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セイレーンは狼と終わりをうたう  作者: 梨鳥 
ラナとアガットとアイリーン
93/143

痛みの合間に



 ごめん。ごめんね。

 あんな軽はずみな事を私がしなけりゃ、私達は本当にまっさらに綺麗な……。

 ねぇ、そうよね? そうよね?


 *


 アガットが家へ帰って行くのを見送って、ラナは再び揺り椅子へ腰を降ろした。おかしな手紙はカーペットの上に開かれている。

 アガットはラナに、手紙も手紙の内容も、ましてやその差出人も相手にしてはいけない、と念を押して帰って行った。その言い方には静かな迫力があって、その顔つきには厳しさがあった。アガットは、たまにこうなのだ。大抵その厳しさに導かれて来たラナだったが、時折、アガットが自分の味方では無い様な、そんな気がしてしまっていた。

 それは彼女の時折見せる厳しさを盾にとって、別の側面から蓄積され続けていた。

 例えば、何かを一緒に喜んだり悲しんだり―――感情を共にしたい時に、壁が無い時とある時があったり、日によってラナへ対する態度がよそよそしくなったり、それにしょんぼりしていると、翌日には目一杯彼女を甘やかしたり、といったおかしな部分がアガットにはあった。

 けれども、極稀に起こる事柄だったし、いつも自分の為に力になってくれる彼女の部分の方が大きくて、ラナは唐突な不調和からそっと目を背ける。

 原因を探り、解消しようと意気込んだ時もあった。本当は、目星はついていた。しかし、それはラナにはもう、どうする事も出来ない事だった。口に出してアガットに言えば、たちまち築いて来た関係を壊してしまいそうな、そんな繊細で危うい、たった一瞬。たった一言が、二人の間で厭な音を立てているのだ、と、ラナは考え、触れずに、恐れ、悔やみ、苦しんだ。

 ラナはパンパンに膨らんだ腹に触れる。

 間も無く、中の命はラナの胸に抱かれ、育っていく。ラナとその命の傍には、アガットが常に控える事だろう。アガットが赤ん坊をとても楽しみにしてくれている事を、ラナには疑えない。


 ―――でも。


 ああ! 生まれて来る、ディンの生き形見と、私達の幸せな日々の合間に、小さな怯えを挟みたくない。私達は、一つの完璧な、家族になりたい。アガット、どうしたら……?

 貴女が居たら、完璧にならない。でも、貴女が居なくては、やはり完璧にならない。寂しくて、胸が張り裂けてしまうわ。その時、誰が私を叱咤して立ち上がらせるの? 貴女をガッカリさせ、失いたくないと前進する私の道標は?

 分かってる。分かってる……こんなのは依存だわ。お腹の子に、なんて思われる?

 ラナは苛立った。そして決めた。部屋を出て行ったアガットの、厳しい表情を思い出し、反抗的な気分でカーペットの上に放置された手紙に呟く。

 逆らう時が来た、と、自分に言い聞かせて。


「出ていらっしゃいよ」


 ピクン、と傍らに控えていたアイリーンが長い耳を動かした。いけない、と、ラナを制止する様に、アイリーンは彼女の手に触れる。揺り椅子のひじ掛けに、しがみ付く様にしてギュッと力が入れられた固い手を。

 ラナは咎める様に瞳を瞬かせるしもべを気にせず、手紙を睨む。


「全てを観て来たなんて。悪趣味ね」


 我慢が出来ない。自分以外が、自分の暗い部分を見抜いている事に。自分は国一番の封魔師であるというのに、事もあろうに妖魔が私の―――。


 アイリーンが毛を逆立てて「キィ」と甲高く鳴いた。

 手紙が、窓も開いていないのにカサリと揺れ、真っ白に輝き出した。そして、前方から後方へ、ゆったりと流れる様に声がした。


『好き好んで観るワケでは……』


 ラナは目を細め、腹を邪魔に思いながら足を組んだ。


「姿を見せなさい」

『突然封魔させたら困りますな』


 声は低くて甘い男の声だった。恋を知らない少女なら、この声にうっとりするのかも知れない。けれどラナは恋を既に落とした妊婦だ。声に含まれる色男成分など、身体が受け付けない。ゾッとするだけだ。


「ハ、見ての通り、今の私は身動きの鈍い妊婦よ。あんたを封魔するのに踏ん張ったら、破水しちゃうかも」


 クック、と低く笑う声が流れた。


『腹の中の時は、満ちております。早いか遅いかの違いでしょう』

「そ? それは安心ね。楽しみだわ! とにかく、出て来なさいよ。話を聞かせて」

『手紙の内容、気に入って頂けましたか?』

「腹立たしいけど、魅力的だと思うわ」

『では』 

「幾つか確認させて」

『お幾つでも』

「まず、姿が見たい」


 諦めた様に溜め息が流れ、手紙が急に白い炎と化して燃え上がった。白い炎は部屋の天井まで燃え上がり、火の揺らめきの輪郭を一人の男に変えるとパッと霧散した。カーペットに火は移らず、白い腰布を巻いただけの、美しい男が片膝を突いてラナの方を見ていた。

 長い白髪を炎の様に揺らめかせて、送り付けて来た手紙の封印の様な放射線状の秒針を、赤黒い黒目の中に蠢かせている。


「人型になれるの」

『元々、人型です。そもそも、そう呼ばれる類の私どもが先で、人が私共を模しているのですよ』

「どうでもいいわ。ますます油断できないって判った」

『まぁ……そこはなんなりと』

「あんたは、時間に関わる妖魔?」

『はい。時の妖魔です。呼び名は沢山ございますので、お好きなように』


 時の妖魔は恭しく首を垂れる。白髪が、ゆるゆると彼の端正な顔に覆いかぶさった。ラナは頷いて、彼に声を掛け顔を上げさせると、自分の腹を撫でて見せた。


「予言して見せてよ。この子は男の子? 女の子?」

『男の子です』


 時の妖魔は即答して微笑んだ。血の気の無い悪魔じみた美形だったが、割と親しみやすさを感じる微笑みだった。


「男の子か……」

『封魔師になります』


 頼んでもいない予言をして、時の妖魔は付け足す。


『妖魔の私にはゾッとする程優秀です。憎らしい程です』

「……そう」


 元気に産まれて育てば良い。ラナはそう思い、時の妖魔の熱の籠った予言を聞き流した。ラナは数年後、数十年後の息子の姿に思いを馳せる。

 そうか、男の子か。ディンに似ているかしら?

 ディン。男の子だって。

 鼻の奥がツンとなった。

 ラナは時の妖魔に質問を続ける。


「どうしてセイレーンを?」

『時がこの世界で永遠な様に、私も不死なのです。しかし』

「魔力が世界から尽きれば、或いは?」


 ニタ、と、時の妖魔が笑った。


「どうして死にたいの?」


 時の妖魔は肩を竦める。如何にも低レベルな質問だとでも言う様に。


『永遠を突き付けられれば分かりますよ』

「……手紙に書いてあったけれど、本当に私以外では無理な話?」


 ラナには封魔師として、自分の力に自信がある。けれど、どれ程時を遡っても、どれ程時を突き進んでも、自分が一番? それは少し、信じがたい。


『どの世にも、貴方程の力の持ち主はおりません。過去にも、未来にもです』

「それはあんたしか分からない事よね。あんたは夫を亡くした可哀想な未亡人封魔師が、時の巻き戻しに喰いつくと思って、適当を言っているのかも。なんにせよ、私より強い封魔師はいるわ。王族よ」

『そこに頼めたら貴女になど……おっと失敬……』


 大して慌てていない様子で、時の妖魔は片手を口に当てる。


「やっぱり王族は怖いワケね」

『当たり前ですよ。妖魔以上の化け物ですからね』 

「へえ……で、私にはセイレーンと相手させるってワケ」

『貴女なら出来ます』

「その未来は見えているの?」

『いいえ。まだ起こっていないので』


 ラナは眉を寄せる。


「可笑しいじゃない。未来も視えるんでしょ?」

『これからの事に関しては、起こってからでないとわかりません。貴女が行動しない限り、まだ無の未来であり、神の想定外だからです。神の想定外を、たかが妖魔の私が視る事が出来るとでも? ですが、私は時の妖魔です。本来無い未来へレールを切り替えるのは、時を司る者として常識外れな禁忌ではありますが、やってみたいのです。死にたい』

「神」


 神なんているのだろうか? もしもいたとしたら、既にこのやり取りは見透かされているのではないだろうか?


『さて、封魔師様。あらかた謎は解けたでしょうか』

「……」


 ラナはジッと時の妖魔を見た。時の妖魔もラナを見返した。彼は少し焦れて来ているのか、身振りを大きくしてラナに語り掛ける。


『貴女の、取り戻したい時間へとお連れします。例えば、あの日(・・・)旦那様がお出かけになったあの玄関先まで……』


 ラナは時の妖魔の言葉に目を閉じる。玄関のドアから入る光で、ディンの姿が影になり、それでも彼の顔はきっと微笑んでいて―――。ラナは「いってらっしゃい」と、手だけ振った。お腹が大きくなり始めた事に慣れなくて、立って彼の元へ行くのが億劫で……。

 でも帰ったら、彼は自分の元へ来てくれて、そしてラナは、お帰りなさいと言って彼にキスをするのだと……。


 でも、ディンは玄関を出たきり帰って来なかった。王都の外の村へ出かけたまま、途中で妖魔に襲われて命を落としてしまった。

 一月後、その村からラナの元へ揺り椅子が届けられた。

 あそこへ戻れる? だとしたら、何としてでも、ディンを玄関から出さない。揺り椅子なんて要らない。


「……本当に時を越えられる?」 

『私は時の妖魔です。封魔師様、首を縦にお振り下さい。私には、時間が無い』

「は?」

『神の時間を、止めているのです』


 ラナは深く息を吐く。成程、周到な妖魔だ。そして、本気だ。


「……何時から何時まで、神様の時間を止めているの?」


 時の妖魔は顔を伏せ、白髪で顔を隠した。しかし、隠し切れない唇はニヤリと歪んでいる。


『三日後までです』

「な、早いじゃない!!」

『それ程、神のお力は凄まじいのですよ』

「でも……」


 三日では話にならない。赤ん坊は時の妖魔曰く「時満ちて」いるだろう。しかし、いつ生まれるかは誰が決められるものでも無い。もしも今夜産んだとしても、ラナの身体がもたない。

 思わず庇う様に腹を抱くラナを見て、時の妖魔は笑った。


『大丈夫。貴女の時を、少しだけ早めれば』

「何を言っているの?」


 ラナがハッとして時の妖魔を見ると、彼の顔は残酷そうに笑んでいた。ラナの横で目をギラギラさせていたアイリーンが、時の妖魔へ奇声を上げて飛び掛かる。


「アイリーン!」

『おっと、私は攻撃の術を持たないのですよ。なので手荒な真似は止して下さい』


 時の妖魔は飛び掛かって来たアイリーンからサッと身を翻し姿を消すと、全く別の位置に現れて笑った。

 アイリーンは「ギーッ!」と甲高く鳴いて、ラナの前に立った。

 髪を逆立てる彼女の周りに、色とりどりの燃え盛る小さな星が現れて、部屋中を熱く明るく照らした。星は焦れた様に、一つ二つと破裂しては、熱を吹き出し火の粉を上げる。


「アイリーン、駄目! 館の中よ!」


 アイリーンを制止しながら、ラナも仕方なく額に手を当て、封魔の構えを取った。相手は結局のところ野放しの妖魔だ。そして頭も口も回るとくるのだから、相手にし過ぎた、と、ラナは腹立たし気に思った。―――余りにも、誘いが魅力的過ぎて―――。


 ラナは標的を見据える。

 しかし、的は既に時の中に消え、ラナの次の瞬間に突如現れてポン、と彼女の腹に手を置いた。


『ハハハ、本当に動きが鈍い妊婦の封魔師ですね?』

「猫被ってたってワケ……」


 ラナの睨みに、時の妖魔は微笑んで唇を歪めた。


『貴女には、実のところ選択権が無いのですよ』

「―――! やめて」

『さぁ、生み落としてしまいなさい』


 ラナは、脚の間をぬるい水が伝う感覚にハッとする。

 アイリーンが髪を逆立て、普段の穏やかな形相を獣の様に変えて噛みしめた歯の間から霧の吹き出す様な音を出した。


『動くなそらの妖魔! お前の主を殺してしまうぞ』


 水はゆっくりとラナの脚を伝い、カーペットに染みた。


「あ……? ああ……」


 よろめいた拍子に、ドッと滝の様に桃色の水が零れ落ちて、あっと言う間に生ぬるい水たまりが出来た。

 アイリーンがつんざくような憤怒の叫び声を上げて、夜空の瞳から真っ赤な細かい星を頬に伝わせ、膝を突き、顔を覆った。彼女を囲っていた燃える星が、すみになって転がり、カーペットを焦がす。


『ふふ、私は礼儀正しい妖魔だったろう? おかあさん』

「やめて……やめ……ッ! ああ!!」


 ラナは力を振り絞って時の妖魔からもがいて離れたが、やって来た未体験の強烈な痛みに、結局水たまりの中に蹲った。


『十時間近く掛かると言うから、時を速めてあげますよ』


 脂汗をかいて蹲るラナの傍にしゃがみ込んで、時の妖魔は彼女の髪を撫でた。


『本当はあっと言う間にしてあげれるのですがね。人間は自然分娩が好きな様ですからね。時間が途轍もなく惜しいですが、そうさせてあげます……私にも情けがあるんですよ』


 時の妖魔の戯言は、ラナの耳には届いていなかった。ラナは襲って来る痛みに、歯を喰いしばっていた。

 ラナはディンと約束していた。陣痛に泣き叫んだりしないと。

 それはラナが言い出した一方的な約束で、むしろ強気な宣言だったけれど……。

 ディンは強がるラナに、こう言った。


「じゃあ僕が君の手を握って泣き叫ぶよ」


 その声が聴こえた気がして、ラナは目を開ける。

 涙が幕を張って、何も見えない。

 痛みの波が引いた安堵の幻聴だったのだ。代りに、アイリーンのヒュンヒュン鳴く声が聴こえる。


 アイリーン……アガット……。


 小声で名を囁いた。縋る様に。

 そして、また押し寄せる痛みが来て、ラナは歯を喰いしばる。

 どんな態勢でいれば良いのか解らない。あんなに、出産時について勉強したのに。どうしようもなくて四つん這いに屈みこみ、痛みに翻弄された。

 そしてまた痛みが引いた時、眩む視界の中に、自分の薬指にはめた指輪が光っているのを見た。

 夫と自分の名が彫ってある結婚指輪だ。


 ディン。どこにいるの?


『苦しそうですね。でも、もうすぐですから』


 揺り椅子の方で、時の妖魔の声がした。揺り椅子の軋む音もして、ラナは激しい怒りを覚えたが、やって来た痛みに感情の全てが奪われた。今までで一番強い。

 ラナは身体を支える力を出せなくて、横倒しに倒れ込む。身体をクの字に曲げて、浅い息を吐いた。

 絞る様な痛みに怯え、心細くて伸ばした手に、柔らかい肌触りの布が触れた。夢中で握りしめる。

 次の予兆を残したまま痛みが消えて行き、ラナは布で涙をぬぐった。そして晴れた視界で、それを見た。

 アガットが用意した、黄色い涎掛けだった。


 オレンジの刺繍……。

 アガット……男の子だって。

 ピンク買わなくて、良かったね。

 ああ、来る。痛みが。


 ラナは涎掛けをギュッと握る。


 ―――負けない。


 赤ん坊がこれから私達にもたらす希望に比べたら、痛みなんて何だと言うの。

 上手く逃がすの。出来るハズだわ。

 ラナは痛みの深さに合わせて、息を吐く。



 * * * * * * *


 ホラそうすると、痛みの中、自分が見える。

 そして痛みと痛みの合間に、愛が微笑んでる。

陣痛は突然激痛にはなりません。

時の妖魔に三倍速くらいにさせられています。

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