泉の女神像と夜の始まり
犬の名前は聞かなかった。
私は動物が好きなので、飼い主に戻す時、寂しくなるからね。
だから、犬とか、ねぇとか呼びかける。
動物が好きだから、家畜の世話の仕事をしてもよかったんだけど。
そうすると外にでる機会が生まれない。
どうせなら、私は外の国に行きたいのだ。
後少し、この国で待って、誰も私を迎えに来ないなら、私が行くしか無いでしょ?
私が誰の子供なのか。
知りたくないなんて、嘘はつけない。
だから、ここで根をはるような付き合いをしていないのかもね。
私は、寂しがりだから、お別れが嫌い。
でも、友達や親しい人を作らないってのも、寂しい事。
まぁ犬が来て、時々、自分は寂しいのが辛いとわかったみたいだ。
渡り神官のセドリック様は、金の入った袋と飼い主の持ち物らしい長櫃を置いていった。
泥棒に入られてもこまるので、神官様がいなくなったところで、泉の扉を開いた。
「これは内緒だぞ、お前の飼い主にも内緒でな」
犬が驚いた様子で覗き込んでいる。
小さな入り口なので、ぎりぎりだ。
「盗まれるといけないからな、お前の飼い主に渡すまで、ここに置いておくからな」
わからないだろうけど、犬に話しかける。だってこいつ、いちいち頷く動作するんだもん。
で、犬に部屋の事を一応説明。
ここを押すと扉が開くとか、清潔にするんだぞとか。
きっと他人が見たら、変な話だよね。
犬と会話する私。
でも、何だか楽しかった。
そして何よりお得なのは、犬と寝れば、外の小部屋で安心して寝れるのだ。
犬は敏感だし、この大犬は特に頭がいい。
誰か来たら、すぐに分かるだろう。
ということで、飼い主が来ているかを、毎日神殿に確認する事と、犬にご飯と水をあげるのが仕事になった。
食料買い出しは重要な仕事になった。
暑い場所だから、肉や野菜の保存に注意がいる。
岩と石の地下で、大量の水が行き来しているとはいっても、暑いものは暑い。
ただ、地下二階で、風が吹き抜ける我が家は、熱風なれどそこそこ暮らしやすい。
ただ、食料は別。
腐りそうな物は素早く泉の部屋に持ち込むと、流しへと運び処理をする。
ここは温度が一定で、泉の水は冷たい。冷やすのにむいていた。
それでもどうしても塩や香辛料で加工しないと腐っちゃう。
でも、犬は塩分だめだしなぁ。
と、犬用の食事を考えてる毎日だ。
お犬様は比較的好き嫌いは無い。けど、食べて病気になったら困るので、肉を中心に、毎日仕入れていた。
こそこそする必要は無いけれど、やっぱり慎重になる。
金を払って肉を毎日買うのは、下では無い。
また、因縁をつけてこられても困るし、今は犬がいるので犬が困ったことになるのがいやだ。
でも、冷静に考えれば、ヤカナーン様の札を下げた犬に無礼を働いたらどうなるか。人間様よりきっと、このお犬様は上の立場なんだよね。
間抜けにご飯を食べて、おかわりねだって皿を咥えているけどさ。
大犬は長毛だけど、触ってみると下の毛が無い。
寒い国の犬ではなさそうで、安心する。
それに触らせてもらった感じでは、筋肉質で脂肪も少ない。よかった暑さに強そうだ。
けれど、脱水に気をつけるのは変わらない。
体温調節するだけで内臓に負担がかかるからね。
そんな誰も気にしてない?
それは犬を飼う飼い主としては失格だぞ。
私は空想で犬を飼う練習をした熟練者だ。
何?そんな熟練者いないだと?
などと、毛を梳きながら喋った。
考えてみると、商売をしていないと、私は誰ともかかわっていない。
十七番井戸のまわりが元に戻ったけど、それで私が戻るという気持ちは起きなかった。
たぶん、この犬を飼い主に戻した後も、ここで暮らすのだろう。
けれど、この泉を隠してはおけないだろう事はわかってる。
だって、ここで犬の世話をしているのは、ア・メルンの役人も差配の人も知っている。だから、いずれ、改めが来るだろうし、隠しておくより、この際、諦めて伝えたほうがいいとも思う。
後からバレるより、ここで暮らして見つけたとしたほうが穏便に済む。
それにここにいたのは十七番井戸のいざこざの所為だという理由がある内のほうが、きっと楽に話が進む。
ここを隠したり、潜んで暮らすほうが、今後危険な目に合うだろう。乾燥地の水は、金より価値があるし、ここはヤカナーン様の持ち物だ。
まぁ、犬を返す時に、泉の事は知らせる。
あぁつまらないなぁ。
とも思ったが、本当は泉よりも、犬との暮らしが終わる事がつまらなかった。
私は人間を信頼できなかったが、犬は信頼できた。
そういうことだ。
つまらないなぁ。
つまらなくて、さびしいなぁ。
犬は本当に人が嫌いなようだ。
神殿に行く時に、一緒に向かおうとすると逃げる。
けれど、この西の通路の中では逃げないし素直だ。
そうして、とんでもない広さと距離の、西の通路を駆け回っている。
その他は寝てるか食べている。
さしずめ、私は犬の召使いと言った具合か?
時々砂に汚れた毛を櫛で梳き、泉で涼んで昼寝をする。
夜は小部屋で横になる、といった具合だ。
いつ飼い主は来るのだろうか。
確認に行くときは、犬を泉の部屋に入れる。
私が何かあっても、水と食料はあるし、内側からなら扉を突けば開く。賢い犬だから大丈夫なはずだ。
しかし、神殿には連絡はなく、渡り神官のセドリック様からも連絡はなかった。
ただ、お金は神殿経由で払われるから、心配ないとだけ言われた。ちょっと安心。
そんな感じで月日がたった。
だいたい二月ぐらいかな。
その日、西の砂漠の方の空が荒れていた。
暗い雲が渦を巻いている。
もし荒れるようなら、小部屋ではなくて泉の部屋の方が良いだろう。
犬に言って、荷物を全て泉の部屋に移す。食事もそうそうにすませると、午後を過ぎたら泉の部屋に引っ込んだ。
既に風が吹き始めていたからね。
大体、砂漠から来る嵐は長くて、三日ぐらいだ。
食料もだいぶ貯めてあるし、小部屋の中は安全だと思う。
天井が崩れたりするようなら、どこの部屋でも同じだろう。
そう考えて、犬にも言った。
犬も空模様に鼻を鳴らすと素直に部屋に入った。
すごい風が吹き荒れた。部屋の中だというのに、空を飛んでいるような気持ちになった。
犬がいたから、なんとか落ち着いていられた。
犬は規則正しく、ご飯をねだって、ちゃんと寝た。
犬、すごい。
そして嵐と風の音が止んだので、扉を開けた。
まだ、夜のようで暗かった。
でも、とても静かだ。
蝋燭を持ち出して、外を見る。
犬と一緒に外を見たけど、本当に静かだ。
いつもだと上の階や城塞の街の音がするからね。
それに砂漠の風や、低地の風も吹いてくる。
普段は気にもしないけど、やっぱり色んな音がするんだ。
だから、あんまり静かで、ちょっと怖くなった。
朝になるまで、部屋にいようって犬に言う。
するとまるで人間みたいに、犬が頷いた。
何だか、ちょっと可笑しくて、安心すると部屋に戻った。
念の為、扉に内側から棒を通した。
朝になったと思って、扉を開く。
明るくてホッとした。
何だか、ずっと真っ暗だったらなんて思ってた。
とてもキラキラとした明るい陽射しだ。
嵐が嘘みたいだ。
ご飯の支度をして、犬を外に出す。
犬も狭いところにいたからか、早速通路を走り出した。
ご飯ができるまで行ったり来たりするのだろう。
久しぶりに火を使って煮込んだり焼いたりと手間をかけた。
そうして食事をつくり、犬にもたっぷりと器にもって差し出す。
通路も部屋も、そしてこの食事をしている場所も、砂がたくさん積もっている。
砂を押し出して捨てる穴は、通路の端にところどころあるから、午前中は板で押し出してまわる。
気がついたらそれをしておかないと、埋もれる原因になるからね。
でも滅多に、こんな嵐は来ないから、通路が埋もれるなんてのは無い。
今回は特に酷いようで、走り回った犬が砂まみれだ。
それでも小部屋は埋もれるほどではないし、大きな窓のところだけだ。
それを何とか押し出して捨てると、あっという間に昼になる。
犬は朝晩だけで昼は食べないし、私は久しぶりに神殿に行かねばと、いつもの通り犬を泉の部屋に入れようとした。
けれど犬は流石に、三日も隠っていたからか中に入るのを嫌がった。
じゃぁ通路で留守番するか?
と、聞いてみる。
すると脇道へ行こうとした。
まぁこんな大犬だ。私の力でどうこうできるわけもない。
賢くて躾が行き届いているから、言うことを聞いてくれているのだ。
まぁそうじゃなければ、預かる事も断固拒否したけどね。
仕方がない。
一緒に行くために、紐を持ち出す。
珍しく一緒に行くことに意欲的なので、本当に大丈夫かと念を押すと、自分から紐をつけるような仕草をした。
神殿に犬を見せて無事を知らせる事も必要か。
それにそろそろ流石に、長くなってきているので色々確認もしたかった。
そうして初めて犬を連れて、上に行くことにした。
***
すぐに異変に気づいた。
柵をどけて地下の主要通路にでる。
人がいないのだ。
誰一人、人がいない。
だから、天井の通気孔を通る風の音がはっきりと聞こえる。
乱立する仕切りから、何も物音が聞こえない。
そして遠く天井を支える水柱の、水流でさえ耳に届いた。
私はあまりの事に固まった。
広大な地下下水道遺跡。
そこに物音がしない。
そんな事はありえないのだ。
恐る恐る、誰もいない通りから、近くの家を覗く。
家財はそのままだし、入り口の布は捲ってある。ちょうど中で何か掃除でもしていた風に、箒が立て掛けてあった。
無人だ。
急いで、井戸の方へと走る。
もしかしたら、ア・メルンの行政府からのお達しがあったのかもしれない。
嵐で閉じこもって、私だけ取り残された?
考えるけれど、何処かで、それは無いと思う。流浪民を追い出す、または、全部を集める意味がない。そして場所もない。
目について覗ける場所を見て、やはり人間だけがいなくなっているようだ。
ただ、少し安心したのは、人がいないだけで、死体や血糊などは無かったことだ。
荒れた様子は無くて、本当に、人だけが消えている。
もしかして、私のほうが何処か違う世界に迷い込んだのだろうか?
たどり着いた女神の井戸にも誰もいない。
犬もちょっと不思議そうにあたりを見回す。
そうだ上に行こう。
私は慌て狼狽えながら、上の通路に向かった。
昇降機は動いていた。
水の力を利用して、勝手に停まって、時間で動くので人がいなくても大丈夫のようだ。
それに乗って、上に向かう。
ハラハラしていると、いつも街に入る門が見えてくる。
門は開いて、兵士はいない。
走ってきたが、それが見えて足を止めた。
どうしよう。
困惑する。
これは普通ではない。
明るい陽射しの通用門。
何だか、とても怖く見えた。
上にも誰もいなかったら?
犬に手を置く。
犬は呑気そうに私を見下ろす。
そう、何があってもかわらない。私は生き延び生きていく。
流浪民の孤児は、何があっても失う物は命だけだ。
走らずに、犬の綱を持ってゆっくりと歩く。
耳をすますが、やはり自然の風の音しか聞こえない。
あぁどうしたんだろう。
何があったんだろう。
兵士の詰め所は無人で、何も壊れていない。
特に荒れた様子もなくて、やはり兵士だけが消えたみたい。
そして、街並みを見回す。
何も変わりなく、城はあるし建物も陽射しに輝いている。
ただ、音がしない。
人もいない。
私は犬の紐を外した。何かあったとき、そう何かで逃げる時、邪魔になる。
私は犬を撫でると、神殿への道を進むことにした。
***
無闇に建物には入らない。
もしかしたら、何かの都合で住民が集められたのかもしれないし、戻ってきた時に罪に問われたら困るから。
私は怯えていた。
犬がいなかったら、歩くこともできなかったかもしれない。
それでも最短で、神殿にたどり着いた。
いつもの教会の方へ先に走り込む。
開けっ放しの扉を中に入って、食堂に向かう。
誰もいない。
燃え尽きた火種、鍋の中身はほんのりと温かい。
夕食の準備。
多分、昨日の晩の物だろうか。
大鍋で勝手に火が落ちたから、焦げずに残ったのか?
私は出してあった、皿に汁をよそい、椅子に座った。
犬にも木皿をみつけて盛る。
無言で食べた。
おいしいな、うん、おいしい。
おばちゃんの味だ、間違いない。
逃げ出した風ではない。
食べ終わって木皿を回収し水につける。それから教会を覗き見るが、誰もいない。食器を洗って干してから、神殿に向かった。
食べたら落ち着いた。
そして犬も晩ご飯まえだけど食べた。
神殿は蝋燭が燃え尽きていた。
神官様達の姿は無い。
これはどういうことだろう?
神官様が連れ去られるという事はあるのだろうか?
ア・メルンにおいては、そんな事はありえない。
そしてざっと見た限り、ヤカナーン様の兵士がいない。
それもおかしい。
では、どこに行くべきか?
一番は、行政府のあるセルナトへ向かうことだ。
流浪民は入ることもできない場所だが、代わりに兵士にあえるかもしれない。
この状況を教えてもらえるか、捕まるって事もある。
けれど、この預かった犬は、ヤカナーン様の札を下げている。だから、当然、保護して欲しいと言えば、犬だけでも大丈夫だ。
下の様子から、こっちの差配や役人を探すより、更に上に向かうのが早いだろう。
早速、向かおうとして神殿の裏から物音がした。
驚いて固まるが、馬の鳴き声だ。
そういえば、神殿の馬小屋は裏だ。
見に行けば、柵の中に馬がいて、餌がなくなっていた。
私は上に行く前に、馬の世話をする事になった。
馬の世話をしながら、ちょっと考えた。
ありえないと思うけれど、人だけがいなくなって、動物だけが残った。
だとしたら、飼い猫、飼い犬、地下の飼育されている動物、それにこうした馬や牛、後は鳥だろうか、誰も世話をしないで取り残されているのでは?
これは早急に人が何処に行ったのか確認しないと死んでしまう。
まぁ今日明日ぐらいは大丈夫だけれど、下の牧畜も放し飼い用の草が作られていたから、まだ、大丈夫?
馬車屋や飼え馬、貸馬、それから。
まぁそれは上に行ってからだ。
世話を終えると神殿を後にする。
犬は昼寝を終えて活き活きしていた。
羨ましいとおもいながら、貴族の暮らすセルナトへと向かった。
見かけた馬車の馬は、皆、放して自由にした。
水飲み場や噴水はそのままだ。餌は無くとも水だけでも自由に飲めるだろう。
それに焼印もあるし、持ち主もわかる。
それに歩いている内に、アルラホテの街そのものも、人がいなくなっているのがわかった。だから、馬を放しても、誰も咎めないと思った。
怖いし、取り残されていると思うと焦った。
けれど、側に犬がいると、落ち着いた。
紐はないけど、いつもどおり、犬は私のそばにいる。
顔を見上げれば、賢い黒い瞳が見返してくる。
こいつは召使いの不安がわかるようで、べろりと顔を舐めてくる。臭いのでやめろ。
アルラホテから上に登っていく感じで、セルナトへ向かう。
東側の土地が少し高いのだ。
だから、中央にはしる大階段を登っていく。左右の建物は商家や綺麗な住宅が並ぶ。
緑の木々も植えられて、時々、豊富な水を利用した噴水なんかもたくさんある。
本当なら、ここに立ち寄る旅人や商人相手の屋台もならび、そうとうな賑わいのはずだ。
しかし、屋台は無く、たぶん、異変は夜に起きたと思う。
それも屋台を畳み終わった深夜過ぎ。
それとも嵐のせいで早仕舞いだったか。
そうだ嵐だ。
だから、大階段は空っぽだ。
並ぶ商家の鎧戸もおりていた。
それでも開いていたらしい、酒場の扉をちょっと開く。
灯りの油が残っていたのか、うっすらと照らされて室内は、先程まで誰かが飲んでいたような様子だ。
酒瓶につまみ、杯はそのままで、まるで座っているように椅子が引かれている。
つけっぱなしの火の気は燃え落ちていたようで、火事にならずに済んだようだ。
もしかしたら、夜で嵐だったから、皆、火の気を落としていて助かったのかもしれない。
そんな事を思った。
階段を登ると、セルナトを分ける塀が見える。
馬車道用の坂はもっと東側にあるので、そちらは貴族様がつかっている。
こちらは大きい門だが、それ以外、上に用事がある者が通る。
兵士の詰め所も立派で、普段は物々しい限りだ。
でも、今日は、全て閉じていた。
夜は閉じるし、番の兵士は詰め所に。
番の兵士が立っているはずの、突き出た詰め所に、人はいなかった。
それを見て、驚く気持ちは小さい。
だって、静かすぎる。
もう、もう午後のお茶の時間も過ぎた。
日没を見る前にと一番どこも忙しい。
砂船の船着き場など、工具の音が鳴り響くというのに、どこからも何も聞こえない。
聞こえるのは、水と風の音。
そして家禽が水や餌を求めて鳴いている声だ。
詰め所に近寄る。
木戸口に鍵はかかってなくて、ちょうど誰かが出てこようとしていたみたいに、棒と杯が落ちていた。
まるで、木戸番にお茶を手渡そうとして落としたみたい。
馬鹿な想像をした。
私はそっと木戸を押し開く。
中を覗く。
貴族様の立派なお屋敷や、行政府の白い建物、そして北側に聳える城が見えた。
行ってみる?
物音一つしない景色を見て、私は木戸をしめた。
ため息をついて、私は引き返した。
***
日没の後、歩きまわりたくないって思った。
兵士がいない。
それは深刻な事態だ。
私には処理しきれない事だ。
さっさと引き返すと、音を頼りに動いた。
つまり、腹が減ったと騒ぐ家禽のところを、陽のあるかぎり回ることにした。
広い街だ。
取りこぼしはあるだろうけど、繋がれているのは放し、檻は獰猛じゃなければ開いた。
大凡、家畜か愛玩用の生き物ばかりだ、皆、勝手に水場に向かう。
飼料や餌を運んで水回りにまく。
怒られたって良いやと、商店から勝手に運んで目立つ広場に置いた。
宿屋の馬にも餌を用意する。
助かるのは、水だけは豊富にあることだ。
まぁできる事は少ない。
飼い猫や犬も閉じ込められているようなら、不用心だけど扉を開けて出入りできるようにした。
日没まででは街中を確かめられるわけもない。
私と犬は、ある程度、そうした応急処置をすると泉に戻った。
そう、泉の部屋にだ。
何故、神殿や教会に残ろうとしなかったか。
だって、考えてみてよ。
私と犬は泉の部屋にいたから、残ったってことじゃないかな。
ここは役人は知っている。
もし、ありえないけど流浪民を招集するなら、声がかかるはずだ。それに漏れがあるなら、もっと残っているだろう。
どれだけの人々が暮らしていた?
それがひとり残らずいないのだ。
なら、私が残った理由は、泉の部屋を見落としたってこと。
昼間、あれだけ動き回っても、私は取り残されたままだ。
なら、夜になって泉の部屋以外にいたらどうなる?
役人が招集したわけじゃないってことだよね。
念の為に、通路に呼子と塵を積む、いつもの罠をしかける。
そして今夜も泉の部屋に寝ると犬に言う。
犬はさっさと部屋に入った。
そして中側で、棒を通して鍵をかけた。
灯りは小さな蝋燭だけにして、万が一にも外に気配が漏れないように奥の寝台で横になる。
寝台と言っても、棚に布団を敷いただけだ。
幅が広いので犬も一緒に横になる。
それだけで、昼間の緊張が薄れた。
明日は、もう、遠慮なしに食料を漁って、もっと動き回ってみようと思った。
そしてすぐに眠りに落ちた。
目が覚めた。
犬もだ。
音だ。
誰かが鳴子に引っかかった。
そして塵を崩した。
唸ろうとする犬を抑える。
賢い犬は耳だけを立てた。
何かが歩いている。
人の足音ではない。
ずるずると何かが擦れている。
あの仮の寝床をみつけたようだ。
昨日の夜は、竈を使っていないから冷えているはずだ。
寝床も嵐の後は使っていない。
大丈夫、消えた人たちと同じ、条件、だ。
頭の中で素早く色んな考えが走る。
確認に何かが来た。
夜だけ、動ける何か?
気配は小部屋とつなぎの空間をゆっくりと回る。
そうして泉の扉で止まった。
バレるか?
私と犬は扉を凝視した。
犬の筋肉に力が籠もる。
唸らないで欲しいと、体を撫でる。
それは暫く扉の前にいたが、結局、見つけられなかったようだ。
でも、何か違和感を覚えたのかもしれない。
壁に沿って暫くウロウロしていた。
それもやがて、又、通路の塵を崩しながら遠ざかった。
私と犬は力を抜いた。
よく吠えなかったね、えらいよ。と、褒める私の声は震えていた。情けないけど、腰が抜けるほど怖かった。
なんだろう、初めて感じる気配だ。
暴力の気配とは違う。
もっと真っ暗で怖い何か。
危なかった。
何が危なかったかわからない。
けれど、教会にいたら出くわしていた。
危険じゃないかもしれない?
夜にずるずる這い回ってあるく者が危険じゃない?
それが普通の男でも嫌だ。
怖いだろ、殺されて金を盗られる可能性だってある。
まして、下水道全部、いや、このア・メルンがおかしいのだ。
隠れて用心するのは当然だ。
私は、考えた。
外が朝になるのを正確に中で知りたい。
今までは犬が外に出たがる事で、何となく朝だろうと見当をつけていた。
ちょっと暗かろうと、ちょっと遅かろうと、水売りの時とは違って犬にあわせていた。
それに外の部屋なら、自然に朝の光で目が覚めるし、感覚で私も起きられる。何より、外なら教会の鐘が聞こえるのだ。
泉の部屋では、朝の光りも鐘の音、まぁ今は鳴らないが、聞こえない。
だが、これまでよりも、陽の光というのが重要かもしれない。まだ、わからないことばかりだが、夜に今のが来たのなら、昼間なら出くわさないかもしれない。
眠れないので、これからの事を考える事にした。
犬は寝てるけどね。
犬を枕に、考えをこねる。
この隠し部屋は、長い年月閉じられてきただけあって、どうやら本当に見つからないみたいだ。
完全に安心する事はできないし、あの天井を塞いでいる部分も気になる。
けれど、ここは安全だと仮定して行動だ。
じゃぁこれからのことだ。
街から、上も下も、人が消えた。
これはおそらくヤカナーン様の指示ではない。
だって、意味が無いもの。
自分の家畜を追い出したら、商売にならない。
では、どこかの兵隊が来たのか?戦争とかね。
それなら、人は金になるし、中がそのままなのもおかしい。
と、私が考えてもわからない。
ともかく、これはヤカナーン様の指示ではない。
そして、ヤカナーン様に何かあったら、中央から兵隊が来るだろうし、南の砂船が来たら、この状態も発覚するだろう。
だから、人が消えた事とか街の事は、偉い人がどうにかする事で、私は生き残る事が重要だ。
当たり前だよね、流浪民の孤児ができる事ってのは、それだけだ。
それに、街の将来とか大きな先の事を考えると、怖くて動けなくなりそうだ。
では、何をすべきか。
地下二層の探索、そして地上の探索。
これは残った人を探すのと、火の不始末が無いか、動物が死んでないかの確認だ。
生き残りを探すのと同じく、危険が無いかの確認だ。
そして、食料や物資の調達。
ただし、地下の住居から持ち出さない。
腐りそうな食料だけ、優先して持ち出すか処分する。
つまり、泥棒はしないで、皆が戻ってきた時にそのままの状態で渡せるようにする。
こういうのは、最初に決めないと駄目だ。
盗癖がなくったって、言い訳をして持ち出すようになる。
だから、腐りそうな食料を見かけたときだけ、処分するか食べる。
そして、この行動は、必ず、陽のある内だけで、泉の部屋に戻る事。
この行動は、下の下水道遺跡跡から始める。
何故なら、逃げ道を確保しながら様子を見るってこと。
もしかしたら、上で動きがあるかもしれない。
なら、下のほうが咎められる事が少ないって計算。
だって、盗人だとか言われて処刑されたら嫌だもの。
それに下で時間が過ぎて、上がもしかしたら、人が戻ってくるかもしれないし、理由がわかる人がでてくるかもしれないし。
まだ、流浪民を纒めて処分したという疑惑もある。もちろん、アルラホテの住民を殺す事はありえないけど。
そうだ、それから次の砂船の到着を調べなきゃ。
考えている内に、いつの間にか眠っていた。
犬に突かれて起きた。
怖いけど、気配は無いから扉を開ける。
朝だ。
うっすら明るい。
何か痕跡があるかと見回すが、つなぎの部屋はいつもどおりで白茶けた乾いた色をしている。
鳴子の糸は引きちぎれ、塵は乱暴に潰れていた。
硬い木切れや箱を置いていたのに、へし折れている。
重い奴だ。
たぶん、大人の男だったら相当重量のある奴だ。
ぞっとしていると、また、犬に突かれた。
ご飯らしい。
そういえば、この犬も大人の男以上の重量だが、とても身軽で足を音がしない。
昨日のズルズルは何だったのか。
手早く火をおこす。
もう、見つかるなら初日で見つかるはずだから、気にしないで火を使う。
持ち込んだ肉は、上の家から持ってきた奴だ。これも食わなきゃ腐るからと言い訳済み。
お犬様は大興奮の上等な肉である。
私も少しもらって食べたが、大興奮な旨さだ。
食料は積極的に回収しよう。考えも変えて、上の街も動物の達の餌をやるついでに、食料を回収する事にした。腐りそうなやつだけね。
そうして奇妙な暮らしが始まった。