ドロレスの平手打ち ドロレスとロベルトの若い頃 4
「……は?」
一瞬、何を言われたのかわからず、ドロレスは固まった。
空耳だろうかと思ったが、視線を逸らさずにこちらを見るロベルトの様子からして、本当に言ったようだ。
……結婚?
プロポーズ?
――今更⁉
カッと頭に血が上った瞬間に、ドロレスの手はロベルトの頬を打っていた。
ばちん、といい音があたりに響き、叩かれた頬が見る間に赤くなっていく。
「――ふざけないで!」
最初にその言葉を聞いた時の、胸の鼓動を憶えている。
嬉しかったのを、憶えている。
それをあんな形で踏みにじっておいて、よくもぬけぬけと。
悔しくて涙が滲みそうになるのをこらえながら睨みつけると、ロベルトもまた泣きそうな目をしていた。
「何よ、その顔。気持ちもないくせにプロポーズして、返事すら返さなかったのはロベルトよ。もう、あなたなんてどうでもいいの。私は、私を大切にしてくれる人を探すんだから!」
まったく放してくれないロベルトの手を叩くが、それでも握りしめる手は緩まない。
「――好きだ」
「まだ言うの⁉ いい加減に……!」
もう一度ひっぱたいてやろうと、空いている手を振り上げ……止まる。
ドロレスを見上げる紫色の瞳からは、大粒の涙がこぼれていた。
「え?」
意味がわからない。
どちらかと言えば、ここはドロレスが泣くところではないのか。
驚いたせいで、さっきまでこぼれそうだったドロレスの涙は、すっかり引っ込んでしまった。
それにしても、ロベルトが泣くところなんて初めて見た。
混乱が極まったドロレスは、ただ紫色の瞳とそれを彩る雫を見つめる。
きらきらと光るそれが、宝石のように美しいと思った。
「好きだ、ドロレス。こんなことになって、ごめん。本当はすぐに返事をしたかった。プロポーズを受け入れてくれて、飛び上がるほど嬉しかったんだ」
ぽろぽろと涙をこぼしながらも視線を逸らさないロベルトは、そう言ってドロレスの手を両手で包み込んだ。
「俺の家には、公に言えない家業がある。この間一緒にいたのは、その関係者だ。偽装結婚なんてありえない。俺には、ドロレスが唯一のひとなんだ」
「家業? 言い訳にしては、大雑把ね」
「プロポーズの答えを聞いて婚約段階に入らないと、内容は教えられない。そういうしきたりなんだ。そして、しきたりのひとつに則って、ドロレスに返事をすることができなかった」
大雑把もいいところの説明に、自身の眉間に皺が寄っていくのがわかる。
いっそ、『都合がいいので適当にプロポーズしました』と言われたほうがスッキリするくらいだ。
「……それで?」
「俺と、結婚してほしい」
まさかの三度目のプロポーズに、今度は大きなため息がこぼれた。
「事情があって返事ができなかった。あの女性は家業の関係者。だから結婚してくれ? ……ふざけてるの?」
いつの間にかロベルトの瞳から涙は消えている。
代わりに、ドロレスの視界がぼんやりと滲み始めた。
「私、プロポーズされて、嬉しかったわ。あなたと一緒に過ごせるんだと思った。なのに、何を言っても返事すらくれなくて」
どんどん視界がぼやけていき、ついに決壊した涙が頬を滑り落ちていく。
「事情があったら、何をしてもいいの? 何をしても許されるの? 私は傷ついたわ、すごく傷ついた! 今更あなたが何を言っても、もう信じられない!」
「ドロレス」
立ち上がったロベルトに抱きしめられる。
涙がロベルトの上着の色を変えていくのを見て、もっと汚してやれと顔をこすりつけた。
「ごめん。君は悪くない。俺と、うちの都合だ。本当にごめん」
「もういいから、私のことは放っておいて」
しゃくりあげながらどうにか言うと、ロベルトが首を振る振動が伝わってきた。
「嫌だ。ドロレスが好きだ。一緒にいたい。離れるなんて、できない」
「また、しきたりで何も言わなくなるんでしょう? もう、耐えられない」
「……ドロレスは、俺と一緒にいるのが嫌?」
腕を緩められ、見上げればそこには何度も見た紫色の瞳が不安そうにこちらを見ていた。
「嫌じゃないから、困っているのよ。いっそ嫌いなら、次の相手にいけるのに」
「……いかないで」
もう一度、ぎゅっと抱きしめられる。
優しく頭を撫でられながら、いつの間にか涙が止まっているのに気付いた。
信用できないのに安心できるなんて、なんてちぐはぐな心だろう。
「俺を信用できないのは、わかる。傷つけたのも、謝る。どんなに時間がかかっても、ドロレスに信じてもらえるまで頑張る。……だから、そばにいて」
優しく、それでいて縋るような声に、ドロレスはゆっくりとうなずいた。
「また私を傷つけるようなら、全力の平手打ちをお見舞いしてやるから」
「あれは、効くなあ……」
苦笑するロベルトをちらりと見上げると、紫色の瞳が優しく細められる。
……ああ、やっぱりこの瞳が好きだ。
でも悔しいから、しばらくは教えてあげない。
ドロレスはもう一度ロベルトの胸に顔をうずめると、口元を綻ばせた。
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