ヘンリーの夢路 不憫じゃないヘンリー
「残念令嬢」本編第六章の、領地から帰った後のお話です。
「ヘンリー様、酷い顔ですよ」
「ビクトルもな」
顔を見合わせた主従は、揃ってため息をついた。
とある調査のために連日連夜仕事をし続け、その後は徹夜でずっと書類をまとめている。
仮眠こそ取ってはいたものの、さすがのヘンリーも十日もろくに寝ないで働いていればさすがに眠い。
侍従であり補佐官であるビクトルもまた同様で、こちらはもう少し仮眠を取っていたが既に限界らしく先程からうとうとしていた。
「ヘンリー、いる?」
ノックと共に、可愛らしい声が響く。
扉からちょこんと顔をのぞかせたイリスは、ヘンリーの在室を確認するとそのまま入って来た。
淡い黄色のドレスには、ふんだんに黄色い羽根が散りばめられている。
二つに結い上げた髪についているのは、二つに割れたゆで卵にしか見えない髪飾り。
どうやら、今日のドレスはひよこを模しているようだった。
首元には赤いトサカのようなものが連なった首飾りが揺れている。
ひよこがテーマなのだとしたら、親である鶏の体の一部を切り取ってアクセサリーにするのはどうなのだろう。
だが、眠気が勝っているヘンリーには、突っ込む気力もない。
「カロリーナに会いに来たんだけど、ヘンリーがいるって言うから。……何だか顔色が悪いというか、顔が変よ」
だいぶ失礼な物言いだが、確かに疲労と眠気で酷い顔になっている自覚はあった。
「ちょっと徹夜続きでな」
「疲れているなら、私は帰るわ。ゆっくり休んで」
あっさりと出て行こうとするイリスの手を、慌てて掴む。
イリスから会いに来てくれたのだ。
こんな貴重なチャンスを逃してたまるものか。
「ビクトルも限界だし、今日はここまでにする。一緒にお茶でも飲もう」
ヘンリーの提案に、イリスの顔がぱっと明るくなる。
「それなら、お土産があるのよ。待っていて」
ひよこドレスの裾を揺らしながら、イリスが部屋を出ていく。
疲れた目には、黄色い羽根の塊がぴょこぴょこ歩いて行ったように見えた。
「……では、私も失礼します」
弱々しい声でそう言って退室するビクトルの足取りは重い。
人のことは言えない状態のヘンリーは、ソファーに座るとため息をつく。
空気と共に命まで吐き出しそうだ。
連日連夜の徹夜で調査と書類作成は、さすがに眠い。
いつの間にか、ヘンリーは瞼を閉じていた。
「……ねえ、ヘンリー。ヘンリー」
聞き慣れた声に重い瞼を開けると、目の前にイリスの顔があった。
まさかの至近距離に一瞬驚くが、嫌な気はしないのでそのままじっと見つめる。
金の瞳は宝石のように輝いて、美しい。
こうして至近距離で眺めることもまれだが、やはりイリスは可愛らしかった。
「何? じっと見て」
「いや、イリスは可愛いなと思って」
素直に口に出してから、しまったと後悔した。
羞恥心を取り戻して以降、イリスは妙に恥じらうようになった。
恥じらうタイミングがよくわからないことも多いが、基本的には接近したり接触したり好意をほのめかせば反応する。
それ自体は良いのだが、ヘンリーから距離を取ろうとするのはつまらない。
せっかくの至近距離を、自ら棒に振る形になってしまったことが悔やまれた。
だが、叫ぶなり離れるなりするかと思えば、頬を染めているだけだ。
「……恥ずかしいけど。……嬉しい」
柔らかく微笑むイリスの可愛らしさに、骨付き肉で頭を殴られたような衝撃が走った。
「ど、どうしたんだ?」
「どうって、何?」
「いや、だって。おまえ、そういうことを言うと、叫んだり逃げたりしていたじゃないか」
すると、イリスは不思議そうに首を傾げた。
「……逃げてほしいの?」
「いや、全然。このままで良いけど」
「なら、良かった」
イリスは微笑みながらヘンリーの隣に座ると、ぴったりとくっついてきた。
これは嬉しい。
嬉しいが、何か変だ。
「……そう言えば、お土産って何だ?」
「お土産? 何の話?」
イリスの返答で、ようやくヘンリーは気付いた。
これは、夢だ。
手をつねっても痛くないし、イリスの格好だってさっき見たひよこドレスじゃなくて、水色のシンプルなドレスだ。
何よりも、イリスがこんなに素直に甘えてくるはずがない。
うたたねするとは、よほど疲れていたのだろう。
そう思いつつも、目の前のイリスの可愛らしさには、ちょっと惹かれる。
……夢なら、いつもよりも攻めても大丈夫だろうか。
「イリス」
「何?」
「そのドレス、似合っているよ」
「ありがとう。ヘンリーが気に入ってくれて、嬉しいわ」
「早く結婚して、一緒にいたいな」
「私もよ」
――これは、やばい。
自分の脳を褒めてあげたいクオリティで、イリスが微笑んでいる。
思わず口元が緩んでしまう。
これは夢だとわかっていても、こうなると欲が出てくる。
「……おいで」
物は試しとばかりに、自分の膝をポンポンと叩きながら声をかける。
すると、イリスは何の抵抗もなくヘンリーの膝の上に座った。
これには、脳の主であるヘンリーも驚く。
イリスの再現としては、さすがにやり過ぎだ。
「イリス」
思わず名前を呼ぶと、膝の上のイリスが見上げてきた。
「何?」
至近距離の上目遣いで微笑むとか、何のご褒美だ。
天使か。
「ヘンリー」
呼びかけながら、イリスの顔が近付いて来る。
「……ねえ、ヘンリー。ヘンリー」
聞き慣れた声に重い瞼を開けると、目の前にイリスの顔があった。
至近距離で見る金の瞳は、やはり美しい。
その白い頬に手を伸ばすと、そのまま唇を重ねた。
……柔らかい。
妙にはっきりとした感覚に顔を離してみると、真っ赤になったイリスが固まっている。
よく見てみると、先程までと恰好が違う。
黄色い羽根をふんだんに使ったひよこドレスが目の前にあった。
イリスの背後のテーブルには箱が置いてある。
――ああ、夢から覚めたらしい。
ぼんやりとそれを理解した。
イリスはまだ言葉を失って動けないでいる。
その姿を見て、可愛いと思った。
「……おいで」
ヘンリーは自分の膝をポンポンと叩きながらイリスを呼ぶ。
すると、今度は耳まで真っ赤に染まった。
「――ヘンリーの馬鹿ぁ!」
部屋を飛び出して行ったひよこドレスを見て、ようやくはっきりと目が覚めてきた。
それにしても、良い夢だった。
疲労も限界まで行くと、脳が勝手にご褒美を与えるのだろうか。
ならば、過労も悪くない。
素直に甘えるイリスというのは、新鮮だし、可愛らしい。
だが、本物の可愛らしさは、やはり違う。
立ち上がってテーブルに乗せられた箱を見てみると、中身はロールケーキだ。
カロリーナと食べるのに持って来た、おすそ分けだろう。
羞恥心を取りもどしたらしいイリスは、やたらと恥じらってしまい、多少物足りない気はする。
だが、何をしてもまったく気にしていない頃に比べれば、格段の成長だ。
このままスキンシップに慣れていけば、いつかは夢の中のイリスのように素直に甘えるようになるだろうか。
それまでは、恥じらうイリスを楽しむとしよう。
ヘンリーはロールケーキに触れると、指についたクリームをぺろりと舐めた。









