笑うナイフ
「待って待って待って! 行っちゃ駄目だ!」
アシュレイがわたわた駆けて来て通せんぼをするので、ライラは彼を睨み付けた。
「あたしに悲鳴をあげられるか、ハミエルに噛み付かれるかどっちがいい?」
「ライラに噛み付かれたい! じゃなくて、早く隠れた方がいい。〈セイレーンの矢〉に連行されたいの?」
「あんたこそ、また警察に連行されたいの?」
「僕の荷物を取りに行くだけだよ。ライラ、この街を離れた方がいい。僕が連れてってあげるから」
え、永遠に。と付け足したので、ライラは顔を歪めた。
「永遠に、だよ」
「二回も言わなくていい!……どっちにしろ、街から出れないわ。あたしは『六角塔』の所有物なの。街の門を潜れないのよ」
街にはちゃんと街を出入りする者を監視する門がある。小さな街なので、大した審査も身分を証明する旅券も必要無いけれど、『六角塔』の店主の所有物として顔が割れているライラは通れない。
***************************
十二の頃、ライラは一度顔をお祈り用のスカーフで隠して、門を駆け抜けようとした事がある。
その頃にはもう歌は完璧に歌えていたし、どこか別のところで歌って日銭を稼いで……と、考え無しに取った行動だった。
もちろん、捕まえられて、スカーフを取られて脱走劇はおじゃんになった。
店主は罰として、観客のいるステージ上で縛られたライラのお尻をひん剥いて平手で打った。店内は異様な興奮に包まれていた様に思う。
「さぁ! お客様の中に悪い娘にお仕置きをしたい方はいらっしゃいますか!」
ドッと店内が沸いた。
ライラにとって、忘れられない屈辱的な時間。
知らない手に次々打たれてお尻が真っ赤になると「サール! サール!」と男達が囃した。
痛くて、恥ずかしくて、悔しくて、泣いていると店主がライラを見下ろして「分かったか」と冷たく、重く言った。
「次はもっと酷いからな」
ライラは震えながら鼻をすすって、頷くしかなかった……。
闘志は湧かなかった。それ程、自尊心を滅多打ちにされたのだった。
苦い思い出だ。
それは、ずっとずっと、ライラの心にピッタリと刃を滑らせる、熱くて冷たいナイフ。そのナイフはいつも大声で狂った様に笑っている。ライラの心を、嘲りと無関心で小さく小さく刻み続ける。
……思い出しちゃった……。
「所有物か」
ポツリとアシュレイが言った。その表情は、なんともつまらなそうだった。
ライラは怯んだ。彼に「つまらない」と思われるのが怖かったからだった。
自分が「つまらない」者だと思われるのは、相手が誰であろうと、ライラは厭だった。
なのでいつも、高飛車で、背伸びをしている。
そして、他者に見せる自分は虚栄の姿だとちゃんと自覚があるから、ライラは心が休まらない。
「どういう契約なの?」
「契約なんか無い。買われたの」
「なんだ、簡単だね。要は金って事」
カチンと来てライラは顔を怒らせた。
何か鋭い言葉をぶつけてやろうとしたその時、馬のいななきが聞こえた。
ハッとしてそちらを見ると、再び白馬に乗った〈セイレーンの矢〉達が駆けて来るところだった。
アシュレイの言葉が効いていたのか、さすがにライラはスカーフをサッと被ると、アシュレイの後ろにスッと移動した。
アシュレイはどさくさに紛れてライラの肩を抱き、〈セイレーンの矢〉から自らも身を隠す様に背を向けた。
慌しく蹄の音が遠のくと、ライラはチラと掛けて行く〈セイレーンの矢〉の後ろ姿を見た。隊はカーブした道を駆け抜け、建物の向こうに消える一瞬だけ、真横からその姿をさらした。
先頭を走る麗しの隊長を娘らしい未練を持って盗み見た時、ライラは全身の毛を逆立てた。
隊長に片腕で支えられる様に、ダイアナが馬に乗っていた。
「誰か捕まった」
と、アシュレイが呟いた。
ライラは途端に駆け出した。
「ライラ!」
ライラはがむしゃらに〈セイレーンの矢〉を追いかけ走った。
足がもつれて転んだところを、アシュレイが抱え起こしてくれた。
ライラは唸ってもがくと、また駆け出そうとする。
既に隊は見えなくなっている。
思いがけない程の力でアシュレイに押さえつけられて、ライラはヘナヘナと地面に座り込んだ。
「ダイアナが」
「え?」
「ダイアナよ! あたしの友達なの!」
アシュレイが苦い顔をして、隊の残して行った砂埃を見た。
もう〈セイレーンの矢〉の蹄の音すら聞こえない。
ライラはアシュレイの腕をぶんと払うと、よろよろ立ち上がり、震える声を出した。
「追いかけなくちゃ。きっと、あたしを庇ったの! そういう子だから」
いつも、姉妹みたいに仲良くしていた。
「気が合う」というのもあったけど、ダイアナはライラに、ライラがダイアナに与える以上の優しさを与えてくれていた。
だから、というのは打算だろうか?でも、ライラはそこが好きだった。
自分以上の優しさを持っている彼女が。
そして、ライラは知っている。
ダイアナは強くない。
いつもあたしを助けたり守ったりして、それが平気なフリをするけれど。
あたしの事をあたし以上に知っているけれど。
あたしだって、あんたの事を知っているんだよ。
ダイアナ、きっと今、あんたの手は震えている。
アシュレイがライラに手を貸しながら、言い聞かせる様に言った。
「大丈夫、大丈夫だよ、ライラ」
「何が!? 離してよ!」
「僕は彼と知り合いだから、大丈夫」
「!? ……じゃあ、じゃあすぐにアイツに言ってよ! ダイアナを返してって!」
「すぐには無理だ。相手は馬だ」
ライラは激しく首を振った。
混乱して、取り乱していた。
「殺されてしまうの?」
「大丈夫だよ」
「イヤだ……ダイ……」
「とにかく君の店に行こう」
「どうして? ダイアナを」
うん、とアシュレイは頷いた。
ライラの肩に手を置くと、また「大丈夫」と言った。暖かな茶色の目が、とても優しかった。