第二話 きみだから出来ること《中編》
――私に手伝える事ってありますか。
エミリーがあらゆる意味で事故に巻き込まれた例の日から数日経ち、保健医のエルンストと約束した投薬実験の日がやって来た。
「ちょっと学園に行ってくるね」
「あら、今日も仕事なの?」
休息日くらいしっかり休みなさいと心配する母親を曖昧な笑みでやり過ごし、エミリーはそそくさと学園へ向かう。
エミリーにとって休息日に学園へ赴く事はさほど珍しくはない。
しかしそれが自分の仕事の為ではなく、誰かの為に向かうという事は今回が初めてだった。
……国内で最も魔法に力を入れている学園の教壇に立つエミリーだが、彼女自身に魔法の才能は殆どない。
防御すらままならない自分が、何だかんだと世話になっているエルンストの役に立てるかもしれないーーそう思うだけで、足取りが自然と軽くなっていく。
学園長が代替わりしてからと言うもの、様々な気まぐれに振り回され多忙を極めていた下っ端教師の彼女にとって、こんなに胸が高鳴る休息日は随分と久しぶりだった。
「って、あれは……」
学園の敷地内に入りふと視線を図書館にやると、入口から見覚えのある男子生徒が出てくるところだった。
「おはよう、ヴィム」
「あ、先生……」
ヴィム・ミュラーはエミリーの授業を受けている生徒の一人だ。
普段はクラスのムードメーカーとして明るい話題を止めどなく提供する少年だか、いま目の前に佇む彼の表情は暗く、まるで別人である。
<――すみません、エルンスト先生。待ち合わせ時間に少し遅れるかもしれません>
エミリーは事前にエルンストから預かっていた魔法伝書――魔法で意思を届ける手紙の様なもの――で遅れる旨を連絡してから、ゆっくりとヴィムへ歩み寄った。
◆ ◆ ◆
「遅れてすみません!」
約束の時間を半刻ほど遅れ、エミリーは保健室に駆け込んだ。
思いのほかヴィムと話し込んでしまい、早目に家を出たつもりが大遅刻である。
自ら手伝いに立候補しておきながら相手を待たせるなど、一般教養を教える者として有り得ない失態だ――と平謝りするエミリーを制し、部屋の主であるエルンストは煎れたばかりのコーヒーを差し出した。
「事前に連絡もらってたし、貴女のお人好しはいつもの事だし、こちらは特に急いでもないから気に病まなくていいですよ」
「……すみません、コーヒー頂きます。ありがとう御座います」
冷却魔法でキンキンに冷えたそれで喉を潤すと、ようやく一息つく事ができた。
「ところで、エルンスト先生がコーヒーって珍しいですね」
過去にエミリーがこの部屋で振る舞われた飲み物はいずれも紅茶で、ほんの少しいつもと違う違和感を感じる。
「ああ、それは……」
味覚を誤魔化すために用意したのだ、と、彼は言った。
「不味いんです」
「え」
固まるエミリーの前に、スッと小瓶が差し出される。
淡い虹色に輝くその中身は、薬と呼ぶには些かファンシーすぎる液体だ。
「この薬は、この世の終わりかと言うほど不味い」
「不味いんですか」
「ええ――だからもし、引き返すなら今だ」
「…………」
エミリーはジッと目の前の小瓶を見つめ、改めて思案する。
……確かに想像より凄まじい色で、この世の終わりというほど不味いと脅されれば僅かにあった恐怖心は急激に膨れ上がる。それでも。
「やります」
エミリーとて生半可な気持ちで此処にいる訳ではないのだ、と。
彼女の様子を窺っていた秘色の瞳へ視線を向ければ、「分かった、降参だ」とエルンストが両手を上げ、最後の悪足掻きを諦めた。
「……では、実験の説明を始めよう。知っての通り、僕が学園長に依頼されたのは"自分を好きになれる薬"です。そしてこの薬は、俗に惚れ薬と呼ばれるものを改良したものになる」
「惚れ薬!」
そんなものが実在するのか――思わず目の前の小瓶を凝視する。
「本来は製法も材料も厳重に管理されてるもので、そいつを使おうだなんて発想自体ありえない筈なんですが――何せ、発案者があの道楽オヤジなもので」
「ああ……」
遠い目をしながら呟かれた内容に、思わず納得してしまう。
色々とあり得ない規模の話ではあるが、実際それをやりかねない程度には二人が働く学園の主は規格外なのだ。
「なるべく調整したとは言え、まだ客観的に安全か判断が出来ていない劇物です。取り扱いには十分注意して欲しい」
「分かりました。因みに服用方法は?あと量はどれくらいいきますか?」
「――全部」
「は」
「全部そのまま飲み干して下さい」
「…………」
全部そのまま……緊張に包まれる室内にゴクリと息を呑む音が響く。
「あ、あの……コーヒーおかわりしてもいいですか」
「……少し待ってて下さい」
おずおずと手を挙げると、エルンストは呆れながらも準備に取りかかった。
◆ ◆ ◆
「薬を飲んで直ぐにこの手鏡を見ればいいんですね?」
「ええ。最初に目にした者への好意が上がる仕組みをそのまま利用しているから気を付けて」
エミリーは手渡された開封済みの小瓶と手鏡をしっかりと握る。
そうして大きな深呼吸を一度したのち。
ええい、ままよ――と、一気に小瓶の中身を飲み干した。
「――ぐっ」
目をつぶっているためか、ドロリとした液体が喉を通過する感覚がなかなか抜けない。
その感覚もさることながら、ジワジワと口内に広がる泥水の様な不味さと、ほんのりと感じる果実の甘さと酸味、そして野性味溢れる薬草の香りで気が狂いそうになる。
そんな味覚の暴力になんとか耐えながら、勢いのまま手鏡に視線を向けーー
「あっ……」
「どうしました?」
「……ガラス越しに、自分以外を見てしまった場合って――――」
「ガラス越し……? しまった、薬品棚か!」
エミリーは己の姿よりも先に背後にある薬品棚のガラス越しにエルンストの姿を見てしまったのだった。
◆ ◆ ◆
「………………」
黙り込んだエミリーの手を取り、エルンストは静かに様子を観察する。
薬を飲んだ直後、想定外の事態が判明した際は焦ったが、今のところ顔色と脈拍に異常は見られない。
逆に言えば、薬を飲んだにしては彼女の様子は普通すぎるのだが。
人間が持つ好意を十段階――この段階を定義するまでが過酷だったのだが――に分けるとして、今回の薬は四段階上げるものを用意していた。最低でもほんのりと好意を持つ事になる想定なのだ。
しかし、この様子ではつまり、エミリーにとってエルンストは薬で強制的に好意を四段階上げた状態でも平静を保てる存在と言うわけで……。
ここ数週間で見せた醜態を思えば仕方ないとは言え、精神がガリガリと削れる一方である。
思えば、今のこの状況自体がある意味奇跡的なのだ。
初手で痛烈な皮肉をぶつけてしまった出会いも出会いだったが、これまで彼女が望んでないお節介を嫌味と共に散々押し付けてきた。
元々、彼女がそういう性質である事を見越してこの学園に招かれたとは言え、こうして休息日にわざわざ好きでもない男が作った破滅的に不味い薬の被験者となってくれているのは、一重に彼女の真摯さと度が過ぎるお人好し故だろう――。
と、エルンストは荒む心境を無表情で押し殺しながらエミリーの反応を待っているのだが、相変わらず彼女は硬直したままである。
流石に声をかけるべきかとエルンストが口を開いたその瞬間、二人にとって忌ま忌ましい嵐の様な男が保健室に到来したのだった。