1989
貴史だ。
まるでカメラのシャッターを切った瞬間のように、俺の目に写ったその光景が一時停止したかに見えた。それに合わせて、俺の心臓の鼓動も一瞬止まったと、感じた。
あれは、貴史だ。間違いない。
この二十数年間、なるべく思い出さないよう、考えないようにしてきた奴の顔だ。いや、考えないようにしてきたどころじゃない。そんな人間は初めからいなかったふりをしてきた。過去の事だと、過ぎた事だと、自分に言い聞かせてきた。あれは、仕方なかったんだと。
その、貴史だ。
週末の午後四時。若い女性向けファッションブランドの店舗が並ぶ、郊外のアウトレットモールの一角。
女子高生だか女子中学生だか、とにかくバカみたいな数の、女の子、女の子、女の子……。正直どれがどれやら、俺のようなおっさんには区別がつかない。皆同じに見える。唯一区別がつくのは、今年十四歳になる自分の娘だけだ。だが今はそれも、この群の中のどこにいるのやら。俺は背を伸ばし小さく息を吐くと、もたれかかっていた通路の隅の柱に改めて寄りかかった。うちの十四歳は、欲しい服を見つけたら俺を呼びにくることになっている。つまり俺は財布だ。まったく、実の娘だからこそ許される傍若無人ぶりだ。
そんな事を考えながら、もう一度ゆっくり周りを見回した。大勢の少女達でほとんど身動きも取れないくらい混雑したモールの隅々には、意外にも、かなりの数の男達が気恥ずかしそうに立ちすくんでいる。彼らの年齢は中学生位から俺のような四十代位までと色々だが、いずれにしても、妻なり彼女なり娘なりの買い物が終わるのを辛抱強く待っているのだ。
そんな男達の中に、俺は、「貴史」を見つけたのだった。
俺から僅か数メートルの距離に、「貴史」は、いた。
幅がひろくハチが張った額に、かなり濃い、くっきりした眉が乗っている。その下に、くりっとした大きな目。特徴のある大きな鼻、というかダンゴ鼻。これさえなければそこそこ見られる顔だというのが、あの頃、俺達の定番のいじりネタだった。それと対照的に、良く言えば優しい、悪く言えば気が弱く、不器用で言いたいことをうまく言えない奴の性格を象徴したかのような、拗ねた子供のように小さな口。そして、やたらにガタイがでかい。
ガタイが……。その時俺は気づいた。俺の視線の先にいる「貴史」は、どちらかと言えば背が低く、痩せていて小柄だった。一瞬息を飲みしばらく見つめた後、俺はまるで悪夢から覚めたように安堵の溜息をついた。緊張していた身体の筋肉が緩む。
(……別人だ)
そうだ。当たり前だ。貴史のはずがない。貴史は俺と同じ歳だ。今ではもう、すっかりおっさんになっているはずだ。
だが目の前の「貴史」は、あの頃のままの、二十代の貴史だった。俺は密かに自嘲的な笑いを浮かべ、改めて「貴史」を眺めた。俺は一体何をぼんやりしていたのか。
しかし彼は本当に貴史によく似ていた。一瞬見間違えたのも無理は無い。だがあの頃の貴史とは違い、「貴史」は、ヘアスタイルも着ているものも、最近の子らしくとてもオシャレだ。洗練されている。そしてよく見ればあの鼻も、貴史の特徴あるダンゴ鼻よりはいくらか小さめだ。スタイルもとても良い。本物の貴史より小柄なものの、下手したらこの「貴史」の方が貴史より足が長いかもしれない。全体的に「貴史」は、貴史よりだいぶイケメンだった。
俺は、自分のベルトのバックルにそっと目を落とした。ほんの僅かばかりの体脂肪が、ちょこんとバックルの上に乗っかっている程度だ。俺は仕事柄、若い頃のルックスを少しでも維持するために相当な努力をしている。週に二日は必ずジムに行くし、なるべく規則正しい生活を心がけている。酒は付き合い程度。五年ほど前、禁煙にも成功した。食べ物の塩分は控え、カロリー計算もしっかりする。
つまり、同年代の普通のおっさん達より、だいぶマシなわけだ。
自分で言うのもなんだが、俺は、「かっこいいお父さん」の部類に入れてもらってもいいんじゃないかと自負している。だが娘は今日のように財布代わりにする時以外、俺とあまり出かけたがらない。その理由は、俺の髪だ。
俺の髪は、いわゆる、ロン毛だ。
肩下から三十センチくらいあって、天パなのでゆるくカールがかかっている。いい年こいたおっさんのロン毛。しかもどちらかというと八十年代風、ぶっちゃけダサいロン毛。さすがに、街ですれ違いざまに振り返って、驚いたように俺を見る人もいる。繊細な年頃の娘はそれを恥ずかしがって、一緒に歩くのは嫌だと言うのだ。切ってくれたら、一緒に出かける、とも。娘の気持ちも分からなくはない。だが俺は、この髪だけは切るわけにいかなかったのだ。「あの時」からこの髪は、俺に残された謂わば「1%の良心」だった。
ぼんやり物思いに耽っていた俺は、ふと我に返った。どうも、「貴史」のおかげで、つい昔の事を思い出しそうになってしまう。おれは何かを振り落とすように軽く頭を振った。やめようやめよう。
目線を上げるといつの間に現れたのか、さっきの「貴史」の側に制服の女の子と小太りの中年男がいた。女の子はちょうどうちの娘と同じ年頃だろう。仲良さそうに話している。どうも「貴史」の父親と妹らしい。制服の女の子は健康的な声で笑いながら何か言い、大量の重たそうな買い物袋を父親に押し付けた。
(どこの娘も同じらしいな)
俺は自分と娘の姿を彼らに重ね、クスっと笑ってしまった。
その時、俺があまりにジロジロ眺めすぎてしまったのか、中年男は視線に気付いて顔をこちらに向けた。目が合った。
――それは本物の貴史だった。
ジョッキを一気に半分近く飲み干すと、はあーっ、と、貴史はおっさんらしい溜息をついた。賑やかな表通りから少し奥まった所にある落ちついたバーのカウンターで、俺たちは並んで座り、とりあえず最初の一杯をオーダーした。貴史はビール、俺はアルコールを抑えめにとバーテンに頼んだブラッディ・マリーだ。
俺達は乾杯もせず、それぞれのグラスに口を付けた。
いったい俺達のどちらから、「せっかくだから」とか「その辺で軽く」などと最初に口走ってしまったのか。ついさっきのことなのに思い出せない。
あの時ショッピングモールの片隅で、「久しぶりだな」とか、「元気か」とか、そんな社交辞令をぎこちなく交わした後に起こってしまった気まずい沈黙を破るため、何か言わなくてはとお互い焦り、結局そんなセリフをどちらからともなく口走ってしまったのだ。さらにもう一方も平静を装いたいあまり、「おう、そうだな」などと短い言葉で同意してしまった。まるで売り言葉に買い言葉だ。しかし一度そう決まってしまったからには不自然に撤回するわけにもいかず、結局、それぞれの子供達を先に帰らせ、貴史の提案で奴のいきつけの店にやって来てしまったわけだ。
「元気そうだな、将俊」
貴史が少し緊張した声で言った。
胸の奥に、喉の奥に、何かがこみ上げる。貴史が俺の名を呼ぶのを聞いたのは何年ぶりだろう。俺は考えた。最後に貴史と話したのは……。
そうだ。忘れるはずがない。あれは、1989年。昭和という一つの時代が終わり、新しい時代が始まった年の夏だった。
ギュゥゥッッウワアァァアアアァァァンンンンンンン!!!
パリパリパリパリパリパリハリハリ!!
ァアアアアアァァォンワアァァァオォォォォンン!!
しつこいほどの余韻を残し、貴史のギターの高音が会場に鳴り響く。俺達のメタルバンド「ラ・ヴァンパイア」名物、貴史の「鳴きのギターソロ」だ。
「ソロの時だけは、俺はイングウェイだって自分に暗示をかけるんだ。天才なんだって。うるせえ、図々しいのはわかってるよ。でもとにかく、自分は天才だって信じてるのが結局一番、気持よくていいプレイができるんだよ」
貴史はいつもそんなことを言っては、俺達メンバーを苦笑させた。
天才ギタリスト、イングウェイは貴史の憧れだった。まあ、奴にとってだけでなく、大勢のギタリストにとっても、だが。代表作の一つ「ライジング・フォース」のレコードを、それこそいつも繰り返し繰り返しかけていて、単にファンというよりもう信者といった風だった。俺が思うに、イングウェイのギターそのものよりも、彼のいかにも天才肌のミュージシャンといった破天荒な性格や言動なんかが、元々少し気の弱いところのある貴史の心を掴んだのだと思う。どこか思い切った行動ができないところがある、優しくて繊細な貴史の心の中の「こんな人間になりたい」という変身願望に、天才ギタリスト、「イングェイ」はぴったりとはまったのだ。実際貴史は意識して「イングェイ的」な言動をする事がよくあった。そしてそれがまた見え見えで、不良ぶった少年のようなのがどこか憎めず、俺達の苦笑を誘ったのものだった。
ウアアァァァヮワワアァァァ……ォンンンン…………
貴史の速弾きと振り回したっぷりのソロが終わり、そして、客に息つく間も与えずに俺のボーカルが入る。俺の出せる最高音を腹の底から絞り出す! この瞬間の快感を言葉で説明しようと思っても、なかなか出来るものじゃない。貴史の作ったメロディアスで早い旋律に乗せ、俺は、ドラムス・竜也の書いた繊細で美しい詩を歌い上げる。ベースの真司が低音で俺の声と競い合う。目を閉じていても、客が息を飲んで聴き入るのが伝わった。この瞬間のために、全てを捨ててもいい。俺はマジでいつもそう思っていた。
俺は、日本人にはまれな「メタル声」の持ち主として、出演しているライブハウスではちょっとした有名人だった。俺の最大の武器は、4オクターブの声域だ。
「高音こそ至高」
貴史がいつも言っていた。高音の美しさこそがこそメタルの真髄、だと。
メタル、そしてその「高音」こそが、俺達を結びつけているものだったかもしれない。ステージの上で俺の声が、4オクターブの音域を、まるで空を飛ぶように自由に翔け回る。そして貴史のギターがそれと競うように唸り、観客をさらなる高みに連れて行く。それが俺達のバンド「ラ・ヴァンパイア」だ。
俺達は最後まで演奏しきった。ギターが静かにフェイドアウトしていった。カメラが、俺達メンバーの表情を一人ひとり順番に映していく。
今俺達が参加しているこのTVのバンドオーディション番組では、「まずい」参加バンドは、容赦なく途中で演奏を止めさせられてしまうのだ。シビアだ。しかし一方でそのシビアなシステムが視聴者に受け、驚異的な視聴率を記録するオーディション番組だった。
この番組へデモテープを送ろうと言い出したのは、貴史だった。
貴史と俺は二十代中盤にさしかかっていた。つまり、そろそろ、「崖っぷち」に近づきつつある年齢だ。
十八歳で高校を卒業した後三浪し結局進学しなかった貴史は、のらりくらりと親からの「将来はどうするんだ」攻撃をかわしつつ、昼はパン工場のバイト、夜は練習と週一回のスタジオ入り、そんな生活をずっと続けていた。
このまま音楽を続け、ひたすらプロを目指すのか。それとも、違う道を探すのか。選ばなければならない時期は、俺達にとってもうそこまで迫っていた。
貴史が焦っているのは、俺達バンドの残り三人共、薄々感じていた。だけど正直な所、俺達の中の誰も貴史の悩みを切実に共感してやれずにいた。
真司は俺達の中で一番若い十九歳。どっぷりとバンド中心の生活を送っていたが、自分もそのうち二十五歳になるなどどいう現実は、今の彼にとってはまだ冗談でしかなかった。
竜也は二十一歳。都内の結構いい大学に通っている。どちらかというとのんびりした性格で、「まあ、なるようになるさ」というスタンスだった。
そして俺。貴史と俺は同い年で、崖っぷちなのは俺も同じだった。俺も貴史と同じように、将来の事を考えろという周りからのプレッシャーに耐え、楽器屋のバイトと練習で忙しい毎日を送っていた。昔のバンド仲間が安定した職についたという話や、家庭を持ったという話に、少しナーバスになることもある。だが俺は貴史ほどには焦りを感じていなかった。このまま頑張っていれば、いつか俺達はデビューできるという確信に近いものがあったのだ。
バンド全体の実力はレベル的にも充分プロで通用すると思っていたし、ルックスも、俺以外の三人に関してはまあ及第点といったところだが、そのぶん俺のルックスでカバーできた。自分で言うのもなんだが、バンドマンの中ではかなりイケメンの部類だろう。とりあえずバンドはボーカルのルックスさえOKなら大丈夫だろうと俺はふんでいた。現に、路上ライブではいつも、メタルバンドにしては珍しいくらいの数の女性客を集めていた。俺のボーカルが他のメタルバンドに比べて多少細めで軽めなものの、その分コアなメタルファン以外の人や女性ファンにも聴きやすく受けやすいという強みもあった。
日本にはまだ世界に通用するようなメタルバンドは数少ない。いくつかの実力あるメタルバンドが先駆者となり、ようやく道を切り開いてくれたばかりだ。俺達もその後に続きたい。それが俺達の共通の夢だった。その夢があるからこそ、時に反発しあってケンカをしても、もう一度一緒に一つの曲を演奏すれば何となく怒りはどこかに消えてしまい、また練習を続ける事ができるのだった。まずはメジャーに出て、いつかは世界で評価されるような日本出身のメタルバンドになりたい。そして、そのための第一歩が、今日のオーディションだ。
「……素晴らしいですね」
審査員の一人、辛口コメントで有名な音楽評論家がぼそりと言った。
俺は頬が緩むのをなんとかしてこらえた。彼にしては珍しく好意的なコメントに、会場がざわめく。
「ありがとうございます」
(……やった)
礼儀正しく控えめに、審査員のコメントに答える。この業界は、目上の人間に好かれる事が実力以上に重要だ。俺はそれを心得ていた。
バンドの他のメンバー達は、どちらかというとそういう機転が効かない方だった。
決してアナーキーな性格ではないのだが、どうも物の言い方というものをよく分かっていない、いつも仏頂面の真司。
メタルバンドには珍しく、おっとりした穏やかな性格で良い奴なのだが、ちょっとマイペース過ぎるところのある竜也。
そして貴史に至っては極度の人見知りで、こういった、喋らなければいけないような場に来ると始終俯いているばかりだ。
俺はと言えば、子供の頃から「要領だけは良い」と言われてきた。どうすれば相手に気に入られるかをいつも計算して話すような人間だ。既に長い付き合いで他の連中のアピール下手は心得ているので、いつもこういった場では責任重大だと感じている。俺の態度や発言にバンド全体の好感度、特に今日は、バンドのこれから先の運命、さらにはメジャーデビューがかかっているのだ。
辛口音楽評論家は、俺達の演奏に関して技術的な今後の課題をいくつか指摘し、コメントを終えた。そして数人の審査員のコメントに続き、俺達の出番はいったん終了した。後は全てのバンドが演奏を終えて審査結果発表が始まるまで、しばらく待機だ。
「やったじゃん」
裏に引っ込むなり竜也が全員を振り返り、上ずった声で言った。竜也にしては珍しく興奮している。
「だよな!あのおっさん、めったに褒めたりしないだろ。すげーうまいバンド出てもさ、大体いつもボロクソ言うじゃん。俺達すげー好印象じゃん」
真司も嬉しそうに答えた。
貴史は無言で立っていたが、頬が紅潮し、やはり内心喜んでいるのが分かった。
俺達四人全員、充実感に包まれて、今日の手応えを充分に感じていた。
このままなら優勝できる。俺はほぼ確信していた。俺達の順番は終わりの方に近かったが、正直、他にめぼしいバンドはまだ出ていなかった。
俺達は既に、数あるインディーズバンドの中でもかなりの知名度を誇っていた。インディーズで出したレコードも、まあまあの売れ行きだ。俺達のキャリア的にも年齢的にも、デビューするのに良いタイミングだ。メジャーデビューまでの下地作りは、充分できている。今日、この番組の優勝者になれば、道は自ずと開けてくるだろう。
「……続いて、ベストボーカリスト賞!ラ・ヴァンパイア、滝口将俊!!」
会場に司会者の声が響き、いきなり俺にスポットが当たる。
正直、これはちょっとした驚きだった。この番組のオーディションでは、その週の優勝者となるバンドの選考以外に、プレイヤー個人に与えられる賞や、楽曲に対して与えられる賞も用意されていたのだった。すっかり忘れていた。意外な驚きに、俺はとっさに笑顔を作ることもできずにいた。そんな俺よりもむしろ、真司の方が大はしゃぎだ。大声を上げ、俺の肩や頭をバンバン遠慮無く叩いて祝福する。竜也も、「やったじゃん」などと俺に声をかける。
戸惑いながら周りを見回すと、貴史と視線がぶつかった。そこには俺と同じように驚きで呆けたような貴史の顔があったが、次の瞬間、貴史の顔に笑顔が広がった。いや、泣いている。目にうっすら涙すら浮かべながら、ぐちゃぐちゃな顔で笑っている。俺は、俺が受賞したことを貴史がこんなに喜ぶとは思ってもみなかった。
俺は何においても貧乏くじをひくような事だけは無い人間だと思うが、たまに、貴史のこういう不器用な純粋さや素直さを垣間見る時、なんとも言えない、心をくすぐられるような感情が湧く瞬間があった。この時も、戸惑いつつ貴史の素直さに心打たれた。貴史のギターが、俺のハイトーンボイスを運んで行くんだ。これは俺達二人に与えられていいはずの賞賛なのに、貴史は俺の後ろに下がり、俺に拍手を送っている。
だからこそ、俺が今日取って帰りたいのはこの程度の賞ではなく、この番組の優勝者の称号だ。
バンド全員で優勝者としての喜びを分けあい、いつものように貴史の狭いアパートでライジング・フォースをかけっぱなしにして、朝まで死ぬほど飲んで騒ぎたい。貴史のイングウェイに関するしつこいうんちくを、真司がまぜっかえして、怒る貴史をなだめる竜也。そんな皆を見て笑いたかった。コメントを求められて無難な受け答えをしながらも、俺は焦らされている気分だった。
「それでは、いよいよ優勝者の発表です」
各賞の発表がひと通り済み、少しの間を置いて司会者が、視聴者の緊張感を煽るような声でアナウンスした。
会場の証明が落とされる。会場全体が静まり返る。
俺は息を呑んだ。
俺は一服したかった。
オーディション参加者用控室に続く廊下に置かれたソファに、身体を投げ出した。他のメンバーは俺を残し、先に控室に向かっていった。
煙草に火を付け、深く吸い込み、吐く。
頭の中でさっきのプレイを再現する。
何が足りなかったのだろう。俺達に。
俺達は優勝できなかった。俺達の後に出た、かなりポップな感じのガールズバンドに優勝の座をさらわれてしまったのだ。
俺達のバンドも、かなりいい線までは行っていたはずだ。だが、決してうまくはないがかなり個性的で魅力あるそのガールズバンドのボーカルや、女の子にしては相当レベルの高いギターとドラム、さらにいかにも売れそうな曲と詩、そういったものに俺達は負けてしまったのだ。
俺がもう一度煙草の煙を深く吸い込み、溜息と共に吐き出した時、きちんとしたスーツ姿の男が俺に近づいて来た。
「すみません」
と、男は俺に声をかけた。
「どうも、ラ・ヴァンパイアの滝口将俊さんですよね。ちょっとお話させてもらえますか?」
男は言いながら俺に名詞を差し出した。そこには、業界でもトップ3に入る大手プロダクションの名が印刷されていた。俺は急いで火を付けたばかりの煙草を灰皿に押し付け、立ち上がって彼に挨拶した。
バンッ
俺はわざと大きな音を立ててドアを開けた。
まだ控室に残っていた他のバンドのメンバーや、真司、竜也、貴史の三人が驚いてドアを振り返る。ただ俺が入ってきただけと分かり、他のバンドの奴らはまたドアに背を向け、帰り支度を始めた。
「そんなイラついたってしょうがないだろ」
真司が言う。だがそういう真司こそ、悔しさをどこにぶつければいいのか持て余しているのがよく分かった。バンド内の潤滑油、竜也が、「まあまあ」となだめに入る。
貴史はというと、俺に構わず無言で帰り支度を続けている。何も言わないが、おそらく一番失望しているのはこいつだろう。
俺も同じだった。ついさっきまで。
貴史が悲しそうな目で、ちらりと俺を見た。その瞬間、俺はそれまで抑えていた感情を爆発させ、いきなり言葉にならない声で叫んだ。
三人は死ぬほど驚いたらしい。口をぽかんと開けて俺を見た。その顔を見るとおかしさがこみ上げてきて、興奮と合わさり、俺は大笑いし始めてしまった。
「おい、お前大丈夫か?」
真司が心配そうに俺の肩を掴んで揺する。
俺は笑いをこらえつつ、息を切らしながら三人に説明した。大手プロダクションの人間に声をかけられたこと。彼に、優勝は出来なかったものの今日の演奏を聴いて才能を感じたと言われたこと。そして、かなり遠回しで断定しない表現でだが、契約を検討していると伝えられたこと。
俺が最後まで話すか話さないうちに、三人共、俺の壊れたようなはしゃぎっぷりの原因を理解したらしい。ついには三人共奇声を上げて部屋中を跳ねまわったり、お互いにバシバシと体中叩き合ったり、バカみたいな騒ぎになってしまった。他のバンドの連中は俺達をジロリと一瞥し、そそくさと帰って行ってしまった。
ひと通り騒いで興奮が収まると、俺は皆に、とりあえずもう少し詳しい話をするために明日先方の会社を訪ねるよう言われたと伝えた。
「ずいぶん急だなあ。俺、明日は学校行かないと……単位やばいなあ」と、竜也。
「俺もバイト入ってるよ。サボるしかねえかなあ。貴史は?」と、真司が訪ねる。
「俺も」と、貴史。困惑顔。
「じゃあとりあえず、明日は俺が一人で行ってくるよ。ちょうどバイトも休みだし。もう少し話を聞くだけだから、全員で行かなくても大丈夫だろ」
俺は実質バンドリーダーみたいなものだったので三人に異存はなく、そうする事で話がまとまった。
俺達四人は貴史の狭いアパートで夜遅くまで飲んで騒いだ。優勝を逃したと分かった時に遠のきかけたメジャーデビューの夢が、いきなり目の前に降って湧いたのだ。単に優勝するよりもむしろ、この方が喜びも大きかった。
その大手プロダクションの自社ビルは、音楽業界でのその地位を誇示するように、初夏の太陽の光を浴びてキラキラ光っていた。
俺はすこし気後れした。そのビルは俺が想像していたよりもはるかに大きく立派な建物だった。ここと契約できるという事が、もちろん嬉しいのだが、なんだか夢を見ているようで、急に冷めてしまいそうで、俺は少し怖くなったのだ。今まで事あるごとに「メジャーデビュー」という言葉を仲間内で使ってきたが、それが今初めて、現実味を帯びて目の前にそびえ立っていた。
だが、ここでビビっていてはなんにもならない。俺はビルの入口を入り、小綺麗な身なりをした受付嬢に、アポイントがある旨を告げた。
昨日俺に声をかけてきた男は、佐久間と名乗っていた。まだ若かった。三十代半ば位だろうか。案内された部屋で待っているとその佐久間ともう一人、おそらく佐久間の上司なのだろう、四十代後半位の男が部屋に入ってきた。立ち上がり挨拶を交わす。受け取った名刺には、どれくらいの地位なのか、俺にはさっぱり分からない肩書があった。
ひと通り社交辞令的な会話を交わした後、佐久間はさっそく切り出した。いかにもやり手という感じだ。仕事が早く無駄がない。
「とりあえず今日のところはですね、滝口さんご自身のことについて詳しくお話を伺いたいと思っているわけなんですが。かなり細かいところまでお聞きしてしまう事もあるかもしれませんが、構いませんでしょうか」
質問の形をとっているが、ここでNOの返答は全く想定していない質問の仕方だ。だがもちろん俺に異存があるわけもない。俺は、もちろん構いませんと得意の営業用笑顔で答えた。
本当に、かなり細かい所まで質問攻めにあった。
俺自身の出身から家族構成、音楽に対しての考え、今までの活動内容。まるで警察の取り調べだ。長時間にわたる質問に答えながら、さすがの俺もだんだんうんざりしてきた。いつまでも俺個人の話ばかりで、ちっともバンドの話や具体的な契約の話にならない。俺がそっちの方に話を持っていこうとすると、やんわりと話を外らされた。
やがて佐久間の上司がそっと佐久間に何か耳打ちをした。佐久間が軽く頷く。上司は、申し訳有りませんが私はちょっと外させて頂きますとか何とか言って、部屋を出て行った。
「もう一杯お持ちしましょうか」
空になった俺のコーヒーカップを見て、佐久間が言った。
「いえ、もう結構ですから」
俺は、これは話を切り替えるタイミングだなと感じ取った。
「ええ、では、個人的な事はこれで大体伺いましたので、ここからいよいよ具体的なお話をさせて頂きたいのですが……」
予想通り、佐久間が切り出した。
「単刀直入に申し上げたいのですが、こちらといたしましては、滝口さんを現状のメタルバンド、ラ・ヴァンパイアのボーカルとして売り出す気は全くありません」
「……え?」
思ってもみなかった言葉に、俺はその意味が理解できなかった。俺は馬鹿みたいに佐久間の顔を見つめた。
「つまりですね。滝口さんは大変素晴らしい歌唱力をお持ちです。ですが、歌唱力だけで人はレコードを買うわけではないんです。お分かり頂けますか」
「……はあ」
「大勢の人が好む楽曲を、大勢の人が好むシンガーが歌う。これが基本なんです」
「……はい」
「ラ・ヴァンパイアの音楽は、言ってしまえばメタルは、この、『大勢の』という部分に当てはまりません」
「それは……」
何だ。そういうことか。俺は理解した。まあ、予想できたことだ。この佐久間にとって音楽は単なるビジネスだ。ラ・ヴァンパイアに、もっと売れ線のポップなものをやれと言いたいのだろう。実際、メタルはダサい、古臭いという意見は常にある。ある程度、言われ慣れている。俺は反論した。ライブハウスや路上に来てくれる大勢の人達のこと、メタルは確かに誰でもが聴くタイプの音楽ではないが、一部の人間により深く浸透する、いわば広く浅くではなく狭く深くというタイプのジャンルだということ。何よりも、俺達のメタルへの想いを、今はまだ弱い日本のメタルシーンを俺達の先導で盛り上げ、後に続く世代に影響を与えるようなバンドになりたいという想いを、そして、ラ・ヴァンパイアにはそれだけの可能性があると自負していることを。そういった想いを、多少感情的過ぎる程に語った。
佐久間は辛抱強く最後まで聞いていた。にこやかな表情を浮かべているが、本音はまったく分からない。
「滝口さんの仰ることも分かります。ですが、今こちらで欲しいのはメタルバンドではないんです。私達は常に今の流行ではなくこの先の流行を考えています。私は賭けてもいいですが、この先、バンドブーム、特にメタルのジャンルの勢いは衰えていきます。ですが、時代の流れに取り残されてしまうには、あまりにも滝口さんの歌唱力は惜しい。そこで、今回声をかけさせて頂いたわけです」
「あの、それはどういう……」
「滝口さんの歌唱力や声質は、メタルファンだけでなく、もっと広く一般の人にも受け入れられる魅力があります。はっきり申し上げます。滝口さん、ソロでうちからデビューしませんか?」
「……え?」
「私達が全てプロデュースします。ご自分のお好きなジャンルにこだわるのも良いことだと思いますが、もっともっと多くの人に滝口さんの歌を聴いてもらいませんか? 楽曲も、それにふさわしいものをこちらで用意します。バンドの他のメンバーの方には……、もちろん滝口さんもお辛いかと思いますが、この業界ではよくある話です。実力主義の世界ですからね。皆さんも、結局は分かって下さると思いますよ。これは滝口さん個人の才能に与えられたチャンスなんです。チャンスは、そう何度もやってきませんよ。滝口さん。今日のところはいったん、よく考えてみて下さい」
夢の中をぼんやりと彷徨うように、気づいた時には自分の狭いアパートに戻っていた。住み慣れた自分の場所で思い切り身体を投げ出し寝転ぶと、ほっとすると同時に、急に怒りがこみ上げてきた。
ふざけやがって! わざわざ呼びつけておいて、話が違うじゃないか。確かに昨日佐久間は、ラ・ヴァンパイアをデビューさせるとは一言も言わなかった。だけど俺がすっかりそう思い込んだのも、状況から考えて当然だった。騙し討ちみたいなやり方しやがって。ラ・ヴァンパイアを抜けてソロで、しかもどうせつまらないポップス曲でも歌わせるつもりだろう。誰がそんなことするか。俺はヘヴィメタルシンガーだ。期待させやがって。皆に何て言えばいいんだ。
頭の中でひとしきり佐久間に悪態をつきまくると、多少落ち着いた。ふと顔を横に向けると、スタンドに立ててあるアコースティックギターの、きれいに磨いてあるボディに俺の顔が写った。俺はしばらく空っぽの頭でそれを眺めていた。
頭の中に、佐久間の声が響いた。
「もっともっと多くの人に、滝口さんの歌を」
それはもちろん、俺の夢でもある。
「よくある話」
……確かに、こういう話はよく聞く。今プロで活動しているいくつかのバンドでも、デビュー時にメンバーが大幅に入れ替えられたという話を聞いたことがある。
俺はもう一度、ギターのボディに写った俺の顔を見た。
二十代中盤。このままラ・ヴァンパイアを続けていて、いつかは本当にデビューできるのだろうか。時間はもうあまり無い。だからこそ、今日のオーディションに賭けていたんだ。
「時代の流れに取り残されてしまうには……」
メタルでは、これ以上先に行けないのだろうか。俺達の好きなメタルでは。少なくとも佐久間はそう言っていた。いかにもやり手の、プロである佐久間が。
「滝口さん個人の才能」
俺は身震いした。今の俺があるのは、貴史がいたからだ。中学校の同級生だった貴史が、俺にメタルを聞かせ、教え、一緒にバンドをやろうと言い出したのだ。それ以来十年あまり、メンバーを入れ替えつつも俺と貴史はずっと一緒にラ・ヴァンパイアをやってきた。俺の歌と貴史のギターで、メタルの美しさとエネルギーで、客を圧倒する。それが俺達のラ・ヴァンパイアだ。才能というなら、貴史だって。
長い時間、ずっと寝転がったままギターに写った自分の顔を眺めていた。
「チャンスは、そう何度もやって来ませんよ、滝口さん」
俺の頭の中で、もう一度、佐久間が呟いた。
数日間、考えに考えぬいた。そして佐久間に返事を伝えた。
まず竜也に、そして真司に、話した。そして詫びた。
皆には悪いと思うが、せっかくのチャンスを逃したくないと伝えた。真司には殴られた。竜也は予想通り柔らかな態度で、ゆっくり、おめでとうと言った。
俺は、真司よりは竜也に話すほうがまだ気が楽だと思っていた。真司は気性が激しいから、当然、修羅場になるだろうと思ったのだ。だけど実際は、真司の態度の方が有り難かった。おめでとうと口で言いながら、竜也の目は、「裏切者」と静かに言っていた。真司には、殴られて少しだけすっきりした。
吐き捨てるように悪態をついてスタジオを出て行った真司の後を追って、竜也は、「じゃあ、そういうことで」と呟いて出て行った。
俺は部屋の隅に置いてあった椅子に腰掛けると、煙草に火を付けた。後は……。貴史に話さないといけない。
「……イカロスだ」
俺の話を黙って最後まで聞いた貴史は、長い長い沈黙の後、呟いた。
「……は?」
貴史の、予想もしていなかった意味不明の言葉に、俺は戸惑った。
ゆっくり話をしたくて二人で登ったスタジオの屋上。今日も良い天気だ。
「イカロスだよ。ギリシャ神話だっけ? ほら、何か、空飛ぼうとして羽を作って飛ぶんだけど、落っこちるっつー話。知ってるだろ」
「……ああ、知ってるけど」
「アホな話、くらいにしか思った事無かったんだよ、今まで。あんなに何百回も聴いて、一生懸命コピーして練習したのに。でも、俺、全然分かってなかったな」
上ずった、微かに震える、まるで俺にではなく自分自身に呟いているような貴史の声。俺は貴史が何の事を言っているのか思い当たり、胸が詰まった。
――イカロスの夢――
数えきれないほどあるイングウェイの代表曲の中でも、貴史が特に好きな曲だった。
イカロスの夢。一度叶ったものの、堕ちていった夢。
すっかり聴き慣れた悲しげなメロディーが、俺の頭の中で流れた。そういえば、十四歳の春、それまでメタルなんて聴いたこともなかった俺に貴史が半ば強制的に聴かせたのがこの曲だった。それ以来スタジオで、お互いの部屋で、もう何百回一緒に聴いたか分からない曲だ。
「なんか皮肉だなあ。俺さあ、今、イカロスの気持ち分かるよ」
「貴史、俺さ……」
何か言わなくては。でも、続ける言葉が見つからなかった。再び、息苦しい沈黙が俺達の間を支配した。
「まあ、頑張れよ。応援してるよ」
絞りだすような小さな声で貴史は言うと、俺の顔をまともに見ず、くるりと振り返ってゆっくり歩き去った。
疲れ果てて、家に帰った。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、がぶ飲みした。
疲れた。眠りたい。今日のところは。
何も考えたくなかった。どさりと、身体をベッドに投げ出した。眠りたい。でも眠れなかった。
「よくある話」だ。竜也や真司はまだ若い。これからいくらでもまだチャンスはある。貴史にしても、この先プロでやっていくだけの力がないというのであれば、むしろ見切りをつける良いきっかけになったかもしれない。皆、今は腹立たしいだろうが、そのうち仕方なかったと分かってくれる。申し訳ないとは思っている。だけど、俺は自分の才能を信じている。だからそれを埋もれさせてしまいたくなかったんだ。
俺は起き上がると、プレイヤーにレコードをセットした。あの曲が流れ出す。
海に落ちたイカロス。かわいそうなイカロス。
俺はプレイヤーを、テーブルの上から思い切りはたき落とした。そして、大好きだったレコードを叩き割った。
あれから、二十数年。
騒がしくエネルギーに満ち溢れた八十年代が終わり、時代は昭和から平成に変わった。色んな事が、変わった。俺は過ぎ去った時代に何かを置き忘れてきたような心のまま、それでも必死にやってきた。
佐久間は正しかった。九十年代は、後にメタル氷河期と言われるくらい、メタルバンドとファンにとって辛い時代になった。巻き起こったグランジブームで、メタルは完全に「時代遅れ」の音楽になった。
それに対し、いかにも女性受けの良さそうな売れ線ラブバラードでデビューした俺は、「そこそこ」売れた。名前を聞けばたいていの人は、「ああ、なんか聞いたことある」などと答えるだろう。まあまあヒットして、カラオケのランキングで十位以内に入った曲が数曲あった。プロダクションも、投資分の価値はあったと考えているだろう。今ではもう自分で曲は出さず、若手を育成するのがメインの仕事になった。時々、TVのバラエティ番組なんかに出演することもある。
そこそこ幸福、いやむしろ上出来の人生だろう。羨む人間もいるだろう。ただ、俺は売れたが、正直、俺の歌う歌のどこがそんなにいいのか今でもさっぱり分からなかった。
俺の武器だったはずの広い声域と声量、力強い、ビブラートの効いた歌声は、デビューの時に封印された。そういうものは今のマーケットでは求められていないのだと。爽やかで優しげなものが受ける時代だった。メタルをやっていた頃のように魂を込めて全力で歌うことは、それ以降なくなった。「力を抜いて歌え」と、デビューシングルのレコーディングの時に何度も何度もダメ出しされた。いいかげん疲れて、やけになって半ば適当に歌ったらそれでOKが出た。わけがわからず、拍子抜けしたのを今も覚えている。
覚悟を決めてメタルを捨てた以上、俺はプロダクションの指示に従った。さすがは大手、と感心したものだったが、歌う曲、着るもの、持ち物、メディアでの発言内容、全ては完璧にプロデュースされた。
ただ一つを除いて。
俺は、プロダクションの命令でも、メタルの象徴だった長い髪を切ることを拒んだ。再三、半ば脅しに近いくらいの勢いで切ることを迫られた時期もあったが、これだけは譲らなかった。ちょうどその頃運良く、俺の曲がまあまあのヒットとなったので、佐久間もそれ以上何も言わなくなり、結局俺は自分の意地を通すことができた。「イメージを損なわないよう」に、メタルの時のようなボサボサ髪でなく、スタイリストによってきちんとセットされはしたが。
どうしてそこまで意地になったのか、正直俺にもよく分からない。
ただ……。この髪を切ってしまったら、俺は何か最後の大事なものまで失う。俺が俺でなくなってしまう。そんな気がしていたのかもしれない。俺は大切なものを失い、その代わり、そこそこ売れているポップシンガーという地位を手に入れた。仲間を裏切り自分のやりたかった事を曲げてまでデビューした。今にして思えば、俺は元からそういう人間だったんだろう。今さら他に何を失くすというのか。だけど、バカバカしいと思いつつ、やはり切ることはできなかった。
まだ時間は早く、開店したばかりのバーに客は俺と貴史しかいなかった。バーテンはさり気なく奥に引込み、店内には静かにジャズのレコードが流れていた。
(やっぱり、一杯だけ飲んだら、うまいこと理由をつけて退散しよう)
気まずい沈黙が続く中、俺は決心した。とてもやり切れない。罵られた方がまだマシだ。バンドのみんなを捨てていった俺を恨んでいるだろうに、何も言わずに黙って飲んでいるなんて嫌味だ。まあ、奴がむかついているのはある意味当然だが。しかしだんだん腹が立ってきた。そもそも、俺がわざわざ貴史の泣き言を聞く為につきあってやる必要はない。
「似てるなあ」
そんな事を考えていたら突然貴史が話しかけてきたので、俺は思わず身構えた。だが咄嗟に、何のことかわからず聞き返す。
「え、何が?」
「娘だよ。よく似てるじゃないか」
貴史の話題が、さっき俺と貴史が話している間にお気に入りの店を見終り戻ってきた娘の事だと分かり、俺は少々面食らった。
「そうかな。うちよりも、お前の息子こそお前にそっくりじゃないか」
「うーん、まあ、男の子だしな。見かけはまあ似てるんだけどなあ。どうも、最近の子は保守的だな。俺達の頃みたいなバカなことは全然やらないよ。まあ親としては安心だけどさ、あれぐらいの若い頃に無茶しないで、つまらなくないのかと思うこともあるね」
そう言いながらも、その思わず緩んだ表情から、貴史の親バカぶりが伺えた。貴史は楽しそうに話し続ける。
「俺達なんて、バカなことばっかやってたよなあ。ライブハウスで対バンの連中とケンカしたりさ、打ち上げで飲んで大暴れして店を出禁になったりなあ。ああそうだ、打ち上げの帰りかなんかにさ、めちゃくちゃ酔っ払って、どっかの店の看板持って帰ってきちゃったことあったよな。覚えてるか?朝起きたら部屋にでっかい看板があってさあ、でも全然覚えてなくて、みんなで大笑いしたんだよなあ」
うーん、と貴史は大きく伸びをしてからジョッキに少し残っていたビールを一気に飲み干すと、奥にいたバーテンを呼んで二杯目のビールを注文した。
(……しまった。お開きにするタイミングを逃した)
「ああ、こんな昔話ばっかりするっての、完全におっさんだなあ、俺も。やだやだ。ハハハ」
バーテンが奥から新しいジョッキを運んできて、貴史の前に置いた。貴史がそれをうまそうにぐいっと煽ると、少したるんだ腹の肉がかすかに動いた。貴史は上着のポケットから煙草のソフトパックを取り出すと、長年の喫煙者の慣れた手つきで、ソフトパックの底をトントンを人差し指で二度叩いた。飛び出してきた二本の煙草。一本を自分が咥えて取り、もう1本が飛び出しているソフトパックを、俺の顔を見もせずにこっちに差し出した時、俺の眼前にまるでフラッシュバックのように、これとまったく同じ事をする昔の貴史の姿が浮かんだ。
あの頃貴史の部屋で、ちょうどさっきのように長い間黙ったまま、ただレコードを聞いて煙草をふかしていたことがよくあった。俺達のバイト代のほとんどが楽器やスタジオ代に消えてしまい、金がなくてどこにも遊びに行くことも出来なかった頃。あの頃は、長時間の沈黙を気まずく感じることなどなかった。
俺が煙草を取りもせず黙ったまま貴史を見つめているのに気づき、貴史は訝しそうに俺の方を振り返った。その顔を、俺は今日初めてまじまじと眺めた。今ではすっかりおっさんだ。刻まれた皺に、少したるんだ頬の肉に、人生経験を積んだ一人の大人の存在感がある。しかしそれと同時に、どこかあどけない、無邪気で不器用で純粋な少年の貴史の表情も、未だそこに存在していた。
「……俺の事、恨んでるだろ」
俺の声は思いがけずかすれた。煙草を差し出したままだった貴史は、ソフトパックをカウンターの上に投げ出すと真剣な表情になり、しばらく黙っていた。そして、ふーっと深く煙草の煙を吐き出すと静かに言った。
「ああ、恨んでるよ」
貴史のその言葉で、何か軽い失望のようなものが自分の内に湧き上がったことに俺は自分で驚いた。俺は、恨んでなどいないという言葉を、期待していたのだろうか?
「……今もか」
動揺した自分を悟られないよう、ゆっくり言葉を発した。貴史は椅子の背に深く身体をもたせかけ、プカプカと煙草をふかした。
「今も、というよりむしろ、昔より今のほうがもっと恨んでるな。今のこの、メタルシーンを見ればなあ。俺達の次の世代のメタルバンドが、全然出てきてないもんな。初めてお前をTVで見た時は、唖然としたよ。あんな歌、歌ってるんだもんなあ。てっきり、すごいメンバーを揃えたメタルバンドで出てくると思ってたのに。悔しかったよ。何でお前が、メタルじゃないんだよって。今も悔しいよ。忘れられないよ」
「…………」
聞きたい事の核心から微妙にずれた貴史の受け答えに、俺にはまた、どう会話を続けていいか分からなくなった。ビールのせいか、貴史はだんだん饒舌になっていった。
「まあでも、後々、納得したけどな。メタルはだめだったんだろうなって。あの後はインディーズもプロも、メタルバンドには悲惨な状態だったもんなあ」
流れていたレコードの最後のトラックが終わり、店内が静かになった。バーテンが奥から現れると、常連の貴史に、レコードがずらりと並んだ棚を指して何か聴きたいものはあるかと聞いた。
「ニルヴァーナでなきゃ何でもいいよ」
貴史と同世代のバーテンは、ハハハ、と笑いあった。バーテンがレコードをセットすると、再びフリージャズが流れだした。バーテンはカウンターの隅でグラスを磨き始めた。しばらく黙って音楽に聴き入っていた貴史が、突然、呟くように言った。
「でもな、俺やっぱり思うんだよ。お前なら、あのままメタルやってれば、お前の影響で次のメタル世代が育って、九十年代のああいう状況で、日本のメタルシーンだけ元気でいられたかもしれないって。そんで、今頃お前は日本のメタルシーンで伝説になってたかもしれない」
俺自身が密かに心に抱いていた想像を見透かされたようで、俺は焦った。
「お前は大げさだよ。すごい奴なんかいくらでもいるんだ。まあそこそこ売れてたかもしれないが、俺はそんな大層なもんじゃないよ」
俺は鼻で笑うと、目の前のグラスに口をつけた。が、ブラッディマリーはもう残っていなかった。貴史のジョッキも、いつの間にか空になっている。貴史はバーテンに合図を送ると、バーボンでいいかと俺に聞いた。
「ああ」
上の空で答えた俺に貴史は気を悪くもせず、手早くオーダーを済ませてから言った。
「そんなことないよ。お前言ったじゃないか。自分の才能を信じてるって。俺だって分かってたよ。お前の声はメタルを歌うための声だよ。本当に。他に、あれだけ歌えるやつなんて日本に誰もいなかったよ。ああ、お前のボーカルは本当に良かったなあ。あの高音とビブラートを思い出す度に、お前がメタルを捨てた事を恨まずにいられないよ」
バーテンが、俺達の前にグラスを二つとボトルを置いた。
イエロー・ローズ・オブ・テキサス。
貴史と軽くグラスを合わせて、一口啜った。クセの強い独特の香りが広がる。カウンターにグラスを置き、その中の美しい褐色の液体を眺めながら俺は呆れていた。
こいつは、バカだ。どうして何の根拠もなく、俺の才能をそこまで信じていられたんだ。俺よりすごい奴なんていくらでもいる。ましてや、メタルシーン全体に影響を及ぼすようなカリスマ性は、俺には無い。俺はイングウェイとは違うんだ。俺は違うんだ。
グラスに残ったイエロー・ローズ・オブ・テキサスの残りをぐっとあおった。強い香りが俺の喉を焼く。
「貴史、煙草くれよ」
数年ぶりに思い切り吸い込んだ煙草の煙は、軽い目眩を誘った。貴史が俺を訝しげに眺める。
「禁煙してたんだぞ」
俺はちょっと恨めしげに貴史に言ってやった。
「お前が? 禁煙? ガラじゃないぞ。やめとけやめとけ」
「煙草だけじゃないぞ。酒も最近はほとんど飲まないし、ジムにも行くし……。健康に気を使ってるんだぞ」
貴史はポカンとした表情になったと思うと、次の瞬間大笑いした。苦しそうに息をつきながら言う。
「人間、変われば変わるもんだなあ! 俺達の中で一番ヘビースモーカーで大酒飲みで、一番メチャクチャだっただろ、お前。お前から健康なんていう言葉が出ると思わなかったよ……ハハハ」
俺は何となく気恥ずかしくなり、貴史と目を合わせないように、目の前のイエロー・ローズ・オブ・テキサスのボトルを意味もなくいじりまわした。
「お前は……変わらないんだな」
呟くと、今度は貴史の方が恥ずかしそうに口篭った。
「うーん、まあな。俺は何ていうか、器用なタイプじゃないからだろうな。うん、あんまり変わらないというか、まあ、成長しないんだろうな、俺って奴は。実はさ……、バンドもまだやってるんだよ。年甲斐もなく。笑うなよ! もちろん今は趣味でだけどな。他のおっさん連中と一緒にさ。ギター、息子にも教えてやろうとしたんだが、だめだな、興味ないみたいで。ところが娘の方がな、今十四歳なんだけど、この子が意外に好きでさ。女の子だし、そんなにハマるなんてこっちが驚いたよ。中学校の友達とバンドまで組んじゃってさあ。それがなかなかレベル高くてな、この間なんて、俺の方のバンドと対バンで、ライブハウスでやったんだよ。うっかりすると中学生に負けちまうから、年甲斐もなく頑張ったよ」
子煩悩な良き父親である貴史の、家庭での姿が容易に想像できた。貴史は照れくさそうに俯いている。俺が黙っているので余計に恥ずかしくなったのだろう、ムキになって反撃してきた。
「笑うなよ!年甲斐がないのはお前もだろ!その髪、昔のまんまじゃないか。若づくりのおっさんは見苦しいそ!」
貴史は大声で笑った。俺も、つられて、笑ってしまった。
さんざん飲んで、そのままカラオケに行った。肩を組んで大声で騒ぎながら。年甲斐もなく、どこから見ても、みっともない酔っぱらいのおっさんだ。そして歌う曲はもちろん……ライジング・フォース。元・バンド野郎の酔っぱらいのおっさん二人は、声を張り上げて一緒に歌った。
帰る前にもう一曲だけ、と言って、イングウェイのバラード、YOU DON'T REMEMBER, I'LL NEVER FORGETを歌った。貴史は静かに聴いていた。俺が歌い終わってそっと貴史の顔を伺うと、そこに貴史の屈託ない笑顔があった。
「相変わらず、いい声だなあ」
などと、のんびりと言った。
自宅から少し離れた場所でタクシーを降りた。コンビニに寄って冷たいアイスコーヒーを買い、自宅までの道を酔い覚ましに歩いた。
満月だった。夜道が、驚くほど明るい。まるで街自体がほの白く発光しているようだ。見慣れたはずの近所の光景が、まるで知らない場所にも見える。なんとなく自宅に帰り着いてしまうのが惜しくて、俺は通りがかった公園のベンチに腰を下ろし満月を眺めた。深夜の涼しい風が吹き、心地よく酔いを冷ましていく。
貴史は、俺の裏切りを恨んでいなかった。恨まれていると思っていたのは、俺だけだった。
俺の才能を信じていなかったのは、俺自身だった。
俺は自分の才能を信じていると口では言いながら、あの時、ポップスシンガーとしてデビューするという話に飛びついた。その結果、「そこそこ」の成功を手に入れた。
だが、もし俺があの時、俺の才能を本当に信じていたなら。あんなに簡単にメタルを捨てただろうか。俺だって、貴史に負けないくらいメタルが好きだった。十四歳の時からメタルは俺という人間の中心にあった。なのに俺は、このままメタルでやっていけるのかという不安に負け、俺の「中心」を自ら手放してしまった。この二十数年間の空虚さの正体は、それだったのだ。
俺は要領の良い人間のつもりだった。表面上は、人生の成功者だ。だがなんのことはない。貴史の方が、たどたどしいながらも自分の「中心」に従って、自分の道をしっかりとした足取りで歩いてきたのだ。今日の貴史を見れば、それが分かった。貴史の目には、自信のなさや、イラ立ちや、俺の持つような空虚さはまるで無かった。陰りが無かった。
昔に戻ってやり直すことはできない。だが俺は今、不思議と安らかだった。やり直すことはできなくても、また、メタルが、俺の中心に戻ってきたような気がした。
俺は安らかだった。いつまでも、いつまでも、月を眺めていた。
ギュゥゥッッウワアァァアアアァァァンンンンンンン!!!
パリパリパリパリパリパリパリパリ!!
ァアアアアアァァォンワアァァァオォォォォンン!!
しつこいほどの余韻を残し、貴史のギターの高音が会場に鳴り響く。俺達のバンド、再スタートを切った、新生「ラ・ヴァンパイア」名物、貴史の「鳴きのギターソロ」だ。
今日は貴史のバンドのおっさん連中をサポートメンバーに迎えての、ラ・ヴァンパイアの再結成ライブだ。信じられないことに……、昔の、ライブハウスに通っていた知り合いやファン達が噂を聞いて、ごく少数だが駆けつけてくれた。
ギターソロに続き、俺のヴォーカルが入る。俺の出せる最高音を、腹の底から絞り出す!
二十数年ぶりの、俺のメタル。
まるで何かが、ずっと俺を待っていた何かが、再び俺を迎えて微笑んだような気がした。