ヘンリーの狼藉 甘えるイリスと困るヘンリー 3
ヘンリーはそのまま馬車に乗ったが、胸に顔をうずめる形で抱きついたイリスはまったく離れる様子がない。
抱きつかれているのは嬉しいが、本来イリスがすることではない。
それに微かに酒の香りが届き、今のイリスは普段とは違うのだと思い知らされる。
これをわざと仕組んだ男がいると思うと、ふつふつと怒りが湧いてきた。
ベアトリスが酔っていたら。
ヘンリーが呼ばれなかったら。
こうしてイリスが抱きついていたのは、彼等だったのかもしれないのだ。
ベアトリスに貰った紙に書いてあった男達の顔が脳裏に浮かび、ヘンリーの眉間に深い皺が寄る。
……あいつら、どうしてくれようか。
その時、イリスが頭を左右に動かし始めた。
ぐりぐりとヘンリーの胸に頭を押し付けるような形である。
「イリス? どうかしたのか?」
「……いいにおい」
なおもぐりぐりと頭を押し付ける様子は、まるで小動物の様だ。
愛しい婚約者の頭を撫でていると、突然イリスが顔を上げた。
ぐりぐりの弊害で額が赤いが、本人は気にする様子もなくヘンリーを見上げる。
「なんのにおい?」
潤んだ金の瞳、上気したように赤い頬、紅の唇からこぼれる吐息。
ヘンリーの中のイリス史上最大の色っぽさに、思わず息を呑む。
「ねえ、なんのにおい?」
「な、何って。香水をつけているわけでもないし。洗濯した石鹸、かな」
「せっけん」
動揺を悟られないようにそう答えると、イリスは再び頭を下げ、今度はヘンリーの胸のあたりを撫で回し始めた。
上着の上からとはいえ、結構くすぐったい。
「ぜんぶ、せっけん?」
「ん? まあ、そうかな」
「……かくにんする」
そう言うなり、イリスは力の入らない手つきでヘンリーの上着を引っ張り始めた。
「イ、イリス?」
いつの間にかヘンリーは肩から上着を落として、はだけた状態になっていた。
「イリス、何をしているんだ?」
「かくにんするの。ぬいで」
何だかわからないが、目が据わっている。
だが、されるがままでいるわけにもいかない。
ヘンリーは上着を着直すと、イリスの頭を優しく撫でた。
「……それよりも、少し眠るといい」
「なんで」
「イリスは今、酒に酔っているから、普通じゃないんだ」
そうでなければヘンリーに抱きついた上に撫で回し、服を脱がすなんてことをするはずがない。
正直ヘンリーとしては嬉しいし歓迎だが、本人の意志とは別の行動とわかっているので、無理をさせたくない。
だが、ヘンリーの言葉を聞いたイリスは、うるうると涙を浮かべ始めた。
「……わたし、ふつうじゃないから、きらい?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、すき?」
まっすぐに見つめられて、思わず言葉に詰まる。
こんな風に潤んだ瞳で見上げられると、大変に言いにくい。
本来ならさらっと言えるはずなのに、何故か緊張してきた。
「――好きだ」
どうにかヘンリーがそれを口にすると、イリスはくしゃりと顔を綻ばせた。
「……よかった」
その微笑みに、ヘンリーの鼓動が跳ねる。
あれ、何だこの可愛い生き物。
抱きしめていいかな。
駄目かな……いいよな。
『狼藉を働くようなことはしないと、約束してくださいね』
ふと、ベアトリスの言葉がよみがえる。
……狼藉の範囲って、どこからなのだろう。
躊躇している間に、イリスは再びヘンリーの胸にぐりぐりと頭を押し付けている。
見ている分には可愛いけれど、これもどうなのだろう。
「少し離れようか、イリス」
「なんで」
端的に言ってしまえば狼藉を働きたくなるからなのだが、そう伝えるわけにもいかない。
「いや、ほら。ベアトリス嬢にも注意されたし」
「べあとりすおこらないもん。やさしいもん」
不満を訴えるイリスの頬が、ぷくっと膨らんだ。
「ああ、わかったわかった。だから頬を膨らませるな。可愛いから」
「かわいいの?」
その上目遣いがまた可愛いのだが、本当にどうしたものか。
困り果てる様子をじっと見ていたイリスは、そっと手を伸ばしてヘンリーの頬に触れた。
普段絶対してこない動作に、さすがのヘンリーも驚いて目を丸くする。
「……へんりーも、かわいい」
「え? あ、ああ。……ありがとう?」
困惑のせいで変な相槌を打ってしまったが、イリスはそれに構わず、ぺたぺたとヘンリーに触れ始めた。
「この、ほっぺとか」
白い手が、ヘンリーの頬を撫でる。
「おはなとか」
細い指が、ヘンリーの鼻筋をたどる。
「おでことか」
柔らかい手のひらが、ヘンリーの額に触れる。
段々と上の方を撫でていくせいで手が届かなくなったらしく、イリスが立ち上がる。
ヨロヨロと揺れて危険なので支えようとするが、掴むところなどない。
仕方がないので腰にそっと触れるが、イリスが身をよじった。
「くすぐったい」
イリスは笑っているが、これもどうなのだろう。
「あと、かみのけとー」
優しくヘンリーの頭を撫でる感触がする。
「つむじー」
頭のてっぺんを撫でようとつま先立ちするものだから、ふらつく体を支えるためにしっかりと腰を掴まざるを得ない。
しかも、目の前に胸が迫っているのだが、もう本当にどうしたものか。
甘い雰囲気ならまだしも、相手はただの酔っ払いで、しかも完全に退行している。
たぶん、ぬいぐるみを撫でるのと同じ感覚でヘンリーを撫でているのだろう。
だが、ヘンリーからすれば愛しい婚約者がかなり珍しくボディタッチしてくるし、甘えてきている。
心が動かないと言えば嘘になる。
というか、動かないはずがない。
ベアトリスの忠告が無ければ、ちょっと便乗してイリスを堪能していたかもしれない。
『私、お酒を飲むと少しばかり意地悪したくなるのです』
……あれは、こういうことか。
目の前で可愛いイリスに甘えられるけれど、手を出すなという嫌がらせか。
普段に比べれば格段のスキンシップではあるので、嬉しいような、悲しいような。
「……へんりー」
「何だ?」
金の瞳は、いつもと違って蕩けるように甘く見える。
「あのね、わたし」
ヘンリーの頬を撫でながら、イリスの顔が近付いて来る。
普段は欠片も感じ取れない色気が、今は湯水のように溢れてヘンリーを惑わせる。
……イリスから来るぶんには、狼藉じゃないよな。
ふとベアトリスとの約束の抜け道を見つけた瞬間。
「……ねむい」
こてん、とイリスの力が抜け、ヘンリーの肩に頭が乗る。
恐る恐る覗いてみると、イリスはすうすうと寝息を立てて眠っていた。
「――はああ」
魂が抜けそうな程の大きなため息をつくと、ヘンリーはくしゃくしゃと頭を掻いた。
日頃、羞恥心だリハビリだと騒いでいるイリスに、もっと積極的にスキンシップしたいと思っていた。
だが、これはいけない。
思った以上に、イリスの攻撃力が高すぎる。
仮に今、イリスが本気で迫ってきたら、ヘンリーは殺られかねない。
残念な婚約者の意外な一面に、ヘンリーは自身のレベルアップを固く誓った。
これで初投稿から毎日更新1周年感謝祭は終わりです。
明日からは「残念令嬢 〜悪役令嬢に転生したので、残念な方向で応戦します〜」の第七章を連載開始します。
詳しくは活動報告をご覧ください。









