ダニエラの点火 伯爵令嬢の修道院生活
本編第一章の頃のお話です。
神に祈る。
それは小さい頃からの習慣だった。
だが祈る相手である神について何も知らないのだと、ダニエラは修道院で気付いた。
聖典では神の姿を描いていない。
だが、教会での像を見る限りは女神なのだろう。
それくらいの認識だった。
大体、聖職者でもない限りは、何となく祈っているだけだと思う。
敬虔な信者がいたとして、それでも詳しく神について語れる者はいない。
なぜなら、教会はそれを良しとしていないからだ。
敬虔であればあるほど、聖典以外のことを知ろうとも語ろうともしなくなる。
なのでダニエラは修道院にあって唯一の、好奇心旺盛な人間と言えた。
畑仕事は疲れるが、日々成長する作物を見るのは面白い。
掃除もしたことはなかったが、日本での記憶があるので特に苦痛だとは思わない。
味気ない食事はちょっと寂しかったが、おかげで少し体が引き締まった気もする。
それにダンスやらマナーやらのレッスンはなく、コルセットをぎゅうぎゅうに締め付けることもない。
なんでも、やってみれば良いことがあるものだ。
貴族令嬢には苦痛だろうという周囲の予想に反して、ダニエラは修道院生活を満喫していた。
早朝というよりは深夜に起床し、祈り、掃除をし、読書をする。
一日中祈って、仕事をして、食事をしてはまた祈って。
ダニエラが神なら、こう何度も祈られてはうっとうしいので週に一度で良いと思う。
譲歩しても、一日一回だ。
大体、祈ると言うが、何を祈るのだ。
伯爵令嬢として食事前や教会に行った時には祈っていた。
食事前には、今日もご飯が美味しくて幸せです。
教会では、よくわからないけれどありがとうございます、と祈っていた。
祈るというか、そういうポーズをとるという一つの流れだった。
だが、こうして日に何度も祈れと言われると、どうしたら良いのかわからない。
最初は『碧眼の乙女』三作目のヒロインであるセレナを思い浮かべた。
応援したのにな、何が駄目だったのかな、迷惑ならもっと早くに言ってくれればいいのに、などと愚痴を考えていた。
だが、それだってすぐにネタが尽きた。
これから長い人生をここで過ごすのだから、ここはひとつ立派な修道女を目指すのも良いかもしれない。
そのためには、どんな神に何を祈るのか理解しなければいけないだろう。
ダニエラは早速他の修道女に聞いてみた。
だが、誰もはっきりと答えてくれない。
どうしても曖昧に濁されてしまう。
それでも食らいついていると、どうやら単純によく知らないらしい、ということがわかってきた。
不真面目な貴族令嬢ならともかく、王都で一番大きいこの修道院でそれはどうなのだろう。
仕方ないので、聞き込みと並行して聖典やその関係書物を読み漁り、納得いくまで調べることにした。
「神について調べているのは、あなたですか?」
図書室を出たところで、ダニエラは声をかけられた。
黒髪に藍色の瞳の青年は、身なりからしてどうやら聖職者らしい。
修道女以外立ち入り禁止の区域ではないが、それでも修道女に異性が声をかけるのは珍しい。
「誰彼構わずに聞き込みをするのは、やめた方が良いですよ」
穏やかな笑みを浮かべてそう言われたが、ダニエラからすれば怪しい以外の何ものでもない。
「何故?」
「敬虔な人間ほど、教えに従い、知らずにいることを選びます。無理に知ろうとする者は、敵とみなされかねません。無用な争いを生まない方が良いでしょう」
「あなたは何故、それを私に言うの? 何の得があるの?」
人間関係を穏便に済ませようとする、お節介なのか。
それとも、何かの忠告ということだろうか。
しかし、青年の口から出たのは、意外な言葉だった。
「あなたは、イリスの友人でしょう?」
――イリス。
イリス・アラーナのことか。
ダニエラと同じ黒髪と金の瞳を持つ、大切な友人。
でも、何故彼女の名前を知っているのだろう。
「……そういうあなたは、イリスの何?」
イリスは今、『碧眼の乙女』との戦いの最中だ。
教会が関係するイベントなどなかったはずだが、万が一ということもある。
彼女に害をなす存在なのか否か、見極めなければならない。
すると、青年はにこりと微笑んだ。
「内緒です。……望めば何でも答えてもらえると思うのは、甘いですよ。まあ、そういう若さは嫌いではありませんが」
「でも、私は知りたいわ」
イリスの安全のためもあったが、何となくこの青年がダニエラの知りたいことを知っているという予感があった。
「私が知っていることを教えてあげても良いですが」
「本当?」
意外とあっさりした反応に、拍子抜けしてしまう。
「ただでとはいきませんよ」
「やだ、聖職者なのにしっかりしているわね。でも、私は家を出されたから、お金なんてないわ」
「お金ではありません」
「じゃあ、何? 体とか言わないわよね」
半分は冗談のつもりだったが、青年は露骨に嫌そうな顔になった。
「私は聖職者ですよ?」
「でも、聖職者は妻帯を認められていると聞いたわ」
調べた限りでは、女神には伴侶がいたらしい。
そのために、聖職者もまた結婚して伴侶を持つことが許されていた。
これは、他国ではあまり見られない制度だと本で読んだばかりだった。
「それはそうですが、大丈夫です。私は君のような幼い子に興味はありません」
その言葉に、ダニエラは思わずむっとする。
確かに、青年からすればダニエラは年下かもしれないが、そこまで年が離れているとも思えない。
幼いとまで言われるのは、心外だった。
「じゃあ、何?」
「ちょっと色々ありまして。……協力者が欲しいんですよ」
「協力って何をするの」
「そうですね。わかりやすく言えば、人助けのための下剋上です」
とんでもないことを、笑顔でしれっと言い出した。
「……それはつまり、大司教の地位を狙うということ?」
すると、青年はわざとらしく恐縮してみせる。
「そんな恐れ多いことを口にしてはいけませんよ」
これっぽっちも敬っていないことだけはわかったが、それ以外は謎のままだ。
「じゃあ、何のために?」
下剋上という言葉を使うからには、ただの出世ではないはずだ。
誰かを、あるいは何かを、引きずり落としたいということなのだろうか。
面倒な権力争いなら、関わるのは御免だ。
見るのなら、嫌いではないが。
ところがダニエラの予想に反して、青年はとろけるように優しい笑顔を浮かべた。
「……大事な人との、約束です」
突然の表情に驚きはしたが、何か腑に落ちた気がした。
出世欲などではなくて、個人的なその約束のためだけに、彼は動いているのだ。
「……いいわ、手伝う。その代わり、私が知りたいことも教えてもらうわよ」
「交渉成立ですね。――では、無用な聞き込みをやめ、大人しく過ごしていてください。それから、私の事はムヒカ司祭と呼ぶようにお願いします」
……ムヒカ。
どこかで聞いたような気がするが、どこだったか。
それにしても、既に司祭だったとは。
大司教、司教、司祭、助祭という序列なのだから、この若さで司祭というのは結構な出世ではないか。
その地位からの下剋上なんて、本当に大司教を狙っている可能性がある。
「それでは、ダニエラ・コルテスさん。宜しくお願いしますよ」
「え」
名乗っていないのに、ダニエラの名前を知っている。
イリスの友人だと知っていたし、調べればわかるだろうが。
つまり、彼は最初からダニエラを協力者にするつもりで話しかけたのか。
「――面白いわ。何をするのかよくわからないけれど、付き合ってやろうじゃないの」
修道院生活でくすぶっていた好奇心に、盛大な火が点いた瞬間だった。









