ダリアの同行 イリス&ヘンリーの社交界デビュー 1
本編第四章と第五章の間のお話です。
「そう。クレトもそんな年齢なのね」
ダリアは感慨深げに頷く主人に紅茶のおかわりを差し出す。
「今年で十四歳になりますから。俺も早く『紫の舞踏会』に出て、大人の仲間入りをしたいです」
ダリアの主人イリス・アラーナ伯爵令嬢の親類であるクレトは、アラーナ家に養子に入って家を継ぐ予定だ。
アラーナ邸に入り浸っている彼がイリスとお茶を飲んでいると、イリスの婚約者であるヘンリー・モレノが訪ねてきた。
イリスに好意を持っていることが丸わかりのクレトだが、どうやらヘンリーのことは認めているらしく、意外にも彼に懐いていた。
「『紫の舞踏会』か。懐かしいな。もうだいぶ昔に感じる」
「ヘンリーさんは緊張しましたか?」
「いや? 俺はその前から、夜会にも顔を出していたからな」
ナリス王国では、令嬢は十四歳になる年から十八歳の間に社交界デビューをする。
国王に謁見するその舞踏会は、令嬢のドレスの色から『紫の舞踏会』と呼ばれていた。
令息もまた、同じ年齢での社交界デビューということになっている。
だが実際は父親主催の夜会で顔見せをしたり、一緒に夜会に参加することも多く、女性ほど厳密なデビューというわけではなかった。
「イリスさんは、どうだったんですか?」
「私? 付き添いのお母様の具合が悪くて、すぐに帰ったわ」
「ヘンリーさんは、どうです?」
「散々待った挙句、絡まれた。良い思い出はないな」
二人の先輩の話を聞いたクレトは、不満そうに口を尖らせる。
「えー。夢がないです」
切なそうに息を吐くと、次の瞬間には目を輝かせてイリスを見つめた。
「でも、社交界デビューの初々しいイリスさん、見たかったです。皆同じ色のドレスを着ていたとしても、イリスさんは目立ったでしょうね」
「そんな。私、その頃はまだ残念で悪目立ちしていないはずよ。……ねえ?」
イリスは最初こそ勢いがあったものの、自信がないのか尻すぼみに声が小さくなる。
縋るような眼差しをダリアに向けてくるのは、肯定してほしいということだろう。
だが、いかに大切な主人の希望でも、嘘をつくわけにはいかない。
「……そうですね。お嬢様は、あの頃から既に目立っていましたね」
ダリアはそう言って微笑んだ。
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「『紫の舞踏会』を終えたら、夜会に行っても良いのですよね、お母様」
もう何度聞いたかわからない娘の質問にも、イサベル・アラーナ伯爵夫人は笑顔で頷く。
「イリスはそんなに夜会に行きたいのですか?」
「はい。ベアトリスもカロリーナもダニエラも行っていて、私だけ行けないのはつまらないです」
仲良しの友人達と遊びに行くと思っているらしいイリスに、イサベルがため息をついている。
別にダリアのせいではないが、何だか申し訳なくなり、自然と頭が下がってしまう。
「でも、夜会は危険なのだと教わりました。だから、皆が一緒でないと行っては駄目だそうです」
「……そうですね。あの子達なら、大丈夫でしょう。イリス、皆の言う事をちゃんと聞くのですよ」
「はい、お母様」
満面の笑みを見る限り、やはりイリスはわかっていない。
社交界デビューをするということは、要は結婚相手を探すということだ。
『年頃の娘ですが、嫁にいかがですか』ということ。
あるいは『良ければ婿に来ませんか』という場合もある。
ともかく、貴族の血統やら男女の色恋やらが交錯する場なのだ。
決して、友人と楽しく遊ぶ場所ではない。
男性のかわし方を覚えた大人の女性ならば、違う楽しみ方もあるかもしれない。
だが、イリスに関してはありえない。
箱入り娘と言うには少しばかり毛色が違うような気もするが、純粋培養というか何というか。
何にしても、男性のあしらいはおろか、色恋の『い』の字すら存在しないイリスが夜会に行けばどうなるかなど、目に見えている。
何せ、幸か不幸かイリスは可愛い。
侍女の贔屓目を差し引いても、手放しでひれ伏す圧倒的美少女だ。
友人の御令嬢達も劣らぬ美貌だが、あちらはそれなりに世渡りの術を身に着けているのでそれほど心配ない。
彼女達が同行するのなら何とかなるだろう、とダリアは胸を撫でおろす。
同時に、侍女として申し訳ないような情けないような、複雑な気持ちを噛みしめた。
そこに、大荷物を抱えたプラシド・アラーナ伯爵がやって来た。
「イリス、舞踏会のドレスが出来上がったよ。見てごらん?」
「わあ。ありがとうございます、お父様」
テーブルいっぱいに広げられた荷物を開けていくと、ドレスと装飾品が所狭しと並べられた。
シンプルで品の良いドレス、艶やかな生地の長手袋、羽飾りにネックレスに靴。
どれもこれも、すべて紫色だ。
社交界デビューの舞踏会が『紫の舞踏会』と呼ばれているのは、この令嬢達の装いのためだった。
楽しそうにドレスを手に取るイリスを見て、アラーナ伯爵夫妻も笑顔になる。
イリスはひとりっ子で、夫妻との親子仲は良く、特にプラシドは親馬鹿の域に達していた。
「そう言えば、本で読んだのですが、他の国では社交界デビューの装いは白が多いそうですね」
何気ない言葉に、イサベルの表情が曇る。
「……そうですね。デビューの年齢も、十六歳頃からというのが多いですね」
「国によって色々あるさ。ナリス王国もそうなら、イリスをデビューさせるのはもう少し後にできるんだがなあ」
プラシドの親馬鹿ぶりに、イサベルが苦笑している。
確かに、十六歳なら今のイリスよりはしっかりするだろうから安心だ。
もっとも、彼の場合は娘を嫁にやりたくないという意味なのかもしれない。
『紫の舞踏会』当日。
支度を済ませたイリスは、ダリアが惚れ惚れする美少女ぶりだ。
まだ幼さも多少残っているが、あと数年で輝くばかりの美女になるのは間違いない。
手塩にかけた主人がこうも美しく成長してくれると、ダリアもやりがいがあるというものだ。
「イリス、可愛いよ。会場で一番、可愛い。……駄目だ。やっぱりまだ嫁にはやれない」
プラシドは絶賛していたのに、段々と涙腺が緩み、ついには泣き出している。
「お父様、褒めてくれるのはありがたいですけれど、適当なことは言わないでください。それに、うちはひとりっ子なんですから、お嫁に出たら駄目でしょう?」
プラシドを窘めるイリスを見て、ダリアは思わず目を丸くした。
普段は色恋の話など皆無なので、結婚にも興味がないと思っていたが、ちゃんと家を継ぐことを考えていたのか。
「適当じゃないよ。イリスが一番可愛いに決まっている。……こうなったら、婿を取ってイリスを手元に置くしか……」
「プラシド様、そろそろ時間ですので行ってまいります」
「ああ。……イサベル、やっぱり顔色が悪いよ。大丈夫かい? 仕事さえなければ、私が代わりに行くのだが」
「いえ、大丈夫です。単に気疲れしているだけです」
イサベルの顔色は、確かにあまり良くない。
この無敵の美少女状態のイリスの付き添いをするのだから、心労はいかばかりか察するというものだ。
「ダリア。念のため、君も一緒に行ってくれ。謁見は付き添い以外は入れないが、舞踏会には同行できるから」
「かしこまりました」
予想外の事態だが、顔に出さずに粛々と礼をする。
「ダリアも行くのですか?」
「ああ、お母様が無理をしないように、イリスも見ていておくれ」
「はい、わかりました」
満面の笑みで返事をするイリスを見て、伯爵夫妻は愛しそうに微笑んだ。
「ダリアも一緒で、嬉しいわ」
「ありがとうございます。ですが、今日の主役はお嬢様です。どうぞ、くれぐれも粗相のないようにお願いいたします」
「わかっているわよ」
口を尖らせる仕草は可愛らしく、やはりまだまだ子供なのだとよくわかる。
礼儀作法や学業など、一通りのことは問題なくこなせるし、イリスは優秀な方だと思う。
だが、それをすべて帳消しにできる突拍子もない行動をとることがあるので、油断はできない。
「イリス。知らない人に名前を教えてはいけませんよ」
イサベルの注意も、子供にするような内容だ。
礼儀作法を今更注意する必要がないので、言うことがないのかもしれない。
「小さい頃から何度も聞きましたから、わかっていますよ、お母様」
イリスの返答にうなずくと、イサベルは車窓に顔を向けた。