世界と並行して駆けるもの
つるりとした平たい岩が、レースの様に重なり合っている海岸線に歌が流れていた。言葉の連なりでは無く、感情が連なったその歌は、潮風に吹かれるラナの心を魅了していた。
平たい岩の上に、美しい女が自身の翼の上に寝そべって歌っている。
金色の髪を潮風に揺らめかせ、真珠色の肌から月光のなごりの様な仄かな光を発している女は、羽毛に覆われた腿の先から、鳥の脚が生えている。太く鋭い爪が、昇り始めた朝日色に染まって滲む様に光っていた。
歌の心は朝の訪れを歓迎し、無邪気に喜んでいた。
さざ波の音が、声と心に混じって甘い潮の香りを湧き立たせ、朝もやとなっては白銀の朝日に消えて行く。
「セイレーン……」
段々に重なり合う岩の影で、ラナは天国の光景を覗き見ている気分で囁いた。
『美しいでしょう? 我々の源は』
時の妖魔が、どこか誇らしげにラナに言った。
ラナは頷くしかなかった。
幻の妖魔。全ての妖魔の糧。
ラナは口の中を湿らせ、唇を引き結ぶ。
「あれを退治すれば、アンタも滅びるってワケね。やり甲斐があるわ」
『魔力は直ぐには尽きないでしょう。でも、いずれは』
「私の子供にかけた呪いは、直ぐに解きなさいよ」
『ふふ、分かっていますよ』
ラナは余裕綽々な時の妖魔を憎々し気に睨み、本当なら今すぐアンタを退治してやりたい、と唸った。しかし、そうしたら呪いが残るのだと言う。ハッタリかも知れないし、カナロールに解呪の担い手が居るかも知れないが、取り返せない危ない橋を渡る気は無かった。
「アンタも助けなさいよ」
『わかってますとも』
その時、『だれ?』と、声が聞いた。
ラナも時の妖魔も、声の方を見た。
セイレーンが、上体を起こしてこちらを見ていた。
ラナは覚悟を決めて、岩陰から静かに出ると、セイレーンと対峙した。まだ表情が判らない程距離があったが、セイレーンが首を傾げたのは見えた。
『人間が、何の御用?』
声が耳元で聴こえて、ラナはゾッとしながらもゆっくり歩いてセイレーンに近付いた。歩きながら、額に手をやる。時の妖魔がふわりと浮きながら、彼女の横について来た。
『時を止めます』
「駄目よ。息遣いが無いと封魔出来ない」
『やれやれ。私も時を止めた相手は無理です。アンフェア過ぎるんでしょうねぇ……では、セイレーンだけ早めましょう』
「……そうして。上手く出来なかったら直ぐに止めてよ」
セイレーンは完全に立ち上がって、ラナ達が近寄って来るのをジッと見詰めている。蒼い双眸が、何故かキラキラと輝いていた。
微笑んでいる?
否、嗤って……?
ラナはセイレーンと目を合わせると、すぐさま額に手を当て封魔の構えを取った。セイレーンは微動だにせず、ラナを見詰めている。
ラナの額で、封魔の印が光った。足元の平岩の水気が、円を描いて一瞬で蒸発する。
ラナは強かった。どんな妖魔だって、彼女に敵うものはいなかった。
―――けれど、運が良かっただけなのかも知れない。
封魔が始まったのにも関わらず、ゆらりと立ちっぱなしのセイレーンをラナは見る。セイレーンを絡め捕ろうとする封魔の力が、上手くセイレーンに絡まらない。
『封魔師なのね……』
セイレーンが微笑んで、翼を広げた。大きな翼が風を孕んで羽ばたくとつむじ風が起きて、ラナは呆気なくよろめいた。すぐに体制を立て直し舌打ちしながら、出せる限りの自分の僕たちを出す。
ラナの出した牙や爪自慢の妖魔たちはしかし、セイレーンを見るなり戸惑いを隠さずに、ラナの命になかなか従わない。
「どうしたの! いきなさい!」
『おかえり。野にかえれ』
たった一言。
セイレーンのたった一言で、ラナの妖魔たちはラナの封魔を断ち切って、四方へ一目散に逃げ出した。
「な……!?」
『あなたも、おかえり。あなたの欲しいものを、わたしは何も持っていない』
セイレーンがそう言い終わる前に、時の妖魔が彼女の後ろから大きな針の様な剣で突きかかった。
『剣は薔薇』
時の妖魔の針の剣が、薔薇の花びらとなって散った。舌打ちをして、時の妖魔は時の狭間に瞬時に消えて、ラナの傍に現れ立つ。
花びらを髪や翼に散りばめながら、セイレーンが『時の妖魔』と、彼に声を掛けた。
『たった一人の、稀有なあなた。お友達だとおもってた』
『……まぁ、私共は似てましょうね。貴女も稀有なたった一人。貴女は世界を。私は時を』
『ご不満?』
セイレーンが首を傾げて時の妖魔の顔を見た。時の妖魔は深い気に目を細め、『ええ』と、応えた。
『貴女も、解き放たれたいハズだ。無理矢理組み込まれている摂理から』
『せつり……そう? あなたは神の御意思の囚人だと?』
『そうでしょう。私も貴女も、何かが途絶えねば死ねない。何かを背負い、何かに縛られ、何かの為に……うんざりだ』
時の妖魔の言葉に、セイレーンはクスクス笑う。
『あなたは悠久。わたしは世界』
『死ね。世界よ』
『欠けられない』
時の妖魔はそう言って、ラナを見た。
海の波が、セイレーンを庇い始めてゴウゴウ唸っていた。
『なにをやっている。早く封魔しろ』
「わかってる」
ラナはセイレーンを封魔する為に、意識を集中する。
セイレーンが、ラナの仕掛ける呪縛に美しい顔をしかめた。
『封魔師。あなたは何をしているのか、わかっているの』
「……何をしたって良い」
子供さえ、人間の時を取り戻せるなら。
『そう。憐れな……』
セイレーンはそう言うと、歌い出した。
ラナにはその歌が何か分からなかった。けれども歌を聴いては駄目だ。セイレーンの歌など! 急いで足を踏ん張って、封魔を掛ける。
歌が止まり、感情を計れない蒼い瞳がラナと目を合わせる。
力のせめぎ合いが始まった。ラナはホッとする。セイレーンを、封魔の手前に引っ掛ける事が出来た。
これからどれ程睨み合いの時間がかかるのだろう。だけど、時の妖魔がいる。時の妖魔はセイレーンがラナの封魔に歌を止めたのを見ると、すぐさまセイレーンの時間を早め出した。
時間の進む分だけ力が不要な訳じゃない。必要な分の力は結局使わなくてはいけない事に早々気が付いたラナは、冷や汗をかいたが直ぐに精神面では救われている、と、気持ちを立て直した。
―――やれる。やれるわ。
ラナは手ごたえを感じた。けれど、セイレーンの表情に焦りは無かった。
元々、そういった感情が無いのかも知れない。
ラナは力を振り絞る。彼女の天性の勘が、今だ、と告げて、額から徐々に手を離し手のひらを地面に向けて振り下ろす。そのなんと重たい事か。見えない力が押し上げて来る。押し上げて来る力からは、『抗う』意思を感じない。必死さが無い。ラナはそれに歯噛みした。―――まだ、余裕がある!?
セイレーンが翼を羽ばたかせる。大きな翼は朝日を受けて採光を散らし、潮風を受けて悠々と揺れる影を作る。神々しい、圧倒的な存在感にラナの心は震える。手を出してはいけない相手だと、分かってはいたのに、今更。
対するセイレーンは封魔の呪縛の中で、長年探していた一節を見つけた様な顔をしている。
『これが封魔』
「……」
『わたしと反対なの』
魔力を生み出す者と、封じる者。そういう意味だろう。ラナは頷いた。
『カナロール王はお元気?』
「……?」
『今は、何代目なの?』
ラナはセイレーンの質問に困惑して、彼女の瞳の奥を見る。
蒼く輝く瞳には……底知れない熱があった。
『わたしたちは、お友達なのよ』
翼が再び羽ばたいた。―――またつむじ風だ。ラナの足が、地面から浮いた。
『少しゆがんだ、お友達』
「時の妖魔!」
岩場に転倒したラナが、助けを求めて叫んだ。
時の妖魔がセイレーンの頭上から現れ、空中から地面へ着地する動作の中で彼女の髪を掴んで引き倒した。
彼は害虫を見る様な目でラナを睨み付けた。
『使えない封魔師め……まぁ仕方がない。こうなったら転生まで速めてやる』
時の妖魔はそう言って、セイレーンの胸に片手を当てると、大小二本の光る針が、彼女の胸の上に急速に回り出した。
『波よ、風よ』
セイレーンがうたい、波と風が応えた。
時の妖魔は波に撃たれ、突き刺す様な風をよろめきながら躱すと、ラナの傍にシュン、と現れる。
「転生?」
『セイレーンは、寿命が来れば転生して生まれ変わるのだ』
時の妖魔は、少し羨ましがっている様に見える。彼は一度も、そういった経験が無いからだ。
『ククク……転生したては、赤子も同然だろう』
『やめて』
セイレーンが起き上がり、時の妖魔に首を振った。彼女の胸の前で光る二針は、目に留まらぬ速さでグルグル回っている。
『楽しみだ……魔力が枯渇し、自分の死ぬ日が』
『違う。間違ってる。あなたはたくさんの事を見過ぎて、少しの事しか見えてない』
ハハハ! と、時の妖魔が勝利に酔った笑い声をあげた。
『死ね! 私が後を追ってやるから』
『ああ……封魔師。逃げなさい』
時の妖魔を見限った様に、セイレーンがラナに呼びかけた。
ラナは首を振る。
『生まれたてのわたしは、子供よ』
『そうだ! 何度も見たぞ。子供のお前を!』
武者震いし、口の端に泡を飛ばしながら時の妖魔が喚いた。彼は恍惚の中にいた。目には狂気が宿り、唇は狂喜で醜く裂け歪んでいた。
セイレーンの身体から、光の靄が立ち上がって輪郭がぼやけていく。彼女の胸に光る針が、踊り狂う様にガタガタ円を描いて回る。
ラナはその様子を見て、自分の息子の姿と重ねてしまい、ゾッとした。
どうしても倒さなくては。私の息子を、こんな目から早く救わなければ。
セイレーンが形の良い眉をしかめ、時の妖魔を見た。瞳には諦めがあった。
『……あなたは見ただけ。あなたの中には、見ただけのものだけ』
〽
果てなき全うを
あわれんだ
時のねじれ
あなたは
それでも終われない
永久に世界と並行し駆けるの
わたしの贈る
運命のうたで
何度でも こんにちは
それが、その代のセイレーンの最後の歌だった。歌には時の妖魔への呪詛と、世界への祝福が含まれていた。
* * * * * * * *
ぼうや、ぼうや。
お母さんは、お母さんという生き物に相応しくない、小さな罪がたくさんあるの。
あなたもいつか、そうなるわ。
その時、お母さんを理解してくれる?




