突風
死を意識したのは、初めての事だった。
ハティは竜の吐き出す業火に焼かれ、目を見開いた。
灼熱は彼の肺を焼いて、内側からも彼を破壊しようとする。
ああ、もう駄目だ。そう思った矢先、声がした。
「レイヴィン!!」
悲痛な声だった。その声と共に、ハティの小さな身体を鷲掴みにしていた鍵爪が緩み、唐突に消えた。
ハティは濡れた床の上に、焦げた煙を上げながら放り出される。
駆け寄って来るディアナが見えた。
やっぱり泣いている。
しかし、ディアナはハティの傍へ駆けつける前に、レイヴィンに捕まり、彼の腕の中だ。
「皇女、どこへ行っていらしたのですか。皆、心配しておりました」
「レイヴィン! 放して!」
「それは小さくてもフェンリルです。近寄るのは危険です」
ハティは黒焦げの姿で、唸りながらよろよろと起き上がった。
それを目にしたディアナの、心底ホッとした顔に、彼は唸る。
今は、彼女の為に敵でいなければいけないのだ。
それ抜きでも、ハティは激しい怒りを感じた。
自分とあの男の間のディアナ。同じ領域の、それでも違う、人間のディアナ。その事を隠さない、ディアナ。
「もう……動けないでしょう。あんなに痛めつけて……!!」
「突然襲って来たのです。私に向って来て良かった」
実際、ハティは運が悪かった。自分を過信し過ぎたのも良くなかった。レイヴィンに出会わず、彼に立ち向かわなければ、ちょっと騒動を起こしてそれで終わりだったのに。
侍女達にガウンで身を包まれながら、ディアナはレイヴィンに乞う。
「お願いします。逃がしてあげて」
「逃がす?」
「はい」
「何故です? このまま解き放てるわけが無い」
「……もう、懲りてここには来ません……」
「しかし、セイレーンを逃がしたなどと喋っておりましたので、捕えて詳細を調べねばなりません」
と、言う事は、殺す気がはなから無かったと言う事か、とハティはゾッとした。あれで手加減されていたのだ。
ディアナはレイヴィンとハティの間に立ちふさがって、レイヴィンを見た。
「それなら私も……私も見ました。セイレーンは逃げました……もう二度と、人間の歌子に化ける事は無いでしょう!」
「ほう……」
「その場所にいたのです」
「一人で行ったのですか」
「はい……カイン隊長に連れて帰って貰いました」
「カインはその場には?」
「いませんでした!」
顔を蒼白にして、ディアナはレイヴィンに答える。
ああ、やっぱり何かがどんどんずれて行く。そんな風に、悲しく思いながら。
ハティが四本足で立ち上がった。
レイヴィンがディアナの腕を引いて、自分の後ろに彼女を守ろうとするのに、ディアナはもがいて反抗した。
―――ハティ、逃げて!!
「皇女、危険です」
「止めて! レイヴィン!!」
レイヴィンが手の平をハティに向けたので、ディアナはその腕に縋る。
「お願い。可愛そうです」
「可哀想などと……」
「許しません」
見上げて来るディアナの瞳に、レイヴィンはハッとする。
今まで見た事のない、強い威圧を感じて。
「駄目よ……。許さない」
「……ディアナ……皇女」
グルル……と複数の唸り声がレイヴィンの耳に聞こえて来た。
いつの間にか、レイヴィンとディアナの周りを大量の妖魔が囲っている。建物や、バルコニーの外に茂る木々の間からも、夜闇に発行する幾つもの目玉がレイヴィンを見据えていた。
「レイヴィン。手を、下ろして」
「では……皇女自らの手で封魔を」
「しません」
―――ハティ、お願い。早く逃げて。
ディアナはハティの方をチラリと見る。
ハティは起き上がれたものの、宙に飛び上がれずにいた。焼け焦げた毛皮を震わせて、こちらを睨み付けている。
「お叱りは受けましょう」
ディアナの身体が、いとも容易く振り払われた。
レイヴィンは自由になった腕をハティに向けて、手のひらをかざす。
「―――!! レイヴィン!!」
レイヴィンの考え通り、ディアナの出した妖魔たちは、歯がゆそうに彼を見ているだけだ。
彼はニヤリと笑う。
何故ディアナの気を引いたのか解らないが、ここまで彼女にさせた目の前の狼が、気に入らなくて仕方ない。
レイヴィンの手の平が、青銀に光る。
ハティの鉛色の瞳に、しっかりと反射して光る。
ディアナが泣き喚いてレイヴィンの腕に再び縋った。
おおーーーん。
ハティが吼えた。
喉は焼け、いつもの様に気高い遠吠えは出来なかったけれど。
レイヴィンともみ合うディアナと、目が合った。
―――悪ぃ、ディアナ。
ハティはもう一声、吼える。
おおーん、と、何処からか遠吠えが帰って来た。
ハティはそれにすかさず返す。
おおーん……。おおおーん……。
「……?」
「まずい! 皇女、城へ!!」
レイヴィンがディアナを抱きかかえて、城内へ押し込めながら空を仰いだ。
ハティは、焦れた様に遠吠えを重ねる。
程なくして、遥か彼方の上空から狼の咆哮が轟いた。
雷の様な、耳をつんざく轟音だ。
その咆哮を筆頭に、何十もの咆哮と獣の息遣い、唸り声がぐんぐん近づいて来る。
「仲間を呼んだ!!」
「……!!」
ハティはグッグ、と嗤って、レイヴィンを見る。
『セイレーンは捕まらない』
狼の群れが来た。
先頭を切って来た狼が、安堵によろめいたハティの首根っこを咥えて夜空へ舞い上がる。次に続く群集が一斉に咆哮を上げて、レイヴィンを吹っ飛ばし、レイヴィンはバルコニーと湯殿を仕切るガラス戸に叩きつけられ、ガラスが派手な音を立てて割れた。レイヴィンがぶつかっていない部分も粉々に吹き飛んで、ディアナが妖魔を使って防がなければ、中にいた女中たちも何もかも消し飛んでいたかも知れない。
ガラスを浴びて床に尻を突いたレイヴィンに、一匹の狼が牙を剥いて突進して行った。
『止せ!! 戻れ!!』
ハティが狼を制止した。
反応良く、その狼はレイヴィンの手前でグンと飛び上がって、彼の突き出して来る封魔を避けた。
巻き上がる突風の様に、狼の群れがカナロール城の横をかすめて駆け抜けていく。
レイヴィンが憎々し気に宙へ舞い上がって行く狼を睨んだ。
その横を、ディアナがバルコニーの柵ギリギリまで駆けて行く。
「皇女!!」
柵から乗り出してこちらを見上げるディアナを見ながら、ハティは遠吠えをする。彼を迎えに来た狼たちの様に、雄々しくは無理だけれど。
ディアナが、遠吠えを返せないのを、知っているけれど。
ああ、アイツがディアナを抑え付けている。
あの腕を噛み千切ってやりたいけれど、自分には無理だ。
あの人間はなんだ―――?
あんな妖魔を従えて……。
まさか、フェンリルである自分をこんな目に遭わせるとは!!
悔しさに、未だに毛皮が燃える様だ。
『ハティ、お前は一匹狼だと思ってたぞ』
ハティの首根っこを咥えて飛ぶ狼が、少し嘲笑気味に言った。
ハティはフンと鼻を鳴らす。
『そうだが、事情があった』
『人間なんぞに、背を向ける事情か』
グルル、とハティは不機嫌に唸って、狼をけん制した。
『オレだから助かった。お前らだったら、消し炭だ』
『……助けに来たのに』
『ああ、助かった。あんなのに封魔されるなら、死んだ方がマシだ』
『「事情」か』
『イヤ、それはまた別の話だ』
ディアナの立場を守る為、自分で安易に言い出した事に、仲間を巻き込んでしまったが、シレッと黙っている事にする。あの場で助かりゃいいんだ、助かりゃ。
『……帰るか?』
狼がおずおず聞くので、ハティは目を細め空の彼方、進行方向を見る。
ハティを運ぶ狼は、縄張りへ帰るか、と彼に聞いていた。
ハティは一人でふらふらするのが好きな質だし、セイレーンを探している。
もう随分と縄張りへは戻っていないな、と自分の焼けた身体を見下ろした。
一度、帰っても良いかも知れない。あー、人間なんぞにやられて、弱気になってンな。
彼は自嘲し、『そだな』と答えた。
どうせ、こんなズタボロの毛皮じゃ、みっともなくてフラフラ出来やしねぇ。
『じゃあ、帰ろう。皆心配してる』
『オウ。………そうだ、末の兄弟を見つけた』
狼が期待の籠った声を上げた。
『スクォルか?』
『スクォルはオレの上だろ』
きゅん、と狼は残念そうだ。
『スクォルも、会って無い』
『アイツは……。まぁ、それより、末っ子だ。ちょっと変わってんだ。フェンリルの事、ほとんど知らねぇんだ』
『そんなの』フン、と狼が鼻を鳴らした。
『ただの狼じゃないのか?』
『イヤ、魔力が満ちてる。羨ましい程』
『一緒に連れてくか?』
『聞いてみっか』
砂浜だ、とハティが言うと、狼たちは二手に分かれた。
何十頭と勢いに任せて駆け付けたので、全員での行動は目立つし面倒臭いのだ。
これだけ駆けつけて来るという事は、意外とハティは狼望があるのかも知れない。
強い個体はこういう種族にとって、やはりカリスマを持つのだろう。
さておき、十数頭を残して、残りは先に帰って行く。
ハティと残りの狼たちは、遠吠えをし合って彼らを見送った。
『さぁ、あんまり騒がねぇようにしねぇとな。人間はすぐ群がって来る』
*
砂浜に『末っ子』はいなかった。
『……まぁ、そうだよな』
ジッとしているわけもないか。
ハティは海岸線を見渡して、ハミエルの匂いを辿る。
まだ、近い。
『どうする?』
『少し、探す』
ハティは遠吠えを小さくした。
仲間を呼んだ遠吠えを、ハミエルも聴いていたはずだ。
弱々っちい半身の危険を考えて動かなかったかも知れないが、来てくれなかったのはちょっと寂しかった。けれど、少し誇らしい。そういうツレ無い所がなんとなく自分に似ている様な、そんな気がして。
遠吠えは返って来た。
『やっぱ、近くにいる』
ハティは耳をピンと立てる。
他の狼たちも、同じように耳をピンと立てた。
海の方からだ。
『そういやぁ、小島があったかな』
ハティと狼たちは、再び宙に浮きあがり、海上を駆けて行った。
途中、馬鹿げたセイレーンの審判の場所を横切った。
女を縛り付ける杭は、とっぷりと海の中に沈んでいる。
決死の覚悟でやって来たディアナの咲かせた花々が、波に儚く揺れていた。




