雨の中④
嵐の中城へ戻ると、すぐさま慣れ親しんだ侍女たちが、優しい香りと共に、彼女の体をたくさんの柔らかい布で包んだ。
彼女以上に濡れている者など、侍女たちの目には入らないし、例え目に入ったとしても気にも留めないといった風に、侍女たちは彼女を一心に労った。
彼女はそんな侍女たちに、思わず泣いてしまいそうになりながらも、それを堪えた。そして、表情を動かさなかった。―――命の灯を消す間際の、小さな生き物の様な虚ろな顔は、侍女たちの同情を誘った。
「ディアナ様、急な嵐で、恐ろしかったでございましょう?」
「身体が冷え切っております。お湯をご用意致しておりますからね」
「温かい飲み物もお持ちしますわ。さ、ディアナ様。……お手を」
彼女は優しい侍女たちに手を伸べられて、心ここに在らずといった様子で手を差し出した。
良く手入れされた頼もしくも優しい手に、まだまだ子供の様に白く小さい手を託し、彼女は虚ろな気持ちで導かれるままにトボトボと歩いた。
廊下を照らす蝋燭が、嵐の勢いで吹き込む風に揺れ、影を揺らす。
その揺らめきを眺めながら、余程この動く影の方が生き物めいている、と彼女は心で独り言ち、湿気を孕んだ空気をなるべく吸い込まない様に浅く息をした。
五感全てに、嫌悪を感じた。
心の中は、かつて持った事の無い熱を帯びていた。
*
「待ちなさい! 乱暴は止めて!」
砂浜での出来事は、彼女には耐え難かった。
騎士の独りが群青色の髪をした少女へ槍の柄を振り上げた時、彼女は神輿から飛び出した。自分にそんな勇気があるとは思わなかった。
しかし、これから海へ漬けてしまう女達の尊厳すら奪う事は、どうしても許せなかった。自分は執行の実質的長であると言うのに。
「どういう権限で手を上げるのです? この方々はカナロールの為にこれから恐ろしい目に遭うと言うのに! 海を見なさい! カナロールの黒い海を!」
「皇女……」
「悲しんで! この状況をもっと悲しんで下さい!」
八つ当たりだ、とは分かっている。
自分がレイヴィンを止められればいいのだ。
でも止められない。
レイヴィンは城の中にも、彼女にも深く食い込んでいる。
そして、彼の周りは彼に強く賛同するものばかりだ。
カイン隊長がそのいい例だ。打倒セイレーンを固く心に誓っている。
しかし、レイヴィンはどうだろうか? 彼の仮面の下の傷は、妖魔に付けられたものだ。しかし、それに恨み言を言う姿を見た事が無い。……ただ単に、彼女の前で言わないだけなのだろうか。
否、彼女には、カイン隊長とは別質の執念をセイレーンに持っている様に、思えてならなかった。
それはカイン隊長の持つものよりも、粘着質で貪欲に思えた。
―――そう、貪欲さを感じるのだ。
何故なのかは分らない。痛々しい程の貪欲さは、見ていて苦しい。
出来ればすぐにでも、彼の目の前にセイレーンを出してやりたい位だ。……けれど、ハティは――大好きな友達は『いる』と言うけれど……セイレーンは本当に存在しているのだろうか?
減る一方の妖魔に対して、封魔の国カナロールがどうしてこんなにも源を断ちたがっているのか、分らない。そんな彼女を置いてきぼりにして、レイヴィンは進み続ける。
砂浜で、乱暴な騎士を止めに入った彼女に、彼女の愛しい人は耳元でそっとこう言った。
『貴女の為です』
どういう事? と聞き返す威勢など、彼女には無かった。
彼以外の前で彼の意図を明かさせるのは危険だと、彼女の奥底に眠る王族の本能が指先にピリッとした刺激を送り、その後で理解が追いついて来る。
彼女は天を仰いだ。
潮風にカモメが遊んでいる。お馴染みの灰色の空は、ゆっくりと風向きに乗り、雲を流して行く。彼女はそこに、幻をつくる。
「セイレーン狩り」を訴え始め、志半ばで逝去した、父の顔を―――。
王の逝去を知っている者は、レイヴィンと彼の周りの僅かな者達だけだ。外には病に伏せっているなどと、未だにしゃあしゃあと言って除けている。
王の寝台には影武者が横たわっている。人に化けるのが上手い、レイヴィンの妖魔が―――。
けれど、彼女はそれを責められない。
何故なら彼女は、王女として立つ事が、宿命を背負う事が、まだ満足に出来ない。
全ては、至らない自分を守る為だと、解っているから。
だから、彼女は彼を止められない。
唇を噛んで神輿に再び収まると、彼女は身体を縮めて膝を抱いた。
程なくして、歌が聴こえ出した。
美しい声だった。やがて声は重なり出した。
〽
なにを燃やせば
空に届きますか
悲しみですか
怒りでしょうか……
彼女の琥珀色の瞳に涙が溢れ、零れ落ちた。
神輿の床に蹲って、震えながら耳を押えた。
私がセイレーンなら良いのに。
すぐに貴方の前に跪くわ。
そうしたら、私の首を、跳ねて下さい。
ああ……うたよ、終わって。
*
香油の華やかな香りが充満する、浅く広い石造りの浴槽へと侍女たちに促され、お湯に腰を浸からせた。
自分の裸体を見下ろして、昼下がりにレイヴィンが確かに彼女を抱いたのだという何かしらの痕跡を探したけれど、彼女の身体はいつも通り柔らかな白色で、彼の痕跡など残っていなかった。
毎回、彼女はそれを確認し、そしてその度に、あの切ない時間が幻の様に思えてしまうのだった。
腕は、彼の身体の逞しさを未だ熱を帯びて覚えているというのに。
ゴオン、と雷鳴が響き、続きのバルコニーから激しい光が湯殿と彼女を照らした。
彼女はバルコニーから見える荒れ狂う空と海を、目を細めて睨んだ。一時的に雷が納まり、外が暗くなると、湯殿とバルコニーを仕切るガラスに、頼りない裸の自分が映った。
彼の痕跡すら覚えられない細い身体……。
小枝の様だ。
どうして彼は、こんなモノとあんなひと時を望むのだろう。
彼は何が欲しいのだろう。
私が欲しいものと、何が違うのだろう。
風が一際強く仕切りガラスを揺すって鳴いた。
甲高い耳につく音は、誰かの唄声の様で、彼女は唇を噛む。
同じものを望んではいけないのかも知れない。
この思い付きは、胸の中で焼ける気持ちにしっくりと収まった。
「冷えて仕方がないので、もう少しお湯に入っています。今日は心が痛みました」
「皇女様……過酷なお勤めでございましたね」
そう侍女が言うので、彼女は「そうね」とお湯の水面を見つめた。
「一人で色々考えたいと思っているのですが……」
「ええ、はい。承知いたしました。上がられる時はお声掛け下さいませ」
「……大丈夫です。それよりも、私の部屋に香油の贈り物があるの。珍しい花で、千本で数滴しか取れないとか。取って来て下さる?」
「その様な物……届いていたでしょうか?」
「ええ。偶々、自分の手で頂いたのです」
訝し気な侍女へ、返答が震えない様に両手を揉んだ。
「……お願い」
「わかりました」
「皆払って、湯殿の戸を閉めて下さいね。本当の、本当に一人になりたいの」
「ええ、香油もすぐに取って参りますので。さ、皆、脱衣でお控えなさい」
*
誰もいない湯殿で、ディアナはスッと立ち上がる。
暖かいお湯が、彼女の身体からサッと下へ引いて行った。
琥珀の瞳が、危うげに揺れた。




