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伊豆の一夜

作者: ぱやし

日誌 2018.12.1 記


この街の風は冷たい。

浴衣の裾から容赦なく侵入してくる寒さに耐えながら、自然と声が漏れていた。

星も無く、雪駄の擦れた音だけが虚しく響く。


2時間前、私を含めた4人の男は、淡い期待に胸を膨らませてタクシーを走らせた。

年に一回の社員旅行の楽しみの一つを味わう為、各々が胸を踊らしていた。

知らない土地での知らない人との出会い。不安の中の一縷の期待。一期一会の精神を重んずる日本国民のメンタリティがそこにはあった。


私を含め2人が先にタクシーを降り、その場所に立った。重い扉を開けてベッドに腰掛ける。

…古い。そして何故か、ベッドが2つある。

風呂場に目をやると、昔、祖母とお風呂に入った事を思い出した。例えるならば大きく、深いシンクがそこにあった。

挫けかけた心に鞭を打ち、気を取り直して歯を磨く。洗面台の電気が付かないのは、もうどうだってよかった。


この時点で昔から物事を良い方向に考える性格だった私は、まだ希望を捨ててはいなかった。

携帯電話に写ったボヤけた写真を眺め、脳が理想を作り上げる時間を20分ほど楽しめるくらいには精神が安定していた。


突如、部屋がノックされた。その時が来たのだ。

初めての経験では無いが、この瞬間だけは毎回緊張感が走る。

慌てずブラウザを閉じ、小走りで扉に手をかけた。

買ったばかりのパソコンに電源を入れる時の様な高揚感はゆっくりと霞と消え、目の前にゴブリンが姿を現した。


私の肩ほどの背丈のゴブリンは先ず遅れた事を軽く謝罪し、裸足でペタペタと醜い音を立てて部屋に侵入した。

言葉を失った私は、タバコに火をつけていた。いち早く、この行き場のない感情を落ち着かせなくてはならなかった。だが、それも無駄な事だと分かるのに時間はかからなかった。装備を外しながらゴブリンはこう言ったのだ。


「早く終わらせて次の2人の所に向かわなくてはならない。」


頭の中を、閃光が走った。もはやこれは私だけの問題ではなくなったのだ。

ここで私がいくらコイツを食い止めたところで、同じ思いをもう1人にもさせる事になってしまう。


ゴブリンの話をまとめると、先にタクシーを降りた私を含めた2人を2匹が相手した後、別の場所にいるもう2人の所にそのまま2匹が向かうとのことだった。

私は目の前で起こっているパラドックスに気を失いかけていた。初めから戦いに敗れていたのだ。


しかし、私もだてに経験を積んできた訳ではない。独自の能力を駆使して、ゴブリンを妖精と映るように視界を操作する事など容易いことだ。


装備を全て外したゴブリンは、さらにそのゴブリンたる姿になっていった。布切れの様な下着は、もはや種族の正装とも見えるようだった。餃子の皮が胸の部分に引っ付いていた。どうやら皮膚らしい。


互いが生まれたままの姿になり、風呂場へと馳せ参じた。ここでのゴブリンの発言も人間の予想を遥かに超えた。


「肌が弱いから、ここで終わらせる」


もはや役満であった。余分にあるベッドもドア一枚挟んで驚いていた事だろう。まさか使われないとは。

私に残された道はたった1つだけだった。想像力。それに全てをかけた。


古風な風呂場は海の近くのシャワールームに。季節は夏に。そしてゴブリンはライフセーバーに。

海で一頻り遊んだ後、私は海水を流すためにシャワールームに入った。そこで間違えて入ってきたライフセーバーの女性と海の開放感を味方につけて、一夏のアバンチュールを楽しんでいるのだ。


そうやって、念仏の様に唱えていると、いつのまにか私は果てていた。妄想がいかに偉大であるかを改めて感じた。

戦いの後の洗浄は、勿論セルフサービスであった。私は唇を噛み締めて無我夢中で息子を抱きしめた。息子よ、怖かったろう。私も怖かった。


丁寧に身体を拭き、浴衣に袖を通す頃にはもうゴブリンの姿は無かった。お釣りの1000円札も無かった。

算数には自信がある私だ。20000円から19000円を引いたら1000円が残るはずだ。間違いない。だが、机の上にはゴブリンが持ってきた気持ちのまるで篭っていない小さなクッキーのみ残されていた。そもそもクッキーかどうかも分からない。


毒が盛られている可能性を考えた私はそのクッキーの様なものを残して部屋を出た。

喪失感が階段を降りる度に襲ってくるのが分かった。


前に目をやると戦友が待っていた。彼曰く、象と戦ってきたとの事だった。


雲の多い寒い夜空の下、人生と世界について考えた。

私は朧げに光る月を見て、涙が流れるのを我慢した。

子供がいるゴブリンでした。

旦那と別居中だそうです。

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