ツボ
寄せては返す波打ち際に辿り着くと、彼女は黒い沖の方を見据えて、ふ、と浅い息を吐いた。
風で顔に纏わりつく髪を払い、見えない視線の先にある孤島を想う。
ねぇ、二人っきりになりたいって言ったのよね。私。
なってみたかったの。本当の、二人きりに。
彼は地図を持って来た。
彼女は驚いた。だって、ほんの思い付きを口走っただけだったのだ。だから彼の部屋でも良かったし、父のいなくなった自分の家でも良かった。そしてそれは日常になりつつあったというのに。
まさか地図を持って来るなんて!
嬉しくて嬉しくて、暖かくて優しい腕に絡みつきながら、一緒に地図を眺めた。
彼の指は大陸の外へと地図をなぞり、彼女は胸が躍った。
海の中に、小島がポツポツ描かれていた。
小さく笑い声を上げて彼の方を見れば、微笑みと共に口づけられて、何処かに行かなくとも二人は二人きりなのだ、と、彼女は気付き、目を閉じた。
しかし、今は目を開けなくてはいけない。
ジッと沖を見ていると、白い妖魔が一頭泳いで来た。
一頭。
彼女は目を細める。
毛足の長い妖魔は、たっぷり海水に濡れて、彼女に悲し気に寄って来た。彼女は妖魔を優しく受け入れて、濡れた長い毛を手で梳いてやった。
「間に合わなかったの……? あの人より早いと思ったのに」
白い妖魔の巨体は、不規則に震えている。
「それとも、間に合ったの?」
用事に間に合えば……。
帰って来ない五頭を惜しみつつ、彼女が小島のある方向へ視線を光らせた時だった。
白い妖魔の身体が縦に裂けた。
「!」
噴き出る血を浴びながら、彼女は目を見開いた。
裂けた肉塊の中から、蝙蝠の羽を生やした真っ黒なネズミが大量に飛び出し、耳障りな奇声を上げて海の方へ飛び去って行った。
「……」
「……そう」
「そう、いいえ。イヤよ」
「でも」
「いえ、イヤよ」
「……どうして」
「……だったら」
「どうして?」
彼女はいつもそうなのだが、誰にも答えを求めず一人呟き続けた。
答えなど、そんな残酷なものは要らなかった。
*
アシュレイに手を引かれて洞窟を出ると、ラルフがすぐさま寄って来た。彼は彼女の見た目など目に入らないのか、彼女に鼻先を擦り付けようとした。
「ははは。ラルフ、洗ってからね。あ ら っ て か ら !」
アシュレイはラルフにライラを触れさせない様に、彼の大きな頭をグイグイ押し返した。
『再開シーンさせろやコラ』な、ラルフに『いい加減にしろよ、君は馬だ。蚊帳の外で出番だけ待ってろ』とアシュレイは頑張ったが、ライラがラルフに歩み寄って彼の頭を撫でたので、結局蚊帳の外になった。
「ラルフ……」
一体、海をどうやって来たのだろう? と、ライラは思ったが、今はそれを考える余力は無かった。
ただ、彼の茶色い艶やかな毛並みに心が穏やかになった。
目を細めてライラにすり寄るラルフに、アシュレイが割り込んだ。
「ほら、ライラ。血を流そう! ラルフについちゃうし!?」
「きゅ……、う、うん……」
ラルフを汚してしまうのは不本意だ。だから、ライラはアシュレイに素直に従った。
「ねぇ、ダイアナは……?」
ダイアナの姿が無い事に、ライラは直ぐに気が付いた。
アシュレイが気まずそうに、「あー」と声を上げて、鼻の下を擦った。ライラに触れた時に指先に着いた血で、彼の鼻の下が赤くなった。
ライラはアシュレイの様子に頭の上の耳を伏せ、「きゅん」と鳴いた。思わず出てしまうので出さない様に意識しているのだが、我慢出来なかった。
アシュレイもそんな彼女の様子を見て、なんか我慢できなくなる。
「ね、ねぇ、その……『きゅん』って最高にきゅんってなるんだけど、イメージチェンジ的な試みなの?」
ライラは頬を赤らめて手で口を覆った。
「ど、どうでもいいでしょ!?」
「どうでも良い事あるか!! 思わず出しちゃうとか最高。可愛い。可愛いよライラ!! その耳どうなってるの? 全体的にどうなってるの? アレだよね? 元々分かりやすかったけど、耳と尻尾があるって事は、もっと気持ちが解りやすくなるって事だよね!? ……っ神様ありがとう!!」
「あんたね……引っ掻くわよ」
ライラが尻尾を膨らませて牙を剥いた。
本気で少し怒れて来る。
だって、こんな姿になっちゃったって言うのに……。
どうしてそんなに平気な顔してるの? どうでも良いみたいに。そりゃ、あたしの事なんて、どうでも良いのかもしれないケド……。
「あ、こわい……。ちょ、神様、可愛さは上げても良いけど、怖さは上げないで……」
「もうっ、ふざけるな! ダイアナは? ダイアナは来なかったのね?」
「ううん……ダイアナは……その……」
ハッキリしないアシュレイに、ライラは青ざめて詰め寄った。
「何か悪い事が起こったの!?」
「違うよ、ええと―――恋に落ちた? とかそういう感じ?」
「……え?」
「お、落ちてた……とか」
「だ、誰と!?」
それは聞かない方が良いんじゃないかな、とアシュレイは苦笑いして、「そりゃ、王子サマだよ」と答えた。
波打ち際に着いたので、彼は岩に座ってブーツを脱いだ。ズボンをたくし上げて、ザブザブ海へ入って行く。
「なによ、要するにあんたもダイの相手がわからないってワケ?」
「……えへへ。ずっとカナロールにいるからって。どちらかの場所が分かってれば、二人はずっと一緒だって、言ってたよ」
「……そう……」
―――あたしより、王子サマか……。
ライラは僻みっぽい気持ちになって、俯いた。
―――そりゃ、そうだよね。……良かったね。ダイアナ。
この姿も、彼女に見せる事にならなくて済んだ。良いじゃないか。ライラはそう思って、足元の砂を小さく蹴る。
「ライラ!」
アシュレイがライラを呼んだ。ライラの頭の上の耳は、その声にぴんと反応してしまう。
顔を上げると、膝まで海に入ったアシュレイが、彼女においでおいでと手招きしていた。
ライラは喉を片手で締める。揺れない様に、ギュッと尻尾に力も入れた。
緩い微笑みから目を逸らして、ライラは海へ、ちゃぷんと足を入れた。波が足首に纏わりついては引いて行く。波の引いて行く時の寂しさの先に、アシュレイがいる。ライラは追いかけている気分で、彼に近寄った。
いかないで。そこにいてね。
「服はもう駄目だね」
「……ああ、うん」
近づいたライラの手を取って、アシュレイが言うので、ライラは頷いた。服はあの白い毛むくじゃら達の牙に掛かって所々無残に破れ、血に染まり切っていた。
「僕、君に服買って来たんだ……むふ、こんなに早く役に立つとは思わなかったケド、ちょっと待ってて!」
セリフの途中の「むふ」が気になったけれど、服があるならありがたい。ライラは頷いて、なにやら楽し気に岸へ戻るアシュレイを見送った。
アシュレイはラルフの背に積んだ荷袋をゴソゴソかき回して(その間ずっとラルフに髪をもしゃもしゃされていた)、服らしき布を引っ張り出すと、畳みながら戻って来た。
どんな服だろう、とドキドキしてライラは彼に寄って行き、一旦海から出た。
「はいっ。身体拭く布もあるからね」
「あ、ありがと……」
「後で、真水で濡らした布で仕上げると良いよ」
ジャーンッと小さな布と水筒をライラに見せて、それらを適当な岩の上に置くと、ライラの手を引っ張って再び海へ入って行った。
なんかアシュレイ、ウキウキしてる……?
ライラは訝しんだ。何処を訝しめば良いか分からないけれど、彼がウキウキするとなんか怪しい。彼女はアシュレイの今までの経緯を知らないので、仕方がない事だった。アシュレイは彼女の思う通り、俄然ウキウキしていた!
「さ、ライラ。服脱ごうねっ」
「あ、うん」
「じ、自分で脱げるかい!?」
「ん……大丈夫」
「……え」
ライラはボロボロに汚れた服をサッサと脱いで、海にポイと捨てた。
―――下着はどうしよう。と言うか……なんでこんなの着けてたんだろう? ……いいや、下着も気持ち悪いし、捨てちゃえ。
服を纏わない気分の良さに、ライラは下着に手を掛ける。
―――ふー、これで楽になれる……。
ふと視線を感じてそちらを見ると、アシュレイがポカンとしていた。
ライラは首を傾げる。
「なに?」
「イヤ、あの……良いのですか?」
「は?」
「良いなら良いのですが、僕は本意中の不本意と言いますか……」
「何言ってるかわかんない。もっと簡単に言って」
ライラにそう促されて、アシュレイは拳を握り吐き出す様に言った。
「恥じらって欲しい!!」
ひときわ高い波が、何処かの大岩にぶつかってバシャーンと弾けた。
「え」
―――恥じらい?
「なんかこう、無理矢理させられました感が欲しい!! 厭々脱いで欲しいんだ!!」
―――イヤイヤぬぐ?
「ライラ、どうしちゃったんだ!? 君が僕の前で簡単に下着になるなんて、そんなのあり得ないよ!? それとも何? 僕が空気っていう苛めっぽい設定状況なの!? だったら……そうじゃないよ! 君は完全に僕のツボをはき違えている!!」
絶叫に近いアシュレイの訴えに、ライラはハッとする。
―――そうだ、あたしってば、どうして裸の方が楽なんて……!!
絶対にこの耳と尻尾のせいだ、とライラは確信した。
「きゅん」が出てしまうのも、アシュレイに尻尾を振ってしまいそうになるのも、絶対これのせいだ。
隠さなければ……? でも、今更……? ううん、「今更」とか思う時点でダメなのかも!?
一応、ぎこちなく胸元を両手で覆ってみた。
「うん、それ。でもなんかそういう無理矢理感じゃないっていうか、う~ん……いずれこれも僕の何処かにハマるのか……?」
「な、なに? どうしたら……?」
「ちょっと待って、熟考する時間がいると思うんだ」
「取りあえず身体洗いたいから、裸見るのが嫌ならあっち行っててよ」
「あ、違うよライラ! 裸を見たくないんじゃなくてね?」
「もう面倒臭い!! あっち行け!!」
「……あ! それ!! それだよ!!」
パッと顔を輝かせたアシュレイをグイグイ押して、海から追い出すと、ライラは岩の上に置かれた新しい服と布を持って、彼から見えない所へ駆けて行った。




