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そういえば昔から男運が悪かった。
学生時代の彼氏は相手の浮気が原因で別れてるし、社会人になって付き合ったのは無職のくせにギャンブラーでヒモ体質。
アラサーになり、よくやく結婚を意識できる優しくて真面目だと思っていた人は、蓋を開けてみればヒステリックなモラハラ男だった。
失敗する度にこんな男はダメだと学習してるはずなのに、私はどうしてこうなんだろう。
江口 アリサ 26歳
まさか異世界転移した先で、また男で痛い目を見るとは思わなかった。
※※※
別れたくても別れてくれないモラハラ男に自尊心をボロボロにされて、自分なんて生きてる価値あるのかな~なんて思い詰めた私は、その日、仕事を休んで海を見に行った。
溜まりに溜まっていた有休を1日取るだけで散々嫌味を言われたけれど、もうすでに心が死んでいたからノーダメージ。むしろ仏のように薄く微笑みながら聞き流していたら、色んな意味で上司が引いた。
さて、リフレッシュと思いきや。
穏やかな南の海で癒されれば良かったものの、よりによって荒れ狂う日本海をチョイス。
どんよりと泣き出しそうな空の下、海岸のゴツゴツした黒い岩の上に体育座りして、打ちつける波をぼんやり眺めていたら『そんなに辛いならこっちの世界に来ちゃいなよ!』って、幻聴が海原の奥から聞こえたんだよね。
今思えばただの波の音だったのかもしれないけど、その時はちょっと私も頭がイッちゃってたから『じゃあそっちに行っちゃおっかな~』とか思ったりして。
いやでも、本当に思っただけだから。
死ぬ気なんて全然ないから。
モラハラ彼氏に精神的に痛めつけられて、ちょっとだけ現実逃避したかっただけなんだ。
なのに、ハッと気付いたときには目の前に私を迎えに来たかのような大きな波が迫ってきていて、あっという間に飲み込まれていた。
※※※
次に目が覚めたとき、静かな港の防波堤にどういう訳か打ち上げられていた。
視界いっぱいに広がる高い青空は晴天で雲ひとつなく、風も春のような暖かさ。
まさかここは天国では?と思ったら、異世界でした。
だって、通りすがりに「あんたこんなとこで何してんだ?随分とずぶ濡れじゃないか。大丈夫か?」って、話しかけてきた恰幅の良い髭もじゃのおじさんにウサギみたいな耳と尻尾があるんだよ。
『えっ、おっさんがバニーちゃん⁉︎ 何、変態⁉︎』って飛び起きたら、おじさんのハゲかけた頭にあるモフモフのそれは意思を持ってピルピル動いてる。
耳……動いて……っ⁉︎
でも顔はオッサン⁉︎ 頭ハゲかけてるのに、耳と髭だけは毛もじゃ⁉︎
もう違和感が多すぎて、いろいろ焦点が合わない。
「あ、あわわわわ……っ」
「おい、どうした? もしかして頭を打ったのか⁉︎ だれかっ、このお嬢さんを診てやってくれ!」
おっさんバニーの呼びかけに集まったこれぞ海の男と言わんばかりの筋肉モリモリな男達も、みんな頭に耳らしきものがついていて尻尾の形も様々だった。
おかしな格好なのに真面目な顔して「おねーさんどこから来たの?」やら「とりあえず診療所か?」とか私をすごく心配してくれる。優しい。
こんなふうに誰かに気遣われたのは、いつぶりだろう。
「あの、あの、ここ、どこですか?」
「ここか?ここはマジャール港のモフルンだぞ」
おっさんバニーが答えてくれた。
マジャール港のモフルン、なにそれ。
「あんた、黒……いや、耳が違うから人間か? 珍しい髪色をしているな。どっから来たんだ?」
今、私のこと人間って言った?
じゃあ、おっさんバニーはやっぱり人間じゃないの? 耳と尻尾以外の部分は私と同じに見えるけど、こっちではそれがスタンダードなの? 異質なのは、私?
こんなに頭の中がハテナで埋め尽くされたのは生まれて初めてだ。
どこから来たかと言われても、わからない。
気付いたら、ただここに居たのだ。
はて、私はどうやって何処から何処にきたんだろう?
……いや、もう何処でも良いじゃないか。
あの男のいない場所なら、それだけで良い。
たとえここが、オッサンが動物の耳をつける変態の世界であっても。
「わ、わたし、海から流されてきました。お金も家もありません。でも生きたいです。助けてください」
生きたい。死にたくない。
まだ、幸せになることを諦めたくない。
ずっと何があっても出てこなかった涙が、ボロボロと溢れていた。
そのうちに、わぁわぁと声を上げて泣いた。
周囲でオロオロと戸惑う屈強な海の男達には申し訳ないが止まらない。
もうどこでもいい。
此処でいいい。
私は今度こそ、ちゃんと生き直したい。
そう強く思った。
※※※
ヘンテコな世界に呼ばれて半年が過ぎた。
半年もいれば、なんとなくこの世界のことが見えて来る。
まず、この世界はやっぱり異世界だった。
主に人間と獣人が半々くらいの世界。
この港町モフルンでは獣人が約7割と多めだけれど、もっと都会の町になると人間の方が多くなるんだと最初に私に声をかけてくれたおっさんバニーのサウザンさんが教えてくれた。
私は心優しい海の男(獣人)達の助けもあり、町に保護された。
何処から来て何があったのかなど何も答えられなかった事と、この世界ではかなり珍しい黒髪と黒い瞳の色のせいですっかり人攫いにあった説が有力とされ、この世界の常識を全く知らないのはショックによる記憶の混濁ではないかと結論づけられたようだ。
異世界人だなんて言っても「よほどショックな事があったんだな。可哀想に」と同情されただけだったので、もう人攫い説に乗っかっておこうと思っている。
今は町役場から住み込みの食堂の仕事を紹介してもらい、せっせと働いている。
たまに漁港に行けばサウザンさん達に売り物にならない魚を分けて貰えるし、食堂の店主であるタヌキ獣人のオリエさんはとても面倒見が良い肝っ玉母さんで、記憶の混濁とされている私の常識のなさを笑うことなく、通貨の価値やこの世界での日常生活に必要なもののあれこれを丁寧に教えてくれた。
隣近所の顔も知らなかった元の世界よりも、今の獣人関係の方が良好なんじゃないだろうか。
此処にいれば、元の世界の事なんてどうでも良くなってくるから不思議だ。
どうせ施設育ちの私に両親の記憶なんてないし、最後に付き合っていた彼氏のことなんてそれこそ思い出したくもない。
借りていたアパートの部屋がそのままで、大家さんには大変申し訳ないとは思うけれど、たとえ戻れるとしてももう戻る気はなかった。
それくらい私の異世界での人生再出発は、極めて順調と言えた。
のちに私を捨てて町から消えた、あの狼に出会うまでは。