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雨の中③

「食い逃げ?」


 カインはほとんど無表情で、部下のささやかな報告を聞いた。

 セイレーンの審判があらかた終わり、朝まで城で待機中のカインは、任務中突如始まった嵐からようやく解放されてたった今、彼にあてがわれた城の一室にびしょ濡れで辿り着いたところだった。

 疲れや明日への厭な緊張、家に帰宅した際に見るであろう、悲しみに暮れる少女の姿や、やはり悲しそうなリリスの顔を思い起こして気を重くもしていた。

 そこへ、『食い逃げ』などと任務外の下らない報告を持ち込まれれば、カインじゃなくとも苛立つ事だろう。

 全身からピリピリとした空気を放ち出した上司に、部下もタジタジの様子で、「自分もこの様な報告をするのは不本意であります!」と言った表情を必死で作っている。

 彼は一番下っ端だったので、審判と嵐で疲れ切った先輩達に報告の役目を押し付けられたのだ。

 苛立ち出したカインには、そんな事察してやれたりしない。むしろ、どうでも良過ぎて馬鹿にされている気分になった。

 元々抑揚の無い喋り方に、更に冷気の様なものが混ざった。


「俺の今の仕事は、街の風紀を守る事じゃない」


 カインの脳裏には、ロスタム・ナザールの言葉が蘇っていた。


『君には向いておらんよ』


 次いで、リリスの声もする。


『私、いやよ、貴方がそんな……』


 カインは切れ長の瞳を閉じて、眉間に皺を寄せた。


 きっと、風紀とやらを守っていれば、文句は言われないのだろう。リリスは笑って迎えてくれる。きっと……多分……。

 そんな事はカインにだって分かっている。割り切っているつもりだ。


 これは、俺のしたい事だ。それに、だって、アイツは言ってくれたじゃないか?


『そういうのは関係ないんだ』


 カインは押し殺した様に息を吐いた。


 ―――二枚舌め……。


「申し訳ありません……」


 良いタイミングで、部下が謝った。カインはチラと青味のかかったグレーの瞳で彼を一瞥し、片手をフイ、と振った。

 そうすると、何となく気が紛れた。謝罪を許す事によって、自分には余裕がある、と自分に証明出来る気がした。

 部下はこの機に「何故・今・それを」を、一気にカインへ報告した。


「実は……その食い逃げ、奇妙な三人組らしく……」

「まだ続きがあるのか。いらん。警邏へ報告しろ」


 またもやイラつきをぶり返されて、カインは苛立たし気だ。

 部下は身を竦ませて、それでも「言って来い」と言われた事をカインへ一気に伝えた。カイン隊長も怖いが、先輩たちだって彼には怖い存在だ。


「申し訳ありません。しかし、警邏からの報告なのです。その中の一人が」

「なんだ!」

「ハイ! あの、アシュレイ・ナザール様では無いか……と」

「バカを言うな。アシュレイ・ナザールは怪我をして自宅で寝ている」

「……はい……。しかし、背格好が似ている様で……その話を聞いたので、一応お耳に入れておこうかと判断しました」

「アイツは食い逃げなどする必要は無い。……顔は見たのか?」


 心のどこかで「でもやるかもしれん」と声がしたので、カインは一応部下に聞いた。

 

「いえ、でも、高価そうな礼装を身に付けていたそうです。」

「……今、俺は食い逃げ犯の話を聞いているんだよな?」

「……はい」


 部下が言うには、何処かの舞踏会でその礼服を着たアシュレイの姿を覚えている者がいたらしかった。話を流して来たのは警邏の人間だから、その舞踏会で警備をしてアシュレイを見たのだろう。

余りにもその立派な服装が中身とそぐわなくて、その違和感の為に覚えていたのかも知れない。そう、どちらかと言うと、その人物はアシュレイよりも服を覚えていた可能性が高かった。

 否、しかし、とカインは首を振る。

 アシュレイは昨夜大立ち回りの末、負傷して気を失っている。翌日の昼に街を出歩く事が出来る程、丈夫でも体力があるわけでも無い。ましてや、食い逃げなど。


―――しかし。


 カインは頭に神経を集中させる為、呼吸と身体の動きを止めた。


『死んでも良いよ』

『彼女を』

『奪われるくらいなら』


 あの時の、アシュレイの目。立ち方。声。

 アイツ、まだ何かするつもりか?

 

 カインは眩暈を覚えて近くにあった椅子に腰を下ろした。


「隊長、大丈夫ですか? お疲れなのでは」

「ああ、大丈夫だ」

「それから……」


 まだあるのか、さっきの気遣いはなんだ? とカインは思いながら、部下を睨み付けた。

 部下は縮み上がりながらも、これだけは隊長を満足させられる報告だ、とばかりに声を張った。


「その三人組の中に、フェンリルが混ざっていたそうです」

「……なに?」

「人の子の姿に化けて現れたそうです」

「何故それを一番に言わないんだ!」


 カインは勢いよく立ち上がった。


 封魔師の国カナロールに、フェンリルがわざわざ何の用事なのか。一度も見た事の無い幻中の幻、フェンリルの名を聞いて、滅多に沸かないカインの血が沸いた。

 セイレーンが消え(と、仮説されている)ると共に、今ではほとんど伝説となっているその幻獣は、たった一頭の一吼えで街を壊滅させる程の力があると語られている。

 そんな化け物が国に現れたと言うのに、この部下はどうしてこの報告を一番最後に持って来るのか? 間が抜けているにも程がある。


「本当にフェンリルか」

「は、ハッ! み、耳が生えていたそうです」

「耳など他の妖魔も生やす。特徴を言え。どういう耳だ」

「紛れもなく狼の耳だったそうです。そ、それから、食堂に牙を置いて行ったと―――」

「牙を……?」


 それは面妖だ。


「その場には封魔師もいました。その者も、あれはフェンリルだろうと……」

「……それで、フェンリルは封魔出来たのか」


 望みは薄いが一応聞くと、部下は直ぐに首を横に振った。


「と、逃走したそうです」

「どこへ」

「わ、わかりません。人ごみに紛れてしまったらしく……」

「被害はどれ程だ」


 凄惨な数を頭の中で割り出しながら、カインは尋ねた。

 

「被害は……ありません」

「被害が無し……?」

「あ、物損はあります」

「……もう良い黙れ」


 物損などどうでも良い。それよりも、フェンリルが街中に現れて、被害が無し? そんな馬鹿な。奴らは人を喰うと言うのに。


 ―――どういう事だ?

 ―――フェンリル……。

 ―――牙……。

 ―――……。否、話の出だしから……。

 ―――食い逃げ……。

 ―――……アシュレイ。


 昨夜対峙したアシュレイの目が、カインの脳裏でギラッと光った気がして、カインはハッとした。


 ―――アシュレイ! 絶対に何か絡んでいる!


 カインは使えない部下に踵を返し、城外へ駆け出した。


 今度こそ、何か仕出かせばどうなるか分からない。

 その前に止めなくては!

 カインは自分の白馬が世話になっている城の馬屋へ飛び込んで行き、それに驚いた馬の世話役達に片手を上げて労う様な態度を見せた後、ようやくご馳走に在り付こうとしていた白馬の首を叩いた。

 白馬は主人の表情を見ると、直ぐに気持ちの切り替えをし、煌めく流星の様に真っ白な尾を一振りすると、カインの腕に従順に首を擦り付けた。

 カインは表情を緩め、白馬の大きな頭に手を乗せると小声で呟いた。


「悪いが、また海岸へ行く」


 ぶるる、とカインの小声に合わせる様に、白馬はごく小さく嘶いて答えた。どこかの馬主と馬に見せてやりたい場面だった。

 カインは白馬にサッと跨り馬屋を出ると、鐙を勢い良く蹴って駆け出した。

 嵐は依然収まらず、空も海も轟々と渦巻き、砕け散り、巻き上がっていた。


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