全てがうた⑥
穏やかな日だった。何かしらの切っ掛けが降って来るのはこんな日だと、大体決まっている事を彼は知らなかった。
その日、アシュレイはレイリンと、音楽室で楽器を楽しんでいた。
レイリンが軽々と楽し気に、次から次へ新譜を覚えて行くのを褒め称えながら、菓子を摘まんでは口に放り込んでダラダラしていた。
そんな時、ユーミットが音楽室にふらりと現れたのだった。
彼は、ウー、ウー、と唸りながら、ドアを引っ掻いていた。
アシュレイがそれを優しく止めさせて、「一緒に聴く?」と尋ねると、ユーミットは返事もせずにスルリとアシュレイの横をすり抜けて行って、毛皮のローチェアに座り込んだ。
「お兄様も弾いてみますか?」
レイリンが微笑んで言って、弦の少ない楽器をユーミットに持たせてやった。
ユーミットは何処を見ているのか解らない表情のまま、それでも手に持たされた物が音を出したのに反応した。
弦を弾く爪を指に着ける時も大人しかったので、レイリンが彼の手を取って弦を弾いて見せると、子供の様に微笑んで見せてくれた。
「ユーミット、やってごらんよ」
アシュレイがそっと彼の後ろに回り込み、指に弾き爪を付けた彼の手首を支えて弦を弾くと、ユーミットは声を上げて身体を揺すった。
そうしてアシュレイが短い曲を弾く間、ユーミットは大人しくされるがままにされていた。時々声をあげる様は歌っている様だった。
「上手ね」
レイリンが微笑んで、ユーミットの腕を優しく撫でる。
アシュレイも笑って、「レイリンより才能あるかも」なんて冗談を言って、兄妹水入らずのひと時を楽しんでいた。
ユーミットはもっと音を出したかったのか、アシュレイから身体を放し、自分から弦を弾いた。
「あ、そんなに強くは駄目よ―――」
バチン。
ユーミットのがむしゃらな力に弦が切れ、たまたま運悪く鞭の様に翻って彼の腕を打った。驚いたユーミットが喚いて暴れ出す。
「お兄様!」
「あああ!!」
「ユーミット! レイリン、危ない!」
「きゃあ!?」
爪を付けたユーミットの手が、彼を宥めようと近づいたレイリンの腕を微かに裂いた。
アシュレイは舌打ちし、仕方なしにユーミットを押さえつけた。
「レイリン! 人を呼んで来てくれ!」
頷き慌てて部屋を出て行くレイリンを見送って、アシュレイはユーミットを全力で押さえつけた。
「ユーミット、ユーミット……大丈夫。大丈夫だよ……!」
譜面が散らばり、ひらひら舞った。
レイリンのお気に入りの弦楽器が幾つか、もみ合う男二人のどこかにぶつかって、整然と吊るされている所から床に落ちてワンワン鳴った。
理性を失くした人間の男を押さえつけるのは容易では無く、ほとんど彼の上に乗る様な形になった。
その時、召使いたちと共に、ロスタムが現れたのだった。
彼は眠りの妖精サンドをすぐに出して、暴れるユーミットを難なく眠らせてしまうと、彼と召使いたちを部屋から出して、アシュレイに厳しい顔で向き合った。
アシュレイは、ユーミットが珍しく音楽室に来た理由がわかった気がした。滅多に屋敷にいない父の気配に、自分達を探して逃げて来たのだ、と。
「馬鹿馬鹿しい騒ぎを起こすな! どうして妖魔を使わなかった」
義理とは言え、兄弟に妖魔を使いたくなかった、なんて、ロスタムはどう思うだろうか。言ってみたところで、彼の耳から心へ届くだろうか。
不快な問答を、アシュレイはする気はなかった。
「サンドを持っていません」
「嘘を吐くな。それに、サンド以外でも何とでも出来た筈だ」
「……<血の契約>をお忘れですか?」
「危害では無いではないか」
「危ない橋は渡れません」
フン、とロスタムは鼻息を荒々しく吐いた。
「まぁ、アイツには危害を加えん方が良いのは確かだ」
アシュレイは「どうでも良いから早くどっか行け」と内心思いながら、目を細めてソッポを向いた。
「情がおありなんですね。―――一応?」
「……ハッ。いいか、アシュレイ。お前はアイツが邪魔だろう。今の様な機会に魔が差すかも知れんが、アイツには呪いが掛かっているから絶対に変な気だけは起こすな」
「つくづく話が合いませんね。僕はユーミットを―――今、何て?」
「母親がアイツに呪いを掛けた。悪意を弾き、跳ね返す強力な呪いだ」
憎々し気に言うロスタムは、そんな不思議な呪いを信じている様子だった。
―――試したんだ、誰かで。
アシュレイはすぐさまそう察し、頬の内側を噛んだ。
散らばった譜面に、床にたたきつけられ壊れた楽器たち。自分の胸中の様だった。
「……妖魔ですか?」
「妖魔で儂が悩むと思うか? ……しかし、そうだ。妖魔の編み出した呪いだろう。アイツのあのイカれた様も、その後遺症だ」
「……では、あなたは彼に手を掛けられないワケですね」
俯いて言うアシュレイに、ロスタムは唸る。酷く残念そうに唸るので、アシュレイの胃の中が燃える様に熱くなった。
「儂もな、危ない橋は渡らん」
ロスタムは、ユーミットやレイリンの命が、少なからずアシュレイの足枷になっている事など、ちっとも気付いていなかったのだろう。彼は、アシュレイが現状に満足し、それ以上を望んでいると思い込んでいた。
だから、アシュレイに忠告をしたのだ。決定的なミスだと知らずに。
*
「失った様な、手に入れた様な、不思議な気持ちだった」
アシュレイはそう言って、カインとリリスを交互に見た。
「それだけじゃない。ロスタムは、ユーミットを女と寝かせてる」
カインとリリスが顔を歪めた。
ロスタムの執念にゾッとして、リリスは腕を擦る。
気色の悪い冷たさの空気に、アシュレイは首を横に振った。
「まともじゃない。だから僕、皇女との婚約に乗り気だったんだ。父親にならずに済むからね……全然上手く行ってないみたいだけど」
「アッシュ……」
カインはどう答えて良いか分からず、虚しくアシュレイの名をよんだ。アシュレイは先ほどまでダイアナが使っていたベッドに胡坐をかくと、挑戦的にカインを見上げる。
「……僕は馬鹿か?」
「……」
「僕の周りに『まとも』は幾つある?」
そう言って、アシュレイはカインとリリスを交互に見た。まるで、彼らを非難する様に。「君たちだって」。そんな風に。
「ユーミットは僕がいなくなっても無事だ。せいぜいナザール家の脚を引っ張ってくれるさ。……彼に恨みは無いけど……。彼が無事だという事は、レイリンも無事だ。あの娘は社交界にも出ているし、ユーミットが楯になってる。手を掛けるメリットが無い。後は、僕に彼らや君たちを吹っ切る切っ掛けさえあれば……」
俯いて、両手の指を、何かの計算でもする様に立てたり折り曲げたりしながら、ほとんど独り言の様に捲し立てて行くアシュレイの顔を、リリスが床に膝を突いて覗き込んだ。
「それが、酒場で拾った女の子だって言うの?」
「拾ってない。買ってもない」
リリスは猛然と首を振り、アシュレイの手に手を重ねた。
「あなた、逃げたいだけよ! いつもいつも……っ! どうせ飽きるか使い道が無くなったら……」
「リリス!!」
カインがリリスの言葉を遮った。彼女に賛同してやりたいが、言い方があんまりな気がした。
アシュレイは、彼らの前では珍しく感情的に顔を高揚させて、リリスを睨み付けた。
「言えよ……もっと僕をガッカリさせろ」
「……アッシュ……アッシュ……違うの……」
「二人共止めてくれ。リリス、謝れ。アッシュも……落ち着いてくれ」
カインがおずおずと間に入って、アシュレイとリリスはお互いに顔を背けた。
朝が終わろうとしていた。




