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セイレーンは狼と終わりをうたう  作者: 梨鳥 
おかあさんをするの
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正しい心

 好きな人とは、結ばれる事が出来なかった。

 その人のご主人様が私を愛したから。

 その人は私から後退って、ちょっとだけ私達の未来に対してお悔やみの言葉みたいなセリフを吐いて、それから、祝福しますと言った。

 祝福。

 私はなにから祝福されたのだろう。

 ただのメイドだった私が一体、なにの興味を引いてしまったんだろう。

 チーズとワインを半分こしたい。ただそれだけだった。


 ****************


 大きなお屋敷で、悲しみの種が生まれた。

 その種は弱くて、芽吹く前に小さな種のまま天国へ行ってしまった。

 種を生んだ女は悲しかった。

 原因は自分に在る様な気がして。

 彼女は小さなお包みに真っ白になった種を包んで、泣いて、泣いて、泣いて、後悔した。

 彼女は夫を愛していなかった。

 ぼんやりと憎んですらいた。

 だから、そのせいで生み落とされた種はきっとがっかりして。

 種はちっとも悪くないのに。

 死者でいっぱいの墓場で鐘を鳴らしながら、彼女は黒い海を見る。

 潮風は泣いていて、涙の様に生ぬるかった。


「もう行こう」


 片時も彼女から目を離さない彼女の夫がそう言った。

 彼女は頷いて、彼に従った。

 亡霊のように屋敷へ歩き出す彼女に、夫は寄り添ってゆっくり歩く。

 彼女は真っ直ぐ前を見て、囁いた。


「罰が……」

「――僕にだね」

「違います、私にです」

「僕が君の人生を食い荒らしてしまってる事、知っているんだ」


 彼はそう言って、自分が彼女の凶星だと悟っている事を自白した。

 彼は真っ当な愛情で瞳を濡らした。

 彼は一瞬閃いた愛の狂気で摘んでしまった彼女を、目の覚めた今でもどうしても手放すことが出来ない。彼女がいないと生きられないのだ。


 ――――だったらいっそ笑顔を見ながら死ねばよかった。


「幸せにしたかった。今でもです。何でもします」


 覗き込む妻の瞳の中には、疑問と怯えしかない。唇の震えは憎しみの為か。否、自分の為に妻の感情が動く事なんて、手に入れた時に無くなってしまっている。

「では、ここに」と、妻はからっぽの腕の中に何か小さなものを抱く仕草をした。

 それからハッとして、夢見る瞳に霞をかけると、身体を揺すり始める。


「……良い子ですね。いいこいいこ。あなたに靴下を編みましたよ。あなたのお父様が、上等の毛糸を買って来て下さったのです。お母様は、あなたのおしめをたくさん縫いました。いつも綺麗にしてあげますからね。お洋服もたくさんありますよ。果樹を植えましょうね。お父様が、丈夫で良く実るものを……あなたが大きくなったら、お母様にもいで来て下さいね。お母様は皮をむいてあげますからね。何度あなたを抱きしめましょうか。望む度、それ以上に」

「……アーシェ……」

「あなたのおとうさまはとてもいいひとです。おかあさまとあなたをあいしてくださるわ。なんでなのでしょうか。だいじょうぶ、だいじょうぶ……かじゅをうえましょうね。おとうさまがおかあさまにあたえてくださるのよぜんぶ。どうしてでしょうか。よしよし、いいこですね。おうちにかえりましょうおとうさまのところに。いいこね、いいこいいこ」

「アーシェ!」


 妻が彼の顔を見た。

 孤児でなくても夢見る様な、母親らしい微笑を湛えて彼女が彼に言った。


「帰りましょう。この子が風邪をひいてしまいます」


 膝から崩れるわけにもいかなくて、夫は頷き妻の肩をそっと抱くと、潮風の泣く中屋敷へ戻ろうとした。

 すると、潮風では無い泣き声が聴こえた。

 それはとても弱々しい泣き声で、自分まで彼女に引っ張られているのではないかと彼は怯えた。

 しかし、彼よりも妻の方が反応が早かった。


「アーシェ!」


 妻は幻想の赤ん坊を大事に抱きしめながら、赤ん坊の声を求めて必死に辺りを見渡している。乱れた髪すら、声を求めてうねる様だった。


「いるわ」


 彼女は夫を見た。彼の初めて見る厳しい顔をしていた。


「探して下さい。一緒に。さあ!」


 墓を掘り起こしそうな勢いだった。

 夫は頷いて「僕が探すから」と、上着を脱いで彼女をその上に座らせた。


「いるわ」


 彼は必死で泣き声が何処から来るのか耳をそばだてる。そう、現実に聴こえて来るのだ。


「いるわ」


 海の音と、潮風の音と、カモメ。妻の切迫した歓喜の声。


「いるわ、いるわ、いるわ」


 墓地に点在する鐘釣オベリスクの下、まるで鳥かごの中にいるように。


「――――いた」


 安堵となんとなしの絶望が、彼を襲った。

 赤ん坊がお包みに包まれて泣いていた。

 彼が震える手でお包みを抱えると、それを見つけた妻は奇声を上げて猛然と駆けて来た。


「わたしの、わたしのです!!」


 ぶつかる様に彼の元へ飛んで来て、息を切らし壮絶な光を湛えた瞳で彼にそう言った途端、急に力を失くした。

 彼女は幻の赤ん坊をぎゅっと抱きしめる仕草をして、迷いを見せた。

 彼女の夫は、妻が憐れで涙が零れた。

 だから赤ん坊を差し出した。


「こっちの子が君のだよ」


 妻の顔に、安堵と笑顔が広がった。

 初めて自分の仕事を彼に褒められて微笑んだ時と同じに。


 短い夢が始まった。


 *


 彼の屋敷に、穏やかな時が来たかと思われた。

 妻は夜泣きをする隙など作らない程、赤ん坊を構った。

 けれどもそれは赤ん坊の成長と共に軋んで行った。

 彼の妻は、赤ん坊の成長が理解出来なかったのだ。

 彼女は部屋に『赤ん坊』と籠る様になった。

 かきなり声が部屋から漏れ聞こえ始めたのは、そうしてすぐの事だった。

 同室を厭そうにされながら、彼は奇声を聴きつけては飛んで行った。

 すると、妻はいつもけろりとしているのだ。


「カーテンを捲ろうとしたの。いけない子でしょう。お外って言いだして」

「……そうだね。そうしてあげないか?」

「駄目よ! 駄目です!! だめ! どうしてそんなこというのですか!?」

「どうしてって……」

「酷い! この子を見て! 他所の子と違うの、わかりませんか! こんなに……こんなにやせ細って……!!」


 子供はこういう時の常で、完全に心を閉ざして虚空を見詰めていた。こなるとこの子は暫く戻ってこない。

 わっと泣き出して、彼女は子供を引き寄せる。


「最近、じっと抱っこさせてくれません! ミルクも厭がるし、ああ、あなた、私お乳の出が悪いのです!」

「アーシャ、この子はもう、五歳だよ」

「違う違う違う――――!! キャーーーッ! 出て行って下さい! 誰か、誰かぁ!!」


 子供と彼の目が合った。

 子供は疲れた様に一つ瞬きをして、喚く母親の腰にのろのろと両手を回し、「ごめんなさい」と拙く言った。


「ごめんなさい。ごめんなさい」


 夢の限界が見えて来ていた。


 * * * * *


 ある日、封魔師様が私たちのお部屋へやって来た。

 私の気持ちを穏やかにするお茶をいつも煎じて下さる封魔師様だよ、と、夫が言った。


「私、いつも穏やかですわ」

「……そうだね」


 ちらりとソファの隅を見て、夫が言った。

 ソファの隅では、私の赤ちゃんが縫いぐるみを抱いて眠っていた。


「お子さんをちょっと見せて頂けますか」


 と、封魔師様が言った。

 私は厭だった。


「眠っておりますので」

「何を飲ませたの?」

「ミルクです」


 と、私は答えた。

 封魔師様は私を押しのける様にして私の赤ちゃんの傍に屈んだ。

 一歩踏み出そうとした私の両肩を、夫が捕まえた。


「ミルクですか」


 封魔師様はそう言って、夫に頷いた。

 私は全身が一瞬にして凍る様な感覚に怯えた。

 何かが終わろうとしているのだと、感じずにはいられなかった。


 *


 その夜、私達の部屋に悲しそうな顔をした女がやって来た。

 何処からともなく入って来た女に対して、私の心は妙に静かで、不思議なくらいだった。

 人は同じ悲しみの前だと、素直になれるのかも知れない。


「私のです」


 私がそう主張すると、女は俯いて首を振った。


「貴女のじゃないわ」

『みつけた』

「私が見つけたのよ!」

『あなたのじゃない』

「貴女のでもないわ!」


 鏡と話しているみたいだった。


 ――――幸せそうなら諦める様に言われました。


 心の中に声が聴こえて来て、私は胸を押さえた。

 聴こえて来た声が、私の心を抉った。


「幸せよ」

『だれが』


 私は部屋を振り返って、ベビーベッドに寝ている赤ちゃんを見る。

 そしてふと思う。

 どうしてそんなに身体を折り曲げて眠っているの、赤ちゃん。

 どうしてそんなに頬が腫れているの、赤ちゃん。

 どうしてそんなに痩せているの、赤ちゃん。

 どうして、どうして。


 ――――眠り草の匂いでいっぱい。


 私は首を振る。女も首を振った。


「あなたなんかに渡さない」

『わたさない』

「私の赤ちゃんよ!」

『あなたのじゃ、ない』

「みんな滅茶苦茶になる!」

『もうなってる』


 女は私の肩を掴んで、乱暴に揺すった。私の頭はガクガク揺れた。


『もうなってる!』

「……」

『わたしも』


 女がポツリと言った。


『ごねん、まちがえた』

『かなしくて』

『とりかえしたくて』


 ――――普通でいたら、潰れそうで――――


 女はふわりとベビーベッドに近寄って中を覗き込むと、はらはらと泣いた。

 私はその涙を見て、ぺたんと床に座った。

 鏡だ。これは私の鏡。鏡が私を引き戻しに来たんだ。


 心のずっとずっと奥から、表に出てくる途中で切り傷をたくさんつくって、声が出た。


「この子に色々、教えてあげてくれる?」


 私が、出来なかったから。なんて事を。


 女は頷いてくれた。


「でも……私の事は教えないで……」

『ひきょう』

「お願い」

『はい』


 最後に抱かせて。

 そう言おうとして、止めた。

 女は、私をきっと許さない。だって鏡だもの。


「……名前を付けたの」

『……』

「その名前を使ってくれる?」


 女は頷いてくれた。


「出来ればお願い。殺して」


 今度は、女は頷いてくれない。


『ゆるさない』


 そう言って、カーテンを開けて、私の現身はあの子を連れて行った。

 あの子が行きたがっていたお外へ。


 *


 理性がなかったらと思った。

 それなら、心変わりに苦悶しなかった。

 私を祝福した人が嘘付きだったから、幸せになってはいけないと思った。

 私だけ愛を見つけるなんて。

 もたらされた死は罰だと思った。

 けれど、けれど、どうして?

 どうしてあの時、あの場所に希望が落ちていたの。

 取り上げられて良かった。本当に良かった。

 夫が私の名を呼んでいる。

 どうしてこの人は、私を。

 どうして私は、この人を。

 正しい心なんて何処にも無い。


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