良いとはいえ、それは書面上のことで、隣国の情勢や王族なんて知らない私が子供達の将来を決めてしまっていいわけがないのだ。
黒狼ってなんなの? 黒狼であることがそんなに重要なことなの?
私にとっては子供達が何であろうとも変わらず大切な存在だ。
黒狼でさえなければ、こんな事に巻き込まれずに済んだのなら普通の狼の子でよかったんだ。
特別な力なんていらない。優秀じゃなくてもいい。子供達が元気なら、それで十分なのに。
屈したくなんてない。でも、この状況から逃れる道が他にあるだろうか。例えば今、サンカルの隙をついてこの部屋を出たとしても、子供達の居場所はわからない。余計な動きをして子供達に危害を加えられたらと思うと足がすくんでしまう。
サインをすればきっと子供達に会える。無事を確認できる。抱き締めることも。
なら、私が選ぶ道は……もう、ひとつしか残されていない。
まだ迷っている。でも。
サンカルから渡されたペンを握り、契約書の一番下に名前を書きこんだ。
「隣国の文字も難なくかけるなんて。本当に、貴女は優秀ですねぇ……」
いや、書いたのは漢字だけど。
サンカルには契約書と同じ言語の文字に見えているようだ。
書き終えたことを見届けるとサンカルは満足げに微笑んだ。
すかさず契約書を手持ちの封筒に仕舞い「少しお待ち下さい」と言って席を立つと、唯一と思われる部屋の出入口に向かい、軋んだ音を立てて扉を開け、また鍵を掛けて去っていった。
これで良かったんだ。
だって、もうこうするしかなかった。
やっと、やっと、子供達に会える……。
部屋に残された古びたランプの灯りが、ボンヤリと私の震える手元だけを照らしていた。