全てがうた⑦
罠かもしれない。
でも、それでも良い。
このやるせなさを、鎮めてくれるなら。
真実なんて俺にはわからない。
* * * * * * *
食堂ではとても良い匂いが漂っていた。
ダイアナはあれこれと出て来る料理を想像して、勧められた席に着いたが、並べられたどの料理からも、期待を促した匂いは立ち上がっていなかった。
どうやらこの良い匂いのする料理は、自分には出されないのだ、と舌打ちしたい気分だったが、久方ぶりの食事だったのですぐさま気にせずに食事を楽しむ事にした。
ふわふわのパンにはクルミが入っているし、暖かいスープは薄口だけれど具沢山だ。卵のオムレツには刻んだハムが焼き込んであってとても贅沢だし、薄皮から香辛料の粒が透けて見えるソーセージときたら、憎らしい位だ。生野菜はお腹を壊した記憶があったのだけど、彩りに惹かれて触手が伸びた。―――あんな顔の白い男が食べているのだから、自分だって大丈夫に決まってる。
テーブルに出されたものをペロリと全て平らげた。
召使いたちが嘲笑の様な、非難の様な目を自分に向けたのに気付きつつ、ダイアナは剥かれた様々な果物を味わって、「食後のお茶はどうなさったの?」と聞いてやった。
渋々出されたお茶はぬるかったけれど、砂糖が溶けない程じゃない。ダイアナは嬉々として砂糖をガバガバ入れて飲み干した。
「流石に口の中が甘いわ。ちょっとー、もう一杯!」
「ここは酒場じゃないぞ」
ティーカップを片手でヒラヒラさせるダイアナに、ようやく物申す者が現れて、召使いたちは安堵し、瞳を一様にキラキラさせた。
不機嫌そうにダイアナに言ったのは、アシュレイとリリスを連れたカインだ。
我らがご主人様がようやく現れた、と、食堂の空気が一気に桃色に染まって、召使いの一人が彼の席の椅子を引く。
カインは手を上げ無言で首を振り、彼女達をいたくガッカリさせた。
「お腹いっぱいになった?」
背の高い彼の後ろから、ヒョイとアシュレイが顔を出してダイアナに笑いかけた。部屋を出て行く時の、あのぎこちない空気はもう、彼には無いようだった。彼以外は、少し暗い表情なのに気付きつつ、それに付き合うつもりの無いダイアナは微笑んだ。
彼女は頷いて、お腹を撫でて見せた。
「いっぱいよ。ご馳走様!」
「じゃあ、早速で悪いけど、ライラが待ってるから行こう。荷物は―――無いよね? あ、そうだ。カイン、食べ物をたくさんちょうだい」
「―――は?」
アシュレイは大袈裟に上半身を屈めて、カインに上目使いで訴える。
「僕もお腹が減ってるんだ……僕を待ってるライラだって、きっと今頃……なんて可愛そうな僕達!」
「……じゃあ、お前は食べて行け」
アシュレイを引き留めたいのか、カインが自分との食事に誘ったが、アシュレイは、
「イヤだ! お腹を空かせてる娘を満腹で迎えに行けっての?」
「ダイアナちゃんは満腹みたいよ」
リリスが悪意無く言って、ダイアナは苦笑いする。『だって……食堂へ行けって……!』
「女の子は良いんだよ」
「ふぅん……」
謎の見解をドヤ顔で発したアシュレイに、リリスは感心した様に頷いた。何やらヘンテコな「ツー」と「カー」だ。
この二人の間では、カインは浮くに決まってるわね……。
ダイアナは「なにがどうなんだ?」という様な戸惑い顔のカインをコッソリ不憫に思った。
アシュレイは主人のカインを差し置いて、厨房を覗き込み何やら注文を付け始めていた。
*
かくして、アシュレイは自分とライラ分の食糧を確保すると、ダイアナを連れ、カイン邸を颯爽と出て行った。
門をくぐる際、渋々な顔で見送りに来たカインとリリスに「じゃあね」と、微笑んだ。
カインは美しい瞳に憂いを湛えて、静かに頷いた。ダイアナにはその様子がとても寂しそうに見えた。
「三人、バラバラね」
リリスがポツンと言った。カインが、その言葉に傷付いた様に俯いた。アシュレイは、……やっぱり微笑んでいた。
「二人はバラバラじゃなくても良いじゃない」
アシュレイがそう言うと、すかさずリリスが返した。
「なるわよ。―――なるわ」
「……じゃあ、勝手にそうなれば良いよ」
アシュレイはもうリリスの方は見ず、耐える様に黙っているカインの腕にポンと触れて、「ゴメン」と小さく呟いた。そして、何かを断ち切る様に踵を返す。その背に、カインが小さく「元気で」と言った。傍で成り行きを見ていたダイアナも、二人にペコリと頭を下げて、アシュレイに続いた。
*
「もう、会わないの?」
横に並んだダイアナから、彼女のいない方向へ顔を向けているアシュレイに、聞く。
「そうだね」
少し掠れた声が返って来た。
「……二人とも、貴方の事とても好きみたいだった」
「『みたい』なだけさ」
ダイアナは驚いてアシュレイを見る。朗らかなだけの男だと思っていたのだ。彼は相変わらず、何処か遠くを見ている。
「そんな事無い」
「ねぇ! それより、ライラって何色が好きかな? 好みのタイプとか知ってる? 何にきゅんと来るとか、ダイアナなら知ってるでしょ?」
「……ええと……」
触れるな、と言う事だろう。ダイアナは追及を止めた。けれど、心は自由だ。
誰の為かしら?
誰の為に、アシュレイは二人と別れるのだろう。
ライラ? カイン? リリス? ……自分?
皆バラバラだ、と、リリスが言った時のカインの顔を、誰も見なかったのだろうか。勝手になれば、と、アシュレイが言った時のカインの顔も、誰も見なかったの?
「元気で」と、小さく言った彼の顔も……。
どんどん進み、角を曲がる頃、ダイアナはカイン邸を振り返る。
カインが一人、こちらを見て立っていた。
リリスの姿はもう既に無かった。彼は一人、アシュレイの背を見送って、立っているのだった。
どうして、誰も彼を。
胸を突かれて、ダイアナは立ち止まる。
「アシュレイ、アシュレイ……ごめん。あの……ライラに言付けてくれない?」
「へ?」
「私、カナロールに残る」
「え、え……?」
「伝えて。……大丈夫。私はずっとここに居る。片方の居場所が判れば、繋がってるも同然だもん。……私達は」
「で、でも……ライラが」
そんなの困る。泣いちゃったらどうするんだ。叱られるかも知れない。焦るアシュレイに、ダイアナはカインを指差した。
「私、誰の代わりにもなれないケド、あの人の傍にいる」
「うへぇ……!?」
語彙力が崩壊したアシュレイが、声を裏返した。
「自信無いし~、突っ返されたら戻って来るから、ちょっとそこ立って待ってて!」
「おお、意外と冷静……? む、胸は貸すけど惚れないでね!?」
ダイアナはカインの方へ駆け戻った。不思議そうにして、こちらを見ている様がおかしい。これから、きっと、もっと彼は不思議がる。
眉を寄せて、向こうからも寄って来た。
一人は解き放たれた様に、もう一人は、鎖に繋がれたまま。向かい合った。勢いづいたまま、ダイアナは彼の胸に飛び込んだ。勢いは大事である。
カインは盛大に不審そうだった。けれど、これすらもはや、ダイアナには可笑しいだけだった。
「忘れ物か」
「そうだよ」
「なんだ。取って来る」
「コレなの」
ダイアナはカインの首に回した腕を、自分の方へ力いっぱい引いた。なにをされるのかと驚いてカインが反り返る前に、ピョンと飛びつき、彼の胴に両足を絡ませ、唇を強引に奪ってやった。
「ぶっ!? なんの真似だ」
「貴方が好き」
「止めろ、は、放せ!」
「私は、貴方をここに一人で立たせたりしない」
「良いから放せ!」
ダイアナは離れない。もはや格闘技めいて来たが、絶対に離れないと決めて、カインにしがみ付いた。
「私は、貴方を一人ぼっちにしないよ!」
「なにを言っている? アシュレイに何か吹き込まれたのか!?」
「ううん、違う! ねー、私を傍に置いて!」
「何が狙いだ? あ、おい! アシュレイが行ってしまうぞ!」
返品不可の方が良いだろう、と機転を利かせたアシュレイが、道の角を曲がって行ってしまった。
ダイアナは『やっぱりナイスコンビね、私達!』と、アシュレイに心で呼びかけつつも、カインにしがみ付く。
「なんにも! お金も物も要らない。きゃっ、痛い!」
押し返して来たカインの腕に痛がるフリをして、それに怯んだところにまた飛び掛かり、ダイアナは彼の首に再び腕を回す事に成功した。
「へへへ、心もだよ! 何も要らないから、私を傍に置かない?」
「あんたを傍に置いて、どうするのだ」
「『のだ』じゃないでしょ」
ダイアナは、思い切り眉を寄せているカインの頬を、抓った。
それとは裏腹に、彼の身体に胸を押し付け身体を揺すった。
「分かんないの? 童貞?」
「……あんたは娼婦か」
呆れかえった声に、ダイアナはケラケラ笑って、それから急に真面目な顔をし、瞳を潤ませた。
「……それで良いよ。何も求めたりしない」
傲慢かも知れない。けれど、今こう思わずに、いつ思えば良いの?
正面には貴方。背後には別れ。
だから、思うの。心から。
「貴方に寄り添ってあげたいの」
カインの抵抗が、ようやく緩まった。顔を見れば、酷く残酷そうな顔でダイアナを見ていた。踊るステージの下に並ぶ、残酷な視線と同じ光が、彼女を探っている。
けれど、ダイアナはそれでも良かった。むしろ、あのテントで過ごした時間を取り戻せるような、そんな馬鹿げた気になっていた。
―――良いよ。貴方は男なんだ。私は貴方が男って知ってて、口説いてるんだ。
「―――好きよ。ねぇ、どうする?」
「……不審な動きを見せたら、直ぐに追い出すからな」
フン、と、ダイアナは笑って、カインに抱き着いたままぐるりと強引に回れ右させると、彼の肩越しから駆けて来た道の先を見た。
道の角からアシュレイが興味津々で成り行きを見守っているのが見えたので、ダイアナは人差し指と親指を丸くひっつけ、パチリと彼にウインクした。
* * * * * * *
それは、与えるものだと言います。
しかし、与えたいものを、欲しがられない場合もあります。
そうじゃないものばかりを奪われる事もあります。
それでも与えたいと思います。
私がいなければ、どうなってしまうでしょう。
そんな風に、深刻に悩んだりして。
そして、それは大抵杞憂で。
神様は私に心を下さったけれど、捨ててしまいたい。
けれど、そうしたら私はうたを捉えられない。
ああ!! うた、うた、うた―――!!
私はうたわずにはいられない。
自らの愛情に突き刺され、心が死んでも、死んでも、どれだけ死んでも。
これは、何かの罠かしら?