灰色と茶色
泣いていると犬が戻ってきた。
しょうが無いという感じで、顎で私の頭をゴスゴス叩く。
きっと叩くというより宥めているのだろう。
私はあまりにも孤独過ぎて、おかしくなっていたようだ。
犬や動物たちがいるから、本当の孤独ではない。
ただ、人間同士の会話がずっと無くて、それに取り残された事、大変な事がおきている事が、いまさら、実感してしまった。
信じたくないって思っていたんだね。
だから、どんどん嫌な事を突きつけられて、心が折れた。
でも、折れたって、どうしようもない。
あれを確かめない訳にはいかない。
嫌なことをよけると、逆に寝れない性分だ。
私は立ち上がると、顔を腕で拭った。
うしっ、行くぞ。
例の棒を持ちながら進む。
今回は柱は崩さない。崩して混ざったらご遺体を分ける時が大変だ。それに壺も用意してから砕きたい。
そんな言い訳をしつつ、柱を避けて入り込む。
どれも微妙に通路が通れる位置にある。
嫌な想像だと、そうして何かが彼らを砂柱にして抜けていったのだ。
あぁ臭いよ、息苦しい。
そう思いながら、犬の後を追う。
犬は迷いなく、薄暗い通路を進んだ。
奥に行くと、砂の柱以外に、武器が落ち、物が散乱するようになった。
あぁ、ここだけは何かが起きたとひと目で分かる。
やがて広い場所に出た。
階段が左右にあり二階の部分に繋がっている。
天井の大きな灯りは消えていた。
二階部分も所々に柱がある。
上に登らず、犬は正面の扉に進む。
追いついて、扉を押すと開いた。
光り。
あぁ光りだ。
扉を押し開いた先は、練兵場のようだった。
塀に囲まれ、木々が植えられ。
小屋が端にあり、水場も見えた。
誰もいない。
柱も無い。
扉を開いて空気を流す。
淀んだ腐臭を外に逃した。
乾いた風が吹き抜けていく。
私は入り口の段に腰を下ろした。
犬はキョロキョロとあたりを見回す。
すると左手の上の方を見上げて吠えた。
私は立ち上がると練兵場へと下りた。
「何?」
犬が吠える。
すると何処かで、竪琴が答えた。
私は犬の側まで走った。
振り返る。
影になった兵舎。
その向こうは城の尖塔。
角度的にここが低いので、見上げると尖塔の窓が見えた。
小さな小さな窓だ。
私は手をかざして窓を見る。
視力も聴力も自信があるのだ。
誰か、いる?
じっと見つめると手が見えた。
白い小さな手だ。
それが窓から指を出して振っている。
きっとあの窓は高い位置にあって、そこにいる人は指先しか出せないんだ。
犬が吠える。
私は、久しぶりに元気が出た。
***
ひとまず、兵舎を確認する。
指は見えなくなった。
そりゃ、ずっと振ってても疲れるからね。
犬も挨拶するように鳴いてから、中を嗅ぎ回るのに戻った。
宿舎のような部屋、大きな会議室、それに外の見張りの方へ続く観測するような部屋に、武器庫。
大砲が仕舞ってあるところや、大きな照明灯なんかの部屋もあって、それは外壁と門へと繋がっていた。
そして当時、いたであろう人の柱が残っていた。
少なくともア・メルンの兵士は、砂の柱になっている。
誰がどうしてやったのか。
あの影とも、他の何かともわからない。
わからないが、日没後が怪しい。
私は手早く外壁の方も調べたら、今日も早めに塒に隠れよう。
外壁は岩山をくり抜いた部分と上に積み上げた二つに通路が分かれていた。
どっちに行くか?
怖そうな方から選ぶ。
陽射しのある内に、下の暗い部分を終わらせたかった。
棒を突き出したまま、下へと下る通路を進む。
やはり、柱が所々にあった。
そして段々と、その柱は。
なりかけだ。
あぁやはり。
それは服の裾が白い砂のようになって残っていた。
次に指、手、足と生前の姿を残して柱になる途中で固まっていた。
どうしてそんな途中で止まったのかはわからない。
けれど、砂遊びで作り上げた人形のように、それは動き出しそうな姿のまま、固まっていた。
そしてまだ人の形をしているけれど、それは骨を残して、みんな細かな砂のようなモノになっていた。
先程の全部柱になった者より、臭わない。
指先を触って骨が突き出たが、臭いはなかった。
顔も残っていた。
でも、驚きも恐怖も無い。
何か、呼びかけているような感じや、急いでいる様子だが、特に怖い目にあっているような顔は無かった。
突き当りには、小窓のところで番をする、若い兵士が座っていた。
砂になっている以外は、人の形を残していた。
その人は、何かを言いかけたように口を開き、手を差し出していた。
その差し出した手の形を見て、何かを持っていたように見える。
私は薄暗い通路を見回した。
直ぐ側の木製の棚の下に何か落ちている。
手を差し込んで隙間から引っ張り出した。
紙だ。
暗くて見えない。
それを懐に入れると戻る。
犬は臭いをかぎながら、色んな場所に頭を突っ込んでいた。
行くよ、と呼びかけると、ウムという感じで偉そうについてくる。
それでも犬がいなかったら、この奥まで来れたかわからない。
あぁ、何が来たんだろう?
皆、それを見て慌てたのか?
驚いたのか?
でも、この残された顔は、何も不思議そうではない。
忙しそうなのだ。
誰かが来た。
そして急いで、集まろうとしていた?
一番奥があの晩の見張り番。
彼はそれに紙を渡そうとした。
分かれ目の明るい部屋に戻る。
もってきた紙切れを取り出した。
これは南部領地の言葉だ。
半分も読めない。
返信 折返し不要
連絡〇〇テス○を先にアディムに□□□□
クィ○クス○も○○する(名前だと思うけど読めない)
本隊は二日遅れるが、オルトバルと合流
受け渡しは、モストクから直接では無い
問い合わせ受け取りは神殿にて
速やかに判別する事
ニィ・イズラの□□□は虚偽の立証
後は、擦り切れていた。
この紙をソレに渡そうとした?
意味がわからない。
けれど、わかる人に見てもらえばいい。これもあの綴り紙と同じく懐にしまう。
すくなくとも紙を渡そうとした相手は人だ。
もしかしたら、その相手も砂柱になっているのかも。それともその人に化けていたのかな?
犬が突く。
あぁ確かに早くしないとな。
次に上の通路に入る。
所々、東に自然に開いた穴があるので、明るい。そしてその自然の部分と作られた部分が混じっている。
砂の柱は、二つしかない。
どうもこの上の部分に人はいなかったようだ。嵐だったからかもしれない。
奥へと進むと更に上に続く物見の階段があった。
物見の階段は、いろんな道具が積まれていた。
だが、不審なものは見つからない。
そして壁の上へと続く場所に来る。
そうだ、ここからも塔が見える。
むしろ小窓の中が見えるかもしれない。
私は押戸を開けて、壁の上に続く段を下りた。
少し、あの塔は遠い。
けれど城の方向はよく見えた。
もちろん、東の方向を見れば、あの砂の川のうねりに、砂で霞んだ地平も見えた。
怖くなるので、城の方へと目を向ける。
城前の階段に何か黒い塊が点々と落ちている。
城の正面の大扉、少し開いているようにも見えた。
誰かいる?
誰もいない?
目を凝らす。
何か動いているように見えた。
でも、人間の様な感じではない。
何かもっと小さくて、不規則な動きで視界を横切る。
何だろう?
それよりも、あの手が見えた東の端の塔だ。
窓は暗い。
中は見えないだろうか?
でも、あの塔には露台がついていて、小さな花壇と池もある。あれが目印になりそうだ。
どこを通っていけばいい?
正面の大扉、このまま東廻りで進めば、あの正面にでるだろう。
あの黒い塊と、良く見えない小さな何か。
でも、私の足で城にたどり着くだけで半日かかってしまう。
朝から行っても、帰ってくるだけで昼間の時間が終わっちゃう。
だとしたら、今度は、セルナトの中に寝泊まりできる場所を作るしか無い。
それもお城に近い場所だ。
動物たちの餌も本格的に私がいなくても、何とかできるようにしておかなきゃ。
明日から、でも。
あの塔の人物は、ご飯を食べているだろうか?
お城も普通じゃないはずだ。
急いで向かわなきゃとも思う。でも、もう異変が起きて大分経つ。後二三日は大丈夫?
何とか考えをまとめると、城塞の外壁に視線を戻した。
城塞の外壁を眺めて、人影も異変も無い事に安堵する。
ただ、よく見ると、西の方向にある物見から、何かが揺れていた。
何だろう、綱のように見える。
入り口が違うようで、今の場所からはたどり着けない。
でも外側に風に揺れているのは、綱の具合から、もしかしたら縄梯子のようだ。
誰か、出入りしたのか。
それが異変の前のものなのか、後の物なのかはわからない。
とりあえず、あの場所を確認するには、こちらの兵舎からでは無理そうだった。
たぶん、アルラホテの船着き場の方からになるだろう。
でも船着き場は鍵がかかっていたので、入っていない。
それに今は、城に向かうほうが重要だ。
私は、再び引き返す事にした。
***
その晩は、笛の音だった。
いつもと違い、可愛らしい小鳥のような震える音が時々入る。
ピロピロと奏でる笛の音。
なぜ、一晩中吹くのか、気になる。
寝れない何かがあるのだろうか?
あの影には見つからないのだろうか?
色々考えた。
備蓄の林檎の樽を見つけたので、私と馬たちで食べた。
笛の主にも林檎を届けたいと思った。
犬は、氷室の肉を出して食べさせた。
氷室は高価な物で、冷やすのではなく、凍らせるものが神殿の地下にある。
だから、他の家で肉を見つけると、すべてここに放りこんでいる。
アルラホテの食料の場所は、大凡地図に書き込んである。
頑張れば、私が飢える事は無い。
家畜を生かす方が大変だろう。
早く、どうにかしないと。
色んな事が頭に流れ込んでくる。
砂の柱の事もだ。
ただ、この笛の主が生きている事、それは大きな収穫だ。
早くどうにか。
そんな事を考えて眠った。
また、目が覚めた。
犬が体を動かしたからだ。
犬は霊廟の入り口の方を向いた。
私はそっと布団をよける。
馬が騒いでいる。
誰か人が来たのなら、盗賊だったらここまでは見ない。
でも、盗賊は来ないし、人はいない。
アルラホテには人はいない。
じっと耳をすます。
何かが神殿の裏を動いている。
草を踏みしめ、馬を脅かし、木桶を転がして動いている。
確証は無いのに、私は、アレだと思った。
アレが来た。
今日はボソボソと誰かの呟きみたいなモノが聞こえた。
知っているよ
知っている
似ているんだ
似せているんだ
ほら、みるんだ
ほら、みせるんだ
こんな感じの呟きだ。
私は息を殺して気配を探る。
霊廟の方なら、神殿の中へ。
でも、動いてバレたら、神殿の方へ入られる。
動くなら静かに、移動。
でも、ここのほうが見つからないなら、気配を殺す。
犬に静かにするように、手を抑えるように動かして見せる。
賢い犬は、何も吠えずに伏せた。
気配は霊廟の入り口の前に立った。
戸板を見つけたようだ。
ガンッと蹴りつけるような音。
もう一度、もう一度。
やがて、メリメリと板が折れる音。
それでも私は息を殺し、犬は牙を見せたが唸ることは無い。
板は壊れた。
だが、気配は入ってこなかった。
ただ、入り口に立っている。
ずっと動かず立っている。
いつ、いなくなったのかはわからないが、気がつくと、私は犬と一緒に眠っていた。
朝になり、笛の音が消え、そしてバラバラになった戸板が残った。
私は戸板を退けると、馬の世話をした。
馬たちが喋れたらと心底思った。
いつもどおりに、動物たちの世話をする。
最近は地下の動物たちは野生化してきていた。
人間が食べない分の植物が育ち、そちらで飼料以外の食事情を賄えそうだった。
地下の西北は陽射しが限定されているとはいえ、水と植物、長年改良をしてきた植物の畑は、下の人間が食べていたわけで、その人間がいないのだ。
手入れしないことで、枯れる事もあるが、今の所は密林のようになりつつあった。
問題はいっぱいある。けれど、私が手を放しても、死ぬことはなさそうで安堵した。
だから、もう、下には行かない。
例のアレに遭遇したくないのもある。
ただ、もう一つの懸念である、馬達だ。
できれば、彼らも放牧地に移したい。
大仕事だと思う。
地下二階の放牧地に行くには、昇降機に馬を乗せることになる。
ただ、まとめ役の馬で引率すれば、できない事は無い。
それはセルナトに拠点となる場所を見つけてからにしようと思う。
いよいよ、下に戻れないような事態も考えられる。
下に彼らを移して。
彼らの飼料もついでに運んで、下の厩舎を整える。
犬や猫たちは?
あぁ、彼らはもっと厄介だ。
犬は野犬にならないようにしないと。猫はア・メルンでは生きづらい。小動物が少なくて食料に困ってしまう。
やはり、彼らには餌と世話が必要だ。
鳥たちを下に運ぶのも考えねば、どうしよう。
最低でも二日にいっぺんだ。
午後からは動き回らずに、教会の食堂で地図を広げる。
昨日の晩の事があって、泉の部屋に戻りたくなった。
でも、戻ったら、今度は怖くてこちらに来れない気がした。
そうしたら、笛の主のところへなんて行けない。
考えが煮詰まって、でも、要するにセルナトに拠点を作って、城とアルラホテを行き来すればいいのだ。
下の動物までは手が回らないが、彼らは自給自足できる。
どうして馬も移動するんだ?
いつか、アレが馬とか人以外にも酷い事をしそうだから。
自問自答して、ため息。
昨日は心底怖かったのだ。
気を取り直して、お茶をいれる。
最近は贅沢になってきた。
もう言い訳できないほど、この街の食材を漁っている。
高級なお茶の葉がカビないうちにという、言い訳を一応捏ねながら、お茶三昧だ。
入れ方はよくわかっていない。
でも、まぁ美味しいと思えるできである。
さて、お茶を飲みながら、セルナトの地図をじっくりと眺める。
もちろん、犬には骨である。
鳥の軟骨の煮こごりである。
すごい喜んでいるけど、音が怖い。バリバリボリボリだ。
氷室から見つけた奴だ。
私は食べる気がおきなかった。
けっこうオバチャンは作り置きをしてた。それに保存食がいっぱいある。それは嬉しいけどね。
地図を見る。
神様がいる場所、悪い物が入らない場所。
お墓、神殿、教会?
敷地には入ってきた。
お墓には入らない。
セルナトにはあるだろうか?
神殿とか教会は、貧しい地域の近くだ。
セルナトには無い。
じゃぁ墓は?
ある。
城の手前の広場。
公園となっているけれど、墓地がある。
高貴な長命種族は死ぬと灰になるらしい。
慰霊碑と灰を収める建物がある。
こちらの霊廟とは又、趣が違うようだ。
ふと、あの砂柱を思い出す。
ああして、一瞬で死ぬと、灰にはならない?
柱は長命種族?
それよりも、この公園を調べよう。
泉や霊廟のような隠れる場所があるかもしれない。
この位置で、城とアルラホテを交互に行く。
これなら何とかなりそう。
そこまで考えて息をつく。
教会の開け放たれた入り口に、午後の陽射しが射し込んでいる。
考えたんだ。
私は怖いんだ。
毎日、動物や街の事をギリギリで動いているのは、何もしないと頭がおかしくなりそうだったから。
犬がいなかったら、私は夜も眠れなかったろう。
街の動物たちの面倒をみるのだって、追い立てられるような気持ちがあるから。
怖くて怖くて。
一人では何もできないのだ。
もちろん犬は賢くて、助けてくれる。けれど、犬は大きくても私が守ってやらなきゃと思う。
誰か助けてって。
何度も夜に目が覚めて思うんだ。
助けて、怖い。
それは流浪民の孤児でさえ、味わう事の無い怖さだ。
助けて怖いっていっても、助けてもらえない事はあるよ。でも、それでも誰か人はいる。
助けてって言っても、ア・メルンには誰もいない。
無視されるんじゃない。
いないんだ。
早く、会いに行かなきゃ。
***
次の日は、珍しく曇り。
このア・メルンに雨が降るのは雨季だけ。
そして今年の雨季は終わってる。
雨季が終わって、嵐が来て、百日はたった?
八の三番月ぐらいだと思う。
オルタスの暦は二十四に分かれてる。
一から六月で十二に分割。
七から十二月で十二に分割で、二十四。
そして今は夏にあたる八の三の月。
一月は六十日。
雨季は五の月から六の月頃まで。
嵐は六の十壱月にあって、そこから下を探索するのに七十日は使った。
上は早かったけどね。
今、一番天気が続く時期ってこと。
曇りは珍しくて、いつもより涼しい。
過ごしやすいって事だけど、何だか嫌な予感がした。
種族については、神殿に通うようになってから、神官様に見てもらっていた。
鑑札の亜獣人族ってのは、純粋な獣人じゃないってこと。
血筋に他の人種が入っているっていう意味だね。
だから、私の親のどちらかは、獣人じゃ無いか、獣人と別種の混血かもしれない。
で、私の種族を、神官様はどの血族かを見る力があるんだよ。
見てもらった結果、私は砂漠の生き物らしい。
もちろん、砂漠の生き物に近い姿を持った獣人らしいってこと。
暑さに強く雑食で、耳が良くて賢いの。
まぁ何の動物に似ていたとしても、その特徴が似ているって事だけどね。
獣の人は、昔、暮らしやすいように、神様が自然の獣の良いところを真似っ子できるようにしてくれた。
だから、人の姿に擬態してるけど、生き延びる時は獣の姿になるんだ。
でも、亜獣人の私は、獣の姿にはなれないんだ。
長い耳とフサフサの髪毛、そして牙だけが獣人ってわかる。
力も人族より少しだけ強いけど、それほど違いはない。
体が小さいのは、成長の速度も人族より遅いから。
で、まぁ何を言いたいかっていうと。
私の種族は、体格的には猛獣じゃない。
臆病で敏感で逃げ足が早いから生き残ってきたって事。
だから、曇り空を見上げて、風の匂いをかいだら、嫌な予感がした。
したらもうそれは予感じゃなくて、確定って事。
教会でご飯を食べて、今日は上の公園に行く。
曇天を見上げて、私は傍らの犬に聞いた。
今日は止めたほうがいいかな?
それに犬は何も言わずに、後ろ足で耳裏を掻いている。
そうだよね、決めるのは自分。
予定があって無いようで、それでいて先に進まないと行き詰まる。
私は戸口に立て掛けてある棒を手に取る。
真ん中の部分に布を巻いた、例の棒。
これ、あると結構便利。
もう手放せない。
風も少し涼しい。
いつもより、警戒しながら歩く。
音に気をつけて、家屋からは少し距離を置いて歩く。
後ろ、前、左右。
犬は平気で前を行く。
まぁおかげで、少しは安心してる。
相変わらず、風の音だけ。
遠くで鳥の声もしたが、多分、アルラホテの大きな噴水と池のところの家鴨だ。
誘導するの大変だった。
綺麗な噴水と池が一気に賑やかになったが、数を纒めておかないと、放してある猫の餌に全部なっちゃうし。分散していると面倒がみきれないんだ。
鶏もいるし、野鳥も最近餌をまいてるから塒になってる。
アレが出た時の、警報にもなってる。
これが一番助かってる。
でも、彼らに被害が出るようなら、本気で下に移動しなきゃ。
そんな事を考えているうちに、セルナトの中心部を過ぎた。
あの役所も過ぎた。
向こうは怖くて見れない。
道はお城を正面に見るように曲がった。
坂道の先、綺麗なお屋敷に緑が増える。
下よりもゆったりとした空間が増えて、木々が風に揺れる。
今は、家々を見回る事はせずに、奥の公園を目指す。
誰にも会わないけれど、何だか、ますます嫌な感じがした。
黙々と歩いていると、先の犬が止まった。
私も警戒してるから、すぐに足を止めた。
犬の耳が動く。
素早く動かして、左。
私も左を見る。
影だ。
犬の体に力がこもる。
駄目だ、ちょっかいかけたら。
私は犬の背に手を置く。
ビクッとしたが、犬は静かに影を見る。
私は左右の住宅を見て、右の生け垣を指差した。
犬と私は静かに生け垣に回り込む。
影は小さい子犬ぐらい。
それがモゾモゾと左のお屋敷から出てきた。
石畳の道でそれは立ち止まる。
モゾモゾとそれは形を変えた。
丸くなったり、尖ったり。
透けた影は暫く形を変える。
すると最後に、すっと形を固めると立ち上がった。
人だ。
それは人族の子供の姿をとった。
男の子だ。
衣装は高そうなもので、頭髪は短く、顔つきは?
顔は見えない。
影だから?
まるで普通の子供のように足元を手で払う。
そして、こんな事を言った。
これなら..そろそろ...
騙せるだろう
消え..苦しめ...呪われろ
とぎれとぎれの声は、子供らしくない嗄れたものだ。
悪意の隠った声だ。
私と犬が覗き見ていると、それは顔を上げてあたりを見回す。
バレた?
それは不思議そうにあたりを見ていたが、ふっと気配を薄くすると城への道を駆け出した。
それが走る足元に、奇妙な波紋が広がって、まるで水の上を歩いているように見えた。
現実味の無い幻だが、あの影と同じく無害とは全く思えない。
むしろ、聞こえた言葉は頭がおかしい。
呪われろ?
そんな言葉はあまり聞かないものだ。
まるで、金でも騙し取られた時の台詞だ。
口に当てていた手を下ろす。
犬はじっと先を見ている。
確かに、今の状況は、呪いと言われたら信じてしまう。
御呪いは、良く使う。
呪い(まじない)師だって職業はあるし、祈祷師だっている。
でも、それが現実に必要かって言うと、流浪民みたいな下層の人間ほど、逆に信じていないんだ。
病気で薬も買えない医者にもかかれない時には、信じるかもしれない。
儀式として、習慣としてあるけれど、それを全面的に信じないのは、神聖教の教えがあるからだ。
無闇に人生の問題を、呪いや神や超常の事で片付けるのは駄目だっていう事。
神聖教って宗教の割に、現実的なんだ。おまけに、病気の病人を引き受けてくれるから、昔ながらの御呪いの登場は少ない。
気味悪いけど、呪われろといった影こそ、呪われて見えた。
そして問題は、昼間に影だ。
アレとは違うみたいだけれど、影が見えた。
これは危険な兆候なんだろうか?
嫌な予感が増す。
けど、何だか、急がないと駄目な感じもする。
あの影はお城に向かった。
つまり、笛の主がいる方だ。
良くないぞ、良くない。
ともかく、今日は公園を探索しなきゃ。
そっと歩道に戻る。
犬を前に、緊張しながら、さっきよりゆっくり歩いた。
大きな木が植えられた場所が見える。
石の門に立派な細工の塀。
遠目にも美しい緑と石碑が並ぶ、墓地が見えた。
けれど、近寄る前に、犬が唸り始めた。
また、影かと身構える。
前後左右をみるけれど、何も異常は見当たらない。
けれど、犬は体を大きく弛めると、公園の方へと唸りながら近づいていく。
公園の中かと先を見る。
そこには私の犬と同じぐらいの、大きな薄茶色の犬がいた。
同じく牙を剥き出して、喉奥で唸っている。
影ではないし、大きさは異常だけど、私の連れと同じだし、多分、同じ犬種だ。
ヤカナーン様の札が下がるのと同じく、相手の犬も月の形をした札が下がっている。
飼い犬だ。
「まって、まって、喧嘩するな」
思わず大声で言うと、相手の茶色が驚いたようにこちらを見た。
それは唸るのを止めると耳を立て、尾を真っ直ぐに振り立てた。
あっ、こいつ。
私の連れを突進で吹き飛ばすと、その茶色が飛びかかって来る。
もちろん、単にじゃれついただけ。
私を見つけた時、犬のくせに笑顔になってたからね。
食いつく感じじゃないのはわかった。
わーいって感じでポーンってはね飛んで。
ただし、大きさが大きさだ。
私はコロコロと転がった。
気がつくと、私の連れが、茶色と大喧嘩をしている。
あぁ、どうしよう。
転がったまま見ていると、私の連れ、もういいや。
灰色が私に気がついて喧嘩を止めた。
本当は、この犬たちも本気で喧嘩をしている様子はなかった。
たぶん、久しぶりに同じ仲間に会えて喜んでいるのだ。
私だって喜ぶよ。
人間がいたら、燥いで踊りだすよ。
でも見たこともない大犬である。座った犬と同じ背丈の私では、この通りコロコロ転がってしまうのだ。
どうやら、茶色は人懐っこい性格らしい。
たぶん、灰色が注意をして怒っている。そして茶色は聞いていない。
犬が増えた。
これが嫌な予感の正体ならいいのにな。
そんな訳、ないか。